京都御苑 賀陽宮邸跡 その3
京都御苑 賀陽宮邸跡(きょうとぎょえん かやのみやていあと)その3 2010年1月17日訪問
京都御苑 賀陽宮邸跡 その2が条約勅許と将軍継嗣問題の行方で紙数が尽きた。ここでは更に進めて朝彦親王を中心とした安政の大獄について書いてみる。
安政5年(1858)4月23日、彦根藩主・井伊直弼は大老が就任すると、翌24日には堀田正睦をハリスに会見させ条約調印の延期を申し込んでいる。そして25日に調印期日を7月27日まで延期することに成功する。6月朔日、幕府は養君一件を公式に発表するが、誰を世子としたかは明かさなかった。幕府閣僚たちが世論の反発を憚ったためであるが、内実は既に紀州藩徳川慶福に確定していた。
調印が延期された日米条約であったが、6月13日に下田港に入港した米国汽船によってイギリスがインドにおいて叛乱を平定し、英仏連合軍が清兵を破ったとの情報がもたらされる。ハリスは英仏が日本に至る前に条約調印を行うことが日本のためであると主張し、6月19日に調印する。
この急な条約調印が一橋派の最後の反抗となった不時登城を引き起こしている。その6月23日、予定通り登城した一橋慶喜は大老の井伊直弼と接見し、条約調印、さらに宿次奉書を以って京に知らせたことを質し、幕府当局者が上京する必要性を述べている。さらに養君が治定したかを確認し、直弼より紀州慶福に決定した旨を引き出している。
翌24日、登城前の井伊直弼を越前藩主・松平慶永(春嶽)が訪れ、慶喜と同様に条約調印と養君問題についての問答を行っている。慶永は紀州擁立の発表を遅らせ、京を使い最後の逆転を果たそうと考えていたようだ。結局、直弼は面談を打ち切り登城し、春嶽もかねてからの申し合わせに従い登城する。この日登城したのは水戸の徳川斉昭と藩主慶篤の父子、尾張藩主・徳川慶恕そして松平慶永であった。大老及び老中は御用多忙ということで6時間近く待たされた後、会見は始まった。しかし前日の慶喜以来の内容の繰り返しとなり、会見では大老を論破することもできず凡そ一時間で終了している。戦術を練らずに感情の赴くままに会見に臨んだこと、そして松平慶永が御三家ではないことを理由に、別室での久世広周との面談となったことで、一橋派の完敗となった。翌25日、慶福は将軍家定の御養子となったことが発表される。
7月3日夜あるいは4日、病床にあった家定は大老と老中を寝所に召し、尾張・水戸・越後の不時登城に関する処罰を決したとされている。そして7月5日より処分が伝達される。徳川斉昭は駒込屋敷にて御慎、徳川慶篤は登城停止、松平慶永は隠居・御慎、徳川慶恕は隠居・御慎、そして一橋慶喜は登城停止となった。なお将軍家定が崩御したのは7月6日とされているが、尾水越処分の前だったか後だったかは明らかではない。いずれにしても家定ではなく、井伊直弼による裁定であることは明らかである。将軍崩御による政治的空白を設けることなく、禍根は直弼によって予め摘み取られたということだ。
主だった幕府内における処分は、以上のように行われたが、これ以前の5月6日には既に川路聖謨が西丸留守居に左遷、6月23日にも堀田正睦と松平忠固も罷免されている。ますます井伊直弼は反対派を排除し政権を強固なものとしている。
これに対して京都では水戸への勅諚降下の動きが始まっている。当時九条尚忠は関白の要職にはあったものの宮中では孤立し、実際の活動にはほとんど没交渉であったようだ。その間隙を突いて、降下運動が7月中旬から下旬にかけて始まっている。この運動者は日下部伊三次、鵜飼父子そして在京の儒者、浪人、諸有志であり、三条実萬の周辺から起こっている。
8月8日に降下された勅諚は御趣意書と別紙から成り、「孝明天皇紀 巻85」(平安神宮 1967年刊)の安政5年(1968)8月4日の条に全文が掲載されている。御趣意書は、1)勅許なく日米修好通商条約に調印したことへの呵責と詳細な説明の要求(「三家或ハ大老上京))、2)御三家及び諸大名と協力して公武合体し、攘夷推進のための幕政改革の遂行の2点を説いている。そして、「格別之儀ヲ以無御隔意被仰進候 此段不悪御聞取ニ相成候様被遊度御沙汰之事」と記している。
