高台寺 その7
臨済宗建仁寺派 鷲峰山 高台寺(こうだいじ)その7 2009年11月29日訪問
高台寺 その5と高台寺 その6では、高台寺創設以前に衰退した雲居寺と金山院、引攝寺について書いてきた。この項では、岩栖院と高台寺建立時のことについて書いてみたい。
「京都坊目誌」(新修京都叢書刊行会 光彩社 1969年刊)には、岩栖院ノ址という項目で比較的詳細に綴られているので、これに従って書いて行く。かつての岩栖院は下河原町高台寺の地にあった。
後に室町幕府管領を務めることとなる細川満元は、天授4年(1378)細川頼元の長男として生まれている。そして応永4年(1397)頼元の死去により家督を継ぎ、摂津・土佐・讃岐・丹波の守護となり、応永19年(1412)3月には管領職に就任している。その就任中には、北畠満雅の反乱や上杉禅秀の乱、そして足利義嗣の殺害事件などが発生するように、有力守護大名と足利幕府第4代将軍である足利義持、及びその側近の富樫満成との対立など様々な問題が起こった。満元は義持をよく補佐してこれを全て処理し、守護連合制度の確立に努めてきた。応永28年(1421)7月に管領を辞任、その5年後の応永33年(1426)10月16日49歳で死去している。満元の法名が岩栖院悦道道歓とあるように、岩栖院は満元が生前に東山に創立した臨済宗の寺院である。なお、上京区に残る岩栖院町は細川満元邸があった地である。
雲居寺と同様に応仁元年(1467)8月の兵火により、岩栖院は焼亡している。京都坊目誌では満元の子孫である仁栄が希世霊彦を開基として岩栖院を再興したとしているが、これは細川勝元のことである。勝元の法名は龍安寺殿宗寶仁榮大居士。また霊彦は幼くして京都南禅寺善住庵に臨済宗大鑑派の斯文正宣に従い、細川満元の養子となった代表的な五山文学僧である。
慶長10年(1605)10月高台寺がこの地に建立されることとなり、高台院がかつて創建した寺町京極の康徳寺と、岩栖院は境内地を交換することで移転している。この康徳寺については、高台寺創設に係ることのため、後ほど詳しく触れることとする。岩栖院が移った先は狭かったようで、幾年も経ずして南禅寺塔頭雲門院内に再度移転している。さらに「京都坊目誌」によると、岩栖院は南禅寺の雲門庵の塔頭となった後、明治12年(1879)1月16日に雲門庵と合併している。天龍寺の塔頭でも触れたように、明治初年の廃仏毀釈や上知令に南禅寺も多くの境内地を没収されただけに留まらず、塔頭の統廃合が激しく行なわれた。嘉永6年(1853)に荊叟東玟によって再興された雲門庵も明治21年(1888)本字に併合されている。そのため岩栖院の名残を南禅寺に見つけることは出来ない。
康徳寺と高台寺の創建については、「新版 古寺巡礼 京都37 高台寺」(淡交社 2009年刊)に掲載されている高野澄氏の「高台寺の歴史 “高台寺”わたくし自身の寺」に詳しく記されている。
康徳寺は北政所の生母である朝日殿を弔うために建立した寺院であり、寺町通御霊馬場にあったと推定されている。御霊神社の東、西園寺のある一帯は高徳寺町と呼ばれ、康徳寺があった地とされている。曹洞宗の弓箴善彊を開山に迎え100石の寺領を寄進している。寺号は朝日殿の法名である康徳寺殿松屋妙貞大姉から名付けられている。朝日殿は慶長3年(1598)8月11日に没しているが、これは豊臣秀吉の死の7日前の出来事であった。繰り返しになるが、康徳寺は北政所が生母の菩提を弔うために建立した寺院であり、ある意味で豊臣家ではなく木下家として建立した寺院であったと考えてよいだろう。
朝日は、寧と秀吉の結婚を快く思ってはいなかったばかりか、その結婚自体に反対していた。賢くて健気な寧の結婚相手はれっきとした武将でなくてはならないと考えていた朝日にとって、秀吉は結婚相手としては不足であったのだろう。生母から反対された寧は朝日の妹の七曲に救いを求めている。七曲は織田信長の家臣・浅野長勝と結婚していた。長勝と七曲は寧を養女にむかえ、秀吉との結婚を実現させた。このような経緯より秀吉と朝日殿の確執は終生残っている。浅野家と木下家に対する処遇の差がその表われとも思えるが、さらに確執を大きくしたことは間違いがない。
奇しくも憎悪しあった秀吉と朝日殿は、慶長3年8月に亡くなっている。秀吉の遺体はその日のうちに伏見城から運び出され東山の方広寺の裏に当たる阿弥陀ヶ峰の頂に埋葬されている。9月より五奉行の一人、前田玄以によって社の造営が始まり、慶長4年(1599)4月に竣工している。そして16日から24日まで正遷宮祭が行なわれ、後陽成天皇より正一位の神位と豊国大明神の神号が与えられている。西は大和大路、南は新熊野、北は音羽川まで広がる社域と一万石の社領を有する豊臣家の威信をかけたものであった。 浅野長勝は天正3年(1575)までには既に亡くなっていたと考えられている。七曲殿は長勝の死後も永らえ、慶長8年(1603)4月18日に亡くなっている。この年に豊臣秀頼と千姫の婚儀が行なわれ、豊臣家と徳川幕府の間に一応の安定が築かれたように見えた。北政所は高台院の院号を賜わったのも、同じく慶長8年(1603)であった。恐らくこの時期に自らの終焉の時を考え、高台寺造営を決断したのではないかと思われる。すなわち自らの菩提を弔うための寺号を得るために、院号を後陽成天皇に求めたとも考えられる。
