円山公園
円山公園(まるやまこうえん) 2008/05/12訪問
円山公園は八坂神社に隣接しているため、写真を撮りながら散策していると境内と園地の境を意識することもなく、行き来することとなる。
この地はもともと真葛原と呼ばれてきた。都名所図会には
真葛原は祇園林のひがし、知恩院の南をいふ。
とあるように、現在の知恩院から八坂神社、安養寺、長建寺、双林寺辺りまでの総称であった。
江戸時代初期、安養寺には六阿弥(左阿弥、春阿弥、弥阿弥、庭阿弥、正阿弥、連阿弥)と呼ばれる塔頭が出現し、お互いに贅を尽くした庭園美を競っていたことが都名所図会の安養寺の項から見える。図会の安養寺門前には左阿弥と正阿弥が並び建っている姿が残っている。六阿弥はそれぞれが貸座敷を営み、元禄期には最盛期を迎えていたらしい。現在の左阿弥と安養寺の位置から推測すると円山公園の東側の大部分は安養寺の寺域であったことが分かる。
明治初期に官有地とされたこの一帯は、明治19年(1886)太政官布告に基づき公園地に指定されたことによって、円山公園が生まれる。京都市内で最も古い公園である。ちなみに「円山」の名は「慈圓山安養寺」の愛称から来ている。そして明治22年(1889)市制施行時に京都府から京都市に移管され、現在も京都市が管理している。
このあたりの経緯については、雨あがりさんのHPで詳しく説明されているので、ご参照ください。
現在の公園のマスタープランは明治45年(1912)武田五一が計画し、園内にある回遊式の日本庭園は小川治兵衛が作庭したもの。
この留学において当時ヨーロッパの新思潮である、アール・ヌーボーやゼセッション様式のデザインを吸収し、日本に紹介する役割を果たしている。建築史的には、その影響を最もよく表しているのが明治40年(1907)竣工の福島行信邸であると必ず教わる。武田の作品の中で最も身近に見ることのできるのは京都三条通に建つ1928ビル(旧毎日新聞社京都支店)ではないだろうか。
帰国後、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)教授となる。その後、法隆寺壁画保存会委員など経て、大正7年(1918)名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)校長 、大正9年(1920)京都帝国大学建築学科教授に就任し、工学部建築学科を創立した。武田の多くの作品とともに関西における建築教育を確立した点で「関西建築界の父」とよばれるのにふさわしい実績だと思う。
京都高等工芸学校の建築学科教授であり、工芸やデザインなども手掛けた武田五一に円山公園のマスタープランが任されたのは、当時であれば適任だったのであろう。八坂神社と知恩院、そして3つの時宗の寺院が既に存在している中に新たな公園を作ることはなかなか難しい課題であったと思われる。加えて敷地は東山の方向に向かって上り、すでに料亭が公園内で営業していたため、整形な土地を確保することは困難であった。そのため幾何学的なヨーロッパ庭園ではなく、現在のような形になったのだろう。
回遊式庭園を作庭した小川治兵衛は、宝暦年間(1751~1763)から現在に続く植木屋治兵衛(通称 植治の七代目にあたる。代々「小川治兵衛」を受け継ぐため、小川治兵衛作庭の庭と呼ばれるものには、七代目源之助の他に八代目 保太郎(通称 白楊)や九代目 治郎の庭を含んでいることも多く見受けられる。
明治初期、京都東山・南禅寺界隈が別荘地として開発されるのにあわせて、七代目植治は東山の借景と琵琶湖疏水の引き込んだ池泉を活かした近代的日本庭園の手法を確立していった。琵琶湖疏水は水車による工業動力の確保を目的に開鑿されたが、完成した時には水力発電が採用されてしまった。植治は明治27年(1894)七宝作家 並河靖之の邸宅において、併設された工房に研磨用水として引きこんだ疏水を庭園に引き込んでいる。続く明治29年(1896)山縣有朋の無鄰菴では、庭園用水として疏水を引き込みを行っている
植治は自然景観の中で水の表情が見えるように作庭している。水滴が小さな小川のせせらぎとなり、ある程度の流量の川となり、やがて池に注ぎ込んでいく水の様相をいくつかの情景によって表現している。そこには深山に降り注いだ雨が集まり、滝となり、やがて大海に導かれていくという図像的なものでなく目で見て分かるような自然主義的な表現が行われている。明治以降に勃興した新しい階級には、非常に分かりやすいものだったのではないかと思う。
円山公園の86,600m2という広大な敷地の中で、ほぼ中央部分に池が造られ、石橋が架けられている。東山に向かって右側の池には噴水が設けられている。他の庭園には見られない仕組みではあるが、多くの市民が集まる場所として華やかさを出している。その噴水の上方には茶屋(現在は喫茶・アートサロン浪漫亭)が見える。おそらくここからの庭の眺めは素晴しいのではないかと思う。この池に注ぐ流れが東山の方から続いているように思われるが、今回は時間が足りなくここまでとした。
この後、岡崎の小川治兵衛作庭の庭をいくつか拝観する予定である。
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