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神樂岡東陵



神樂岡東陵 (かぐらがおかのひがしのみささぎ) 2008年05月17日訪問

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神樂岡東陵

 宗忠神社の参道を下り、真如堂に向けて東に進む途中に、神樂岡東陵が民家の中にある。神樂岡東陵には陽成天皇が祀られている。
 陽成天皇は、貞観10年(869)清和天皇の第一皇子・貞明親王として生まれている。母は権中納言藤原長良の娘で女御藤原高子である。藤原高子については岡崎神社の項でも触れたように、元慶2年(878)岡崎の地に清和天皇の護願寺として東光寺を建立している。東天王社はその鎮守社として祀られたとも言われている。 生後3ヶ月で立太子となり、貞観18年(876)9歳で清和天皇から譲位され帝位に就く。在位の初めは父上皇と母高子そして摂政藤原基経が協力して政務を見ている。清和上皇は、元慶3年(879)出家して仏門に帰依している。そして仏寺巡拝の旅に出た翌年の元慶4年(880)に崩御している。その後陽成天皇と基経の関係は良くなかったようで、自ら辞職を申し出ている。これが認められなかったため、基経は元慶7年(883)より出仕を拒否するようになっている。このあたりの事情は明らかではないが、陽成天皇の元服に際し、基経が自分の娘を入内させようとしたのを、母である高子が拒否したためではないかとされている。基経にとって高子は同母の妹に当たるが、叔父の藤原良房に見込まれてその養嗣子となっているので、藤原氏の中においては複雑な関係にあるといっても良いだろう。

 元慶7年(883)天皇の乳母である紀全子の子・源益が宮中で殺害される。犯人が誰であったか分らなかったが、陽成天皇が殴り殺したと噂されていたことが後の資料である玉葉に記されている。この他にも馬好きの陽成天皇が厩を禁中につくり、卑位の者に世話をさせていたことが明らかになる。その他にも陽成天皇は、蛙や蛇を捕え、犬と猿を闘わせて喜び、人を木に登らせて墜落死させたという話しも残されている。
 元慶8年(884)基経は天皇の廃立を考え、淳和天皇の第2皇子・恒貞親王に拒絶されたため仁明天皇の第3皇子・時康親王を新帝の候補者としている。その上で公卿を集めて天皇の廃位と時康親王の推戴を決し、ついに若い陽成天皇を退位に追い込んでいる。

 後の時代に陽成天皇は暴君であったから廃位されたとも言われているが、退位した時が満15歳であったことを考えるとそのまま信じることは難しい。そのため暴君説も自身の意向に沿う光孝・宇多帝を擁立した経緯を隠蔽するための作為だとも考えられる。
 仁和3年(887)宇多天皇の即位に際しても、基経は詔勅の「宜しく阿衡の任をもって卿の任とせよ」との一文に怒り、一切の政務を放棄している。北野天満宮の項大豊神社の項で触れたように所謂、阿衡事件である。どうも基経は自分の意向をこのような方法で周囲に伝えたのであろう。だから陽成天皇の時も同じ表現方法が使われたと思われる。また、日本書紀から始まる六国史の最後を飾る日本三代実録は清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の三代の正史として残されているが、この歴史書は宇多天皇が藤原時平や菅原道真達に編纂を命じたことにより始まっていることを考えると、全てを事実として受け入れることも憚れる。 上皇になった陽成天皇は、恨みを持って短命に終わることなく、実に長く生きている。55歳で即位した宇多天皇は当然として、その皇子である醍醐天皇よりも長命で、朱雀天皇、村上天皇の皇統継承を見届け、天暦3年(949)に亡くなっている。

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神樂岡東陵 宗忠神社の横には有名な吉田山荘がある

 陽成天皇の子の元平親王は源氏の先祖となっているため、清和源氏ではなく、実際には陽成源氏と呼ぶべきかも知れない。このあたりも歴史から抹殺された事実でもある。

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神樂岡東陵 吉田山から真如堂を望む

「神樂岡東陵」 の地図





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No.名称緯度経度
 神樂岡東陵 35.0224135.7873

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