洛中の町並み その8 寺町通
洛中の町並み(らくちゅうのまちなみ) 2008/05/15訪問
南北に御池通と丸太町通、東西に河原町通、烏丸通の4つの大路に囲まれた町並みを通り毎に見ていく。
寺町通は河原町通の1本西側の通りで、北は鞍馬口通から南は五条通りまでの全長約4.6キロメートル。通りの原型は平安京の東端を南北に走る東京極大路である。天正18年(1590)豊臣秀吉が着手した京都大改造で、洛中の寺院をこの通りの東側に集めたことからこの通りに寺町の名が付いた。
夷川通を過ぎると左手に享保年間(1717)創業の日本茶の専門店・一保堂茶舗の大きな町家が現れる。近江出身の渡辺伊兵衛が、寺町二条に、茶、茶器、陶器を扱う店として「近江屋」を出したのが始まり。弘化3年(1846)山階宮より「茶、一つを保つように」と「一保堂」の屋号を賜る。元治元年(1864)禁門の変の戦火により店舗が消失し現在の地に新築する。
一保堂茶舗の南には創業明治37年(1904)の村上開新堂の小さな洋館の店舗が並ぶ。公式HPなどなく良く分からないことが多いが、おのぞみドットコム(http://www.onozomi.com/book_kyoto2/teramachi/topic2.html : リンク先が無くなりました )によると下記のようだ。 「京都に都がおかれていた頃、初代は御所の料理人として勤めており、東京遷都と同時に東京へ出たそうです。そして東京で出会ったフランス人に、ロシアの家庭で作られるビスケット菓子の作り方を教わったのです。その後、日本人の口に合うようにと改良し、京都で[村上開新堂]を開くにあたって商品にしたのが、今も店頭に並ぶ「ロシアケーキ」です。」
ロシアケーキと共に有名な好事福盧は、先代がゼラチンを使ったオリジナルの洋菓子を作りたいと試行錯誤を重ね、紀州みかんをくり抜いて作られたゼリーである。11月から3月までの限定予約販売となっている。それでも冬の果物であるミカンを夏でも美味しく食べたいという多くの客の要望から、現在の店主がオレンジゼリーを考案し、4月から10月までの期間に販売している。
東京の開新堂との関係を尋ねる人も多いようだが、timberbearさんのブログによると、 「元は親戚であるが、全くの別会社」
という答えが返ってくるようである。他の方のブログを見ても、あまり聞いて欲しくない質問のようである。
寺町通の西側には奈良の古梅園の京都店と船はしや総本店が軒を並べる。
日本書記 巻22には推古天皇の18年(610)高句麗の僧曇徴によって製墨法が伝えられたことが記されている。今日、正倉院に伝えられる墨は、中国と朝鮮のものであるが、日本でも写経なども盛んに行われるようになり輸入だけでは賄えず、国産の墨が使われていたと考えられる。中世期に入ると紀伊国の藤代、近江国の武佐、丹波国の柏原、淡路島などで松煙墨の製墨が行なわれた。現在のような奈良墨は応永7年(1400)奈良興福寺で造られたのが初めであり、古梅園は天正5年(1577)創業の奈良墨匠である。そして元文4年(1739)古梅園の6代目松井元泰が長崎で清人と製墨法を交流して、大いに教えられ、より一層品質のよい名墨を造るようになった。つまり中国の墨に匹敵する墨を生産できるのに長い年月を費やしたことが分かる。京都店は正徳4年(1714)文房四宝専門店として創業している。
古梅園の店頭の北端には藤原定家京極邸址の碑が建つ。藤原定家京極邸は平安京左京二条四坊十三町にあったと伝わる。その邸地より,定家は京極中納言と称された。
初代店主・辻喜之助は寺町通りの夷川角に雑穀煎豆を扱う店を開き、舟橋南店と称していた。明治18年(1885)屋号を船橋屋に改名し、五色豆の製造を開始した。
五色豆は店主・喜之助が懇意していた舟橋の煎豆商・清水三郎兵衛から伝承したものであると、船はしや総本店の公式HPには記されている。舟橋とは現在の堀川今出川のあたりの地名を指し、この地の煎豆商によって伝承されたと思われる。 明応年間(1492~1500)真盛上人が北野の辻で仏の道を説き、塩豆に菜の干葉をかけたものを通行人に与えた。これが好評であったため、弟子達によって上七軒の西芳寺に伝わった。天正15年(1587)秀吉が開催した北野大茶湯では、千利休が秀吉に豆菓子を進めたと言われている。以来千家の茶道と共に普及し、江戸文化華やかな元禄年間にさらに改良され発展したものが真盛豆や衣掛豆となり、明治時代に伝承された。なお船はしやの五色豆は「錦豆」、豆政のものは「夷川五色豆」と呼ばれている。いずれも明治初期から作られているようだ。豆政の公式HPでは、 「夷川五色豆は明治20年頃初代政吉が考案いたしました。」
としている。
明治38年(1905)に三条大橋西詰めに分家(本家船はしや)を出し、「船橋屋本店」となる。さらに昭和12年(1937)に寺町綾小路に分家(船はし屋)を出し「船はしや総本店」と改称した。
二条寺町の角には井原西鶴の歌碑がある。
「通ひ路は二條寺町夕詠(ゆうながめ)」
この歌碑の先の八百卯は明治12年(1879)創業の果物屋であるが、梶井基次郎が大正14年(1925)に発表した「檸檬」でレモンを買い求めた店として知られている。三条通にあった丸善・旧京都店は既になく、この八百卯も平成20年(2008)10月に4代目店主が急逝し、平成21年(2009)1月に閉店となり、創業130年の歴史に幕を下ろすことになった(http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2009012700037&genre=K1&area=K00 : リンク先が無くなりました )。在りし日のショーウインドーには国産レモンとともに「檸檬」の来歴を記したものが置かれていた。
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