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高台寺 その9



臨済宗建仁寺派 鷲峰山 高台寺(こうだいじ)その9 2009年11月29日訪問

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高台寺 勅使門

 高台寺 その8では、明治18年(1885)11月の火災によりした仏殿の東北に忠義堂が築かれ、近年の高台寺境内の整備事業に伴い、撤去される運命であったものを大原野の正法寺に移したところまで説明してきた。ここからは高台寺の主要伽藍について書いて行く。 忠魂堂の東北にはかつて桧皮葺唐破風の屋根を持った唐門があった。高台寺創建時の建築で、豊臣氏の船屋形を上屋とし、門扉には菊桐章が施されていた。唐門の北には方丈が南面していた。かつての方丈は文禄の役で凱旋した諸将を祝宴した殿舎を伏見から移したものとされている。長押の上には人物鳥獣樹木等の彫刻が施され、各室の障壁には金地に花鳥図が狩野永徳及び山楽の筆によって描かれていた。「京都坊目誌」では現在の建物は大正2年(1912)10月に再建されたものとしている。
 方丈の後方には小方丈があったが寛政元年(1789)2月の火災で焼失している。塔頭の永興院にあった高台院の化粧殿をこの地に移し小方丈としたが、残念ながら唐門・方丈とともに小方丈も文久3年(1863)7月の攘夷派の放火により再び焼失している。方丈が再建された時に、失われた唐門と小方丈に代わって勅使門と書院が建設されている。

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高台寺 勅使門 2008年5月16日撮影
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高台寺 開山堂 2008年5月16日撮影

 開山堂は小方丈の東にあり南面する。「京都坊目誌」では三江紹益の寂した慶安3年(1650)の建築としているが、現在休止中の文化庁の国指定文化財等データベースでは、慶長10年(1605)の建立としているので、桁行五間梁間三間で入瓦葺本母屋造の建物は創建当初のものと考えてよいだろう。開山堂内陣、墓塔の上段の厨子内には三江紹益の坐像が祀られている。その前方の左右の厨子にも普請掛として建立に貢献した堀監物直政の木造と木下家定・雲照院夫妻の木造が納められている。開山堂外陣の格天井には、秀吉が瀬戸内海航行に用いた御座船の天井が用いられている。内陣の中央天井に描かれている金地四季草花図は高台院の御所車の天井を移したものとされている。その他にも開山堂の天井には龍や迦陵頻伽などが描かれている。

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高台寺 霊屋 2008年5月16日撮影
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高台寺 霊屋

 開山堂の東高台に四面築垣された中に建てられた堂宇が霊屋である。桁行四間梁間三間、桧皮葺宝形造の建物は、正面向拝一間に唐破風を載せている。この建物も開山堂と共に創建当時のものとされている。霊屋の内陣には高台寺蒔絵の施された須弥壇が築かれている。中央の厨子内には大随求菩薩と吉祥天・毘沙門天が祀られている。その右の厨子に豊臣秀吉像、左の厨子に高台院像が安置されている。内陣の障壁画は狩野光信一派によるもの。須弥壇には黒漆地に楽器尽くしの文様、厨子の扉も黒漆地に薄と桐文、松と竹と棚引く雲に小桐文などが描かれている。これらが豊臣家の興隆だけではなく、桃山時代の文化的な高まりを現在に伝えている。

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高台寺 楼船廊と観月台 2008年5月16日撮影
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高台寺 観月台
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高台寺 臥龍廊 2008年5月16日撮影

 書院から開山堂そして霊屋の間は歩廊でつながれている。書院から開山堂の間の歩廊は楼船廊と呼ばれ、偃月池の上に架けられている。池地の中には観月台と呼ばれる小さな楼閣が設けられている。桁行一間梁間一間で三方桧皮葺唐破風という珍しい構成となっている。これも伏見城の遺構と伝えられている。開山堂と霊屋の間には臥龍池の北畔の傾斜面を上る臥龍廊が作られている。緩やかな曲線を描いて上る歩廊を龍に見た立て名付けられている。なお楼船廊から観月台そして開山堂から臥龍廊を経て霊屋に至る部分は、寛政文久の2度の火災で焼失することがなかったため創建当初の姿を残している。