養父母である浅野長勝と七曲殿の霊を弔い、生母の菩提所である康徳寺を併合した新たな寺院を開創する地を豊国社にも近い東山に求めた。そして、かつての雲居寺の地であり、岩栖院が存在する祇園社の南に敷地を定めている。岩栖院とは康徳寺の敷地と交換することで話しがまとまる。しかし予定された境内地には公家の鷲尾家の領地が含まれていたため、高台寺開創には鷲尾家との交渉が必要となった。鷲尾家については高台寺 その6でも触れたように、この地には藤原家成の別業があった。そして家成の死後、この地に葬られている。その長男の藤原隆季の時代に一宇を建立し、鷲峰山金仙院(金山院あるいは金山寺)と号している。隆季は四条家の開祖となり、金仙院は代々四条家によって護持されてきた。四条隆親が亡くなると二家に分かれる。隆親の長男の房名が四条家を継ぎ、三男の隆良が新たに鷲尾家を起こしている。そして鷲尾家がこの地を領有し、江戸時代初期に至る。鷲尾家も家名と同じ土地への執着は強く、簡単には同意しなかったようだ。「大日本史料第12編之三」(東京大学史料編纂所 東京大学出版 1902年発行 1969年復刻)の慶長10年(1605)6月28日条に高台寺造立について記されているが、これに添えられた「時慶卿記」慶長9年(1604)閏8月2日と9日の条には下記のようにある。
慶長九年閏八月二日、天晴、残暑アリ、彼岸ニ入
鷲尾来儀、名字地康徳寺屋敷ニ成間、替地事、北政所○高台院ヘ為訴訟談合也
九日、夜雨、明而止、曇天
鷲尾ヨリ敷地之儀、替地訴訟ノ儀ニ指図文到来、孝蔵主ヘ持遣、伏見へ被越由候
鷲尾家は高台院の申入れを不服として訴訟を「時慶卿記」の筆者である西洞院時慶に相談している。そして1週間後に訴訟の案文ができたので時慶経由で高台院の女性用人である孝蔵主へ渡されている。孝蔵主はこの訴状を伏見の徳川家康に見せると言い、実質的には鷲尾家を脅したようなことが残されている。実際に家康に相談したかは分からないが、その効果は十分にあったのであろう。慶長6年(1601)四辻季満が鷲尾隆尚として鷲尾家を相続している。先代の鷲尾隆康が天文2年(1533)に没しているので、60年以上空白の期間が鷲尾家には存在していた。また四辻季満は天正19年(1591)に勅勘を得て出奔している。その10年後に家康の執り成しで勅免され環任している。恐らく、頭の切れる孝蔵主はその辺りを承知の上で鷲尾家に対して、最も効果的な圧力をかけたのであろう。このようなことが高台寺開創の1年前に行なわれていた。
先にも触れたように「大日本史料」の慶長10年(1605)6月28日条の綱文は以下のようになっている。
二十八日、辛未、高台院浅野氏嘗テ造立スル所ノ、京都寺町康徳寺ヲ東山ニ移シ、規模ヲ恢宏ニシ、改メテ高台寺ト号ス、工就ルヲ持テ、是日移リテ之ニ居ル
同じく「時慶卿記」の6月27日及び28日の条には、高台寺 その4でも取り上げたように、6月27日では、明日北政所がお越しになるので、西洞院時慶の内儀は「康徳寺移徒」に御供とすると時慶に告げている。そして翌日の28日、内儀は「康徳寺へ、移徒に北政所がお越しになった御供に出られた」と跡部信氏は「高台院と豊臣家」(大阪城天守閣紀要第34号 2005年)において解釈している。すなわち移徒の主語を康徳寺に入寺される「長老」すなわち弓箴善彊とし、高台院が康徳寺あるいは高台寺に移徒せず三本木屋敷で終生過ごしたと推定している。
「当代記」には竣工日時不詳ながら慶長11年(1606)に造立したこととなっている。
地形ハ福島左衛門太夫、加藤主計頭、政所ヘ為合力被普請○慶長見聞録案紙同ジ
これらに続いて「大日本史料」に掲載されている「高台寺誌稿」には康徳寺開創から高台寺への経緯が記されている。
於是、徳川氏今ノ地ヲトシ、酒井忠世、土井利勝ヲ以テ共御用掛ト為シ、所司代板倉勝重ヲ普請奉行トシ、堀監物 ○直政ヲ普請掛リトシ、大ニ伽藍ヲ造営ス
○徳川氏以下ノ事、当代記、慶長見聞録案紙、寛政重修諸家譜、酒井(姫路)、土井(古河)、堀(須坂)等ノ家譜、及ビ板倉政要記ニハ所見ナシ、但シ堀直政卒シテ、此寺ニ葬ラル、事ハ、慶長十三年二月二十六日ニ其條アリ
同十一年落成シ、之ニ移リ住ス
○中略、移住ヲ十一年トセルハ、時慶卿記ト合ハズ、蓋シ誤ナラン