また、別紙は下記のとおりである。
勅諚之趣被仰進候 右ハ国家之大事ハ勿論
徳川家ヲ御扶助之思召ニ候間 会議有之
御安全之様可有勘考旨以出格之思召被仰出
候間、猶同列之方々三卿家門之衆以上隠居
ニ至迄列藩一同ニモ御趣意被相心得候様
向々ヘ伝達可有之被仰出候以上
八月八日
右台紙水戸中納言ヘ添書
この別紙からも明らかなように、御趣意書と別紙は元々水戸藩に下賜するために作られたもので、幕府は事の順序で賜ったものに過ぎないことが分かる。勅諚は8月8日に水戸へ、そして9日に幕府へ下されている。そして縁故のある公家より、尾張、越前、加賀、薩摩、肥後、安芸、長門、因幡、備前、津、阿波、土佐の十三国主へも伝達されている。幕臣で後にジャーナリストとなった福地源一郎は「幕末政治家」(東洋文庫501 1989年刊)で、この勅諚が幕府に「一大打撃」を与えたとしている。幕府の専断を以って調印したものを「諸大名の群議を尽くし奏問し勅許を経ざる可からず」と責めているばかりか、台意を以って尾水越の処分を決したものを「何等の罪状にや人心の帰嚮にも拘はる議なり」としている。これでは幕府の国政執行の権限を停止することとなる。大政委任を否定するような危険性を察知した井伊直弼は、水戸藩に対して勅諚を伝達することを禁じ、幕府より諸藩に公表している。そして勅諚の真意に対して真っ向から反論するのではなく、勅諚としての正当性や下賜の手続き上の不備を追及することに論点を摩り替えている。かくして陰惨な安政の大獄が始まる。
親交のあった間部詮勝が上京するのを大津で迎え諌言するために、梁川星巌は漢詩25篇を作ったが、安政5年(1968)9月2日コレラに罹り病死している。また水戸藩への密勅降下に尽力した山本貞一郎は幕吏の捕縛が迫るのを感じ、8月29日に自殺している。大老から京の調略を任されていた長野主膳にとって、この2人の死亡は事件の経緯を明らかにする上で大きな障害となると感じ、関係者の一網打尽を急ぐこととなった。
山本貞一郎の兄の近藤茂左衛門は9月5日に大津宿で捕縛されている。梅田雲浜の捕縛時期については、「梅田雲浜遺稿並伝」(有朋堂書店 1929年刊)によると9月5日、7日、8日あるいは9日と諸説あるようだ。恐らく安政の大獄の最初期の捕縛者として雲浜とともに近藤を挙げることになるだろう。さらに同月18日に水戸藩士 鵜飼吉左衛門・幸吉親子と土浦藩士で三条家家来 飯泉喜内、22日に鷹司家・一条家の家臣達と頼三樹三郎、23日に鷹司家諸大夫の小林良典、27日に薩摩藩士の日下部伊三治が捕縛されている。成就院の月照は9月11日に伏見を出て大坂に潜伏するが、11月15日に錦江湾で入水。福井藩士橋本左内は10月22日に藩邸内での謹慎が命じられている。そして吉田松陰は12月26日に野山獄に投獄されている。水戸藩家老安島帯刀と藩士茅根伊予之介達は翌安政6年(1859)4月26日に評定所に出頭している。なお悪逆四天王の一人である池内大学は自首したため軽い処分で釈放されている。その経緯については、世古格太郎の「銘肝録」(「野史台 維新史料叢書 雑4」(東京大学出版会 1975年刊))に詳しく記されている。池内大学については、前述の通り幕府寄りとの噂が広まり周囲から避けられていたため、勅諚降下の時期にはほとんど活動がなかったとされている。そのような結果が、この処分に表われたのであろう。 そしてひととおりの捕縛が終わった10月24日に老中間部詮勝が初めて参内している。既に9月17日に上洛してから1か月が経過している。志士ばかりでなく公卿の家の者まで捕縛されるようになり、御所内も動揺に襲われ、強硬な主張は影を潜めるようになってきた。
安政6年(1859)2月17日、堂上の処分が出る。
慎 尊融法親王 青蓮院門跡
慎十日 一条忠香 内大臣
慎十日 二条斉敬 権大納言