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高台寺 傘亭と時雨亭 2008年5月16日撮影

 霊屋のさらに東の斜面の上には、伏見城から移築したと伝えられる傘亭と時雨亭の2つの茶室が建てられている。
 傘亭は宝形造茅葺きの素朴な建物で、内部には天井を設けず、宝形の茅葺きをそのままに現わす化粧屋根裏となっている。詳しくこの茶室を見ると、建物を東西に二分する位置に梁が掛けられている。この梁から丸太の自然木を宝形屋根の中心に束として立てている。この束の先に小さな正方形の板が乗せられ、中心に向けて屋根の四面から延びる竹の垂木を押さえる役割を果たしている。また垂木も太い竹と細い小舞竹を交互に組み合わせることで、垂木の重苦しさを解消している。円錐状に垂木が掛けられている訳ではないが、中央に集中する垂木とその中心に向けて立てられた束によって、傘亭という名前が付けられている。束には安閑窟という額が掛けられている。千利休の作とも言われているが、宮元建次氏の「京都名庭を歩く」(光文社 2004年刊)の中では、利休の自刃が伏見城造営より以前の天正19年(1591)のことであったことから、もし千利休の遺構であるならば聚楽第に建てられた茶室が伏見城に移され、そして高台寺に運ばれたのでなければ説明がつかないとしている。その上で、この建物はもっと開放的な東屋として設計されていたものを、いずれかの時期に草庵風の茶室に改造が行われたため、たとえ利休の手によるものであってもその原型はかなり失われていると考えている。
 また西和夫氏も「京都で「建築」に出会う」(彰国社 2005年刊)の中で傘亭のことを書いている。古くは傘亭と時雨亭の二棟を合わせて安閑窟と呼んでいたこと、二棟とも秀吉の伏見城から移されたとしているが裏付ける資料もなく肯定も否定も出来ないこと、傘亭は伏見城の山里丸にあった学問所にあった建物の可能性があること、そして現在の建物は昭和9年(1934)の台風で倒壊したものを江戸時代の起こし絵図を元に復元したため、旧状を伝えているか疑問であることをあげている。その上で、傘亭の化粧屋根裏の美しさに注目している。

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高台寺 時雨亭

 時雨亭は傘亭の南にあり、珍しい2階建ての茶室となっている。2階南側の上段の間は柱間に壁や建具を設けない吹き放しとなっている。傘亭同様伏見城からの移築とされ、こちらも千利休の作、秀吉好みと伝えられている。
 安永9年(1780)に刊行された都名所図会には傘亭の記述はあるが、時雨亭については何も書き残されていない。さらに図会では、理由は判らないが安閑窟と傘亭が分けて描かれている。また天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会でも

     安閑窟〔山上の傘の亭をいふ、利休の好なり〕

という説明はあるが、時雨亭については触れていない。そして寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会には傘亭と並ぶ時雨亭の図会が残されている。これはほぼ現在と同じ外観である。先の「京都名庭を歩く」にも同様のことが挙げられている。最初に安閑窟として現れるのが高台寺建立後80年以上経った資料であった。確かに宮元氏の指摘どおり、千利休あるいは伏見城の遺構であればもっと早い時期から有名になっていても不思議ではない。
 さらに宮元氏は伏見屋敷にあった成就庵と時雨亭の類似性に着目し、時雨亭の作者を小堀遠州ではないかと推測している。その根拠として「甫公伝書」と「松屋会記」に残された成就庵の間取りや外観のスケッチと、傘亭と時雨亭をつなぐ屋根付き土間廊下、そしてその土間廊下に対して45度に入ってくる遠州好みを挙げている。この45度に配置された飛び石は南禅寺金地院の庭にも見られる。ただし南禅寺金地院の飛び石は後の時代に遠州好みとして付け加えられたものと見られている。また2つの茶室を直線状の土間廊下で結ぶ手法は、遠州の小室城時代や伏見奉行時代に類型が見られる一方、他の茶匠に見られない手法でもある。

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高台寺

「高台寺 その9」 の地図





高台寺 その9 のMarker List

No.名称緯度経度
01 ▼ 高台寺 台所坂 35.0005135.7802
02 ▼ 高台寺 庫裏 35.0008135.7808
03 ▼ 高台寺 遺芳庵 35.0011135.7813
04 ▼ 高台寺 偃月池 35.001135.7815
05 ▼ 高台寺 臥龍池 35.0008135.7818
06   高台寺 書院 35.0009135.7812
07   高台寺 方丈 35.0007135.7812
08 ▼ 高台寺 方丈南庭 35.0005135.7812
09 ▼ 高台寺 勅使門 35.0004135.7812
10 ▼ 高台寺 観月台 35.0009135.7814
11 ▼ 高台寺 開山堂 35.0009135.7816
12 ▼ 高台寺 臥龍廊 35.0009135.7819
13 ▼ 高台寺 霊屋 35.0009135.7821
14 ▼ 高台寺 傘亭 35.0006135.7826
15 ▼ 高台寺 時雨亭 35.0005135.7826

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