以上のように徳川家康の全面的な支援によって慶長10年(1605)6月28日に高台寺は落成している。さらに同年9月1日には幕府は高台寺寺領の安堵を認め、諸役を免じ、竹木の伐採や殺生などを禁じている。なお康徳寺は、玉雲院と名を改め塔頭に列せられている。元和8年(1622)三江紹益を迎え、高台寺とともに臨済宗に改められている。その後、荒廃した玉雲院を享和年間(1801~4)圭峰が再建している。残念ながら現在は存在していない。
高台寺には木下家や浅野家の墓所が残されている。高台院の墓は霊屋の高台院木像の下にある。高台院の父母、すなわち杉原定利と朝日殿は前述のように康徳寺に祀られていたが、高台寺建立とともに東山に移される。この時、壮麗な霊屋が建立されたが、寛政元年(1789)2月に焼失し、寛政9年(1797)五輪石塔が再建されている。高台院の養父母の浅野長勝・七曲殿も高台寺に祀られている。
高台院の兄弟たちの墓も高台寺に設けられている。長男の木下家定は関ヶ原の戦いで中立を守ったことが評価され、備中国足守藩初代藩主となっている。慶長13年(1608)に没している。
家定の長男の勝俊は若狭国小浜の領主となったことより若狭少将と称される。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの前哨戦となる伏見城の戦いで逃亡したことにより、除封されている。一時期、高台院の執り成しにより木下家定の遺領である備中国足守藩の藩主となるが、徳川幕府の命に反したため失領となる。長嘯子と名乗り、東山に歌仙堂を建て、歌人としての人生を歩む。晩年は大原野の勝時寺で過ごし、同地で没する。父の家定の墓の南西に6尺9寸の墓が南面する。
家定の次男の利房は若狭国高浜を領していた。関ヶ原の戦いでは西軍に属したため責を問われて改易されている。家定の遺領である備中国足守を兄の勝俊と争ったため、家康に没収されている。大阪の陣で戦功を挙げたことにより足守藩藩主に返り咲く。圓徳院の北にある墓地に1丈2尺の墓が南面する。
家定の四男の延俊は姫路城代を務め、関ヶ原の戦いにおいて終始東軍で戦う。戦後豊後国日出を拝領する。寛永19年(1624)に没す。墓所は日出町松屋寺にあるが、高台寺にも墓が築かれている。
この他に木下利房の長男で足守藩第3代藩主となった木下利當の墓も高台寺にある。元和3年(1617)より幕府に仕えるが、寛永14年(1637)の父の死去に伴い家督を継ぐ。寛永19年(1642)仁和寺造営奉行を務める。文武両道の名君であり、特に槍術に関しては古今無双と言われるほどの腕前で、その槍術は心流、淡路流もしくは木下流として世に伝えられた。剣術においても、小野家より小野派一刀流を学。寛文元年(1662)59歳で没す。利房が継いだ足守藩と延俊の日出藩は幕末まで木下家が藩主となり、廃藩置県を迎えている。安芸国広島を領した浅野家ほどは大きくはないものの、幕府によって改易されることもなく全うしたこととなる。
なお、高台院の父方の祖父となる杉原家利の墓も、明治35年(1902)に尾張国東春日井の正眼寺より木下家の子孫により移されている。
「高台寺 その7」 の地図
高台寺 その7 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | ▼ 高台寺 台所坂 | 35.0005 | 135.7802 |
02 | ▼ 高台寺 庫裏 | 35.0008 | 135.7808 |
03 | ▼ 高台寺 遺芳庵 | 35.0011 | 135.7813 |
04 | ▼ 高台寺 偃月池 | 35.001 | 135.7815 |
05 | ▼ 高台寺 臥龍池 | 35.0008 | 135.7818 |
06 | 高台寺 書院 | 35.0009 | 135.7812 |
07 | 高台寺 方丈 | 35.0007 | 135.7812 |
08 | ▼ 高台寺 方丈南庭 | 35.0005 | 135.7812 |
09 | ▼ 高台寺 勅使門 | 35.0004 | 135.7812 |
10 | ▼ 高台寺 観月台 | 35.0009 | 135.7814 |
11 | ▼ 高台寺 開山堂 | 35.0009 | 135.7816 |
12 | ▼ 高台寺 臥龍廊 | 35.0009 | 135.7819 |
13 | ▼ 高台寺 霊屋 | 35.0009 | 135.7821 |
14 | ▼ 高台寺 傘亭 | 35.0006 | 135.7826 |
15 | ▼ 高台寺 時雨亭 | 35.0005 | 135.7826 |
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