洛翠
洛翠(らくすい) 2008/05/12訪問
瓢亭より無鄰菴の長い塀伝いに歩き、再び仁王門通と白川通の交わる南禅寺前交差点に出る。そのまま白川通を200メートルくらい北上すると小さいながらも雅な印象をうける門が現れる。黒い門扉に金の菊紋の錺金具が施され、瓦葺の屋根はかなり棟を絞った形になっているため、実際よりもかなり小ぶりに見えるように作られている。駒札によりこれが洛翠の不明門であり、伏見城の遺構と伝えられていることが分かる。屋根の形状に少し硬さを感じるが、確かに桃山時代の華やかさが伝わる門である。もし伏見城の遺構ならば、1600年からの300年間の来歴が必要となるがそれは明記されていない。白川通沿いに設けられた門であるため離れて撮影できる状況ではなかった。洛翠の入口はさらに北にある。
先ほどの洛翠の駒札によると、この庭は明治42年(1909)に藤田小太郎邸として7代目小川治兵衛が作庭したことが分かる。
藤田小太郎は阪神財閥の1つである藤田財閥を創設した藤田伝三郎の甥にあたり、文久3年(1863)大阪で生まれる。藤田財閥の中核会社 藤田組(現DOWAホールディングス株式会社)は、藤田伝三郎、藤田鹿太郎、久原庄三郎の藤田三兄弟によって共同経営されてきた。藤田組は阪神の鉄道敷設をはじめ、大阪の五大橋の架橋、琵琶湖疎水などの工事の建設の他にも、明治15年(1882)には江州丸会社・三汀社と合同し太湖汽船を設立している。大津を基点として八幡、長浜、海津(マキノ)、今津、堅田など、ほぼ琵琶湖の全域を結ぶ航路を作り上げた。小太郎が太湖汽船を経営していた記録が見当たらないが、多くの事業を行う藤田組の中のひとつであったことは確かである。
洛翠の庭は東西方向に広がる。庭の中央に位置する池は琵琶湖を模して作られたといわれている。琵琶湖を反時計回りに90度回転させた形になる。池の一番東側には琵琶湖疏水の取入れ口がある。ここより流れの優しい雌滝を経て池に注ぎ込まれる。滝の先には竹生島に見立てられた小さな島があり松が植えられている。滝口のすぐ脇には画仙堂と呼ばれるお堂が建てられている。約280年前に中国から伝来した建物であるとされている。このあたりは琵琶湖の東岸 長浜にあたる。竹生島への入口、羽柴秀吉の築城、小堀遠州を生んだ長浜の歴史を象徴して堂宇を置いているようにも見える。
池のほぼ中央に架けられた橋は平安神宮 中神苑の臥龍橋に類似している。中神苑が明治28年(1895)の作庭であるから、洛翠の庭の方が後の時代の作となる。ここから画仙堂の眺めは美しい。この橋を含め4つの異なった意匠の橋が架けられている。2つ目の比較的長い橋は、当時は存在していなかったが現在ならば琵琶湖大橋に見立てることができる。手彫りの一枚岩を使用したものである。徐々に池は絞られてくるため3つ目の橋は短い。こちらも現在ならば近江大橋に見立てることができるだろう。そして4つめの橋は門の前にある沢渡りの飛び石で瀬田の唐橋と見立てることができる。こちらだけが作庭当時に存在していた橋となる。このような見立てをさらに続けると一番西に位置する不明門は瀬田川の石山寺あたりとなるだろう。
池の周りは芝生が植えられ、無鄰菴と同じく全体的には明るく健康的な庭となっている。池の東西端は樹木も茂り、池の水面に日が届かない箇所もある。中央部の明るい空間とは別の世界を作り出している。
個人邸宅の庭であるので作庭には主人の好みも多く反映しているのだろう。神苑ほどは大規模でないのでもう少し庭を構成する橋や燈篭などの要素を整理した方が良かったのではないかと思う。あるいは後に付け加えられたのかもしれない。また画仙堂が庭の大きさに比べてやや大きすぎたのではないだろうか?
昭和33年(1958)に郵政省共済組合が土地建物を購入し、組合員の保養施設とした。昭和62年(1987)からは民間企業に運営を委託し、一般の宿泊や庭園の有料公開も行ってきた。しかし利用率の低下と委託時に建て替えた施設の老朽化が進み、日本郵政共済組合が事業廃止を決めた。この様な経緯でゴールデンウイークの終了とともに平成21年 (2009)5月10日を以って閉鎖となった(http://www.rakusui.com/pages/heikanoshirase001.htm : リンク先が無くなりました )。非常に残念なことだが、現在の経済状況を考えると共済組合が維持することが困難なことは十分に理解できる。組合員にとって福利厚生施設より年金を如何に守るかということが優先される。
今後いずれかの人あるいは企業、団体のもとで再び公開されることを望みます。
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