慎五日 久我建通 議奏・権大納言
慎五日 広橋光成 武家伝奏・前棒大納言
慎三十日 万里小路正房 前武家伝奏・前権大納言
慎十日 正親町三条実愛 前議奏加勢・権中納言
この後の4月22日に、戊午の密勅を下賜した四公の処分が出る。孝明天皇は四公の落飾を許さず、隠居慎みと辞官慎みを命ずることで解決したいとしたが、それも受け入れられなかった。
落飾 鷹司政通 前関白
落飾 近衛忠燕 前左大臣
落飾 鷹司輔燕 前右大臣
落飾 三条実萬 前内大臣
さらに朝彦親王に対しては同年12月7日に、退隠 永蟄居が加えられている。理由は「青蓮院宮御事年来御身持不宜」と一乗院時代に仕えていた岡村左近の娘に女児を産ませた不行跡を取り上げている。そして親王は相国寺塔頭の桂芳軒に幽居して獅子王院宮と称している。
文久2年(1862)に赦免された尊融法親王は、同年12月9日には国事御用掛として朝政に復帰している。翌文久3年(1863)8月27日には、いよいよ還俗して中川宮の宮号を名乗る。同年に決行された八月十八日の政変の首謀的な役割を果たす。政変の後、元服を済ませて朝彦の諱を賜り、二品弾正尹に任ぜられる。以後は、弾正尹の通称である尹宮と称される。元治元年(1864)京都御所南方の旧・恭礼門院の女院御所跡地に屋敷が与えられ、宮号を中川宮から賀陽宮に改める。つまり一般に良く知られている中川宮は、正式には僅か1年しか使われていなかったこととなる。
宮号の変わった元治元年(1864)は禁門の変が発生した年でもある。その処分として二度にわたる長州征討が行われたが、幕府は将軍徳川家茂を失い、戦闘でも政治でも敗北を喫している。さらに追い打ちをかけるように慶応2年(1866)12月25日、孝明天皇が崩御する。これにより尊攘派公卿が復権し、朝彦親王ら公武合体派公卿は朝廷内で急速に求心力を失ってゆく。明治元年(1868)8月、朝彦親王は徳川慶喜と通じて幕権回復を企画しているという噂が立ち、同月16日に徳大寺実則、大原重徳、坊城俊政、大木喬任、田中不二麿、中島錫胤、土肥実匡の七人が親王邸を訪ね詰問している。冤罪であったにもかかわらず当時の政治状況において親王を京都に置いておくことを危険と感じた岩倉具視によって、親王は親王及び仁孝天皇御養子・弾正尹を停止、広島に流謫されている。明治2年(1869)3月6日には家族家臣の広島参候が許され、翌3年(1870)閏10月20日に伏見邸に帰還している。明治5年(1872)正月6日、宮の称号を許されている。そして明治8年(1875)新たに久邇宮家を創設している。
親王にとって広島流謫は、安政6年(1859)の安政の大獄に関わる処分以来の2度目の失脚でもある。冤罪であることを主張することも可能であったのにも拘わらず、湯漬けを2膳食した後、広島に向かったとされている。「続日本史籍協会叢書 竹亭回顧録維新前後」(東京大学出版会 1905年発行 1982年覆刻)で高瀬真卿(羽皐)が中島錫胤より聞いたこととしてこの詰問の光景を記している。寺島が岩倉から言われた通り思召云々を申し上げると莞爾とお笑いになって、「其なら食事をして行く少し待ってくれ」と。
また高瀬は広島から復帰した親王が三条実美とともに明治天皇に拝謁した際の逸話を旧薩摩藩士・本田親雄の話しとして書いている。饗応が終わった後、親王は三条公に何の罪で広島に流されたかを尋ねたところ、三条公は返答に大いに窮したということだ。そして宮の言葉と感想を下記のように結んでいる。
一体谿達なお方であるから此の配流を別る遺恨にも思召さず己が居ては邪魔になると言ふ聞た己が居ぬ方がお上のお為になるなら己の流罪は御忠節になつたやうなものだろうと笑てお話になつた。明治十二三年頃の小学読本には中川宮不軌を謀り広島に配流と書てあつたがいつの間にか削つて今日の読本にはない。新旧過渡の時代には斯様の事がいくらもある。
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