洛東の町並み その2 木屋町通 2
洛東の町並み(らくとうのまちなみ) その2 木屋町通 2 2008/05/15訪問
高瀬川沿いの木屋町通を二条通から四条通に向かって歩く。
北は二条通から南は七条通まで続く全長約2.2キロメートルの南北路。江戸初期、豪商の角倉了以が開削し周辺を造成したのがこの地の繁栄の始まりとなっている。高瀬川から運ばれる木材や薪などの木を扱う店が多かったことが通りの名前の由来である。
一之舟入の南側はかつて長州藩邸のあった場所となっている。表は押小路通に、裏は一之舟入に面するこの一画は修景されている。押小路通の入口には北條別邸逍遥遊の碑が建てられている。逍遥遊とは囚われのないのびのびした境地に心を遊ばせることをいう意味であり、この地を手掛けているのは北條誠氏であり、北條別邸の北條はここから来ているようだ。 この押小路通の南側には現在は京都ホテルオークラの高層ホテルが建つ。以前は都ホテルと並ぶ名門・京都ホテルがあった場所でもある。
木屋町通との角には、臨済宗の廣誠院となっているようだが、薩摩藩の伊集院兼常の屋敷があった。兼常は薩摩藩では芝の藩邸の普請を手がけ、戊辰戦争を戦った後、一時期海軍に身を置くが、有限責任日本土木会社の設立に立ち会っている。この会社は明治20年(1887)に当時の日本の経済拡大に伴う産業基盤や公共施設の建設体制を整えるために創設された建設会社であった。創設委員会の委員長に渋沢栄一、委員副長に大倉喜八郎、久原庄三郎。委員に藤田伝三郎、伊集院兼一、福島良助、手島鍈次郎。理事に桑島深造、藤田辰之助、木村静幽と当時の財界の錚錚たる人物が関係している。新会社の経営陣には取締役社長(兼東京支店長)大倉喜八郎、取締役に藤田伝三郎と渋沢栄一が名を連ね、兼常も東京駐在会計役として加わっている。兼常は「大日本土木会社」で活躍したという記事を見たことがあるが、有限責任日本土木会社の誤りだと思われる。
日本土木会社は建築では皇居造営、帝国ホテル、初代の築地歌舞伎座、工科大学本館、土木では琵琶湖疏水、東海道線敷設、佐世保軍港設営、大阪天神橋そして碓氷峠のトンネルを手掛けたが、明治25年(1892)に突然、解散している。明治22年(1889)に会計法公布され、それまで特命見積式で受注していた仕事が競争入札に変わったため、高い技術とそれによる信用で仕事が取れなくなったためだと考えられている。
詳しい資料の少ない兼常の経歴に、鹿鳴館の施工を手掛けたという記述がある。鹿鳴館はお雇い外人のジョサイア・コンドルの設計により、明治14年(1881)に土木用達組によって着工している。土木用達組は、大倉喜八郎が堀川利尚との共同出資で設立した組織であった。もし兼常がこの工事に関わっていたとしたら、土木用達組にも関連していたと思われる。鹿鳴館の竣工は明治16年(1883)と日本土木会社設立のかなり前のことである。
島津製作所の項でも触れたように、この場所は明治4年(1871)に長州藩邸から勧業場になっている。その後、明治22年(1889)には前田又吉が敷地の払い下げを受けている。前田はこの地に外国人向けの常盤ホテルを建設するが、この工事を請負ったのが日本土木会社であった。明治23年(1890)4月に開業し、天皇臨席による琵琶湖疎水の第一期工事完成祝賀会も開催されている。このあたりの経緯については都ホテルの項でも触れているのでご参照下さい。
話しを廣誠院に戻すと、伊集院兼常が屋敷を建てたのは明治25年(1892)のこととされている。日本土木会社が解散した年である。そして早くも明治29年(1896)には近江の下郷伝平の強い依頼を受けて売却している。明治35年(1902)には実業家廣瀬家の手に渡り、戦後の昭和27年(1952)に、現在の臨済宗の寺院になっている。兼常は普請道楽であった上に、同じ場所に長く住むことが出来ない性分であったようで、廣誠院の公式HPの中には、黒田天外の「江湖快心録」の兼常に関する記述が要約されている。これによると兼常は天外に以下のように語ったとしている。
「自分の住居も13ケ所、妾宅は5ケ所つくった。1箇所に6年と住んだことがなく、大抵3~4年住んでいると別の家を造ってみたくなり、ほかへ移る。有名な建築・庭園で見ていないところはまずない。」
廣誠院に関して請われて売却したようだが、どうも引越し好きは設計者にありがちな性格とも言えそうだ。
今回は訪問できなかったが、伝統未来塾の中で中村昌生先生の伝統建築探訪に参加された kimamaさんの関西ひとりジョーズ紀行のブログ 美しき明治の数寄屋建築@京都・廣誠院で内部の様子が写真とともに報告されている。中村昌生先生とは京都工芸繊維大学の教授として茶室や数奇屋建築の第一人者であり建築家である。このような方の説明で見学できるとは本当に羨ましい。
兼常は市田氏對龍山荘の敷地を明治30年(1897)頃に購入し草居を建てている。ここも程なくして清水某氏に譲り、明治35年(1902)には初代市田弥一郎の所有となっている。この庭は兼常が作庭したものを七代目小川治兵衛が改修している。伊集院兼常と小川治兵衛の関係については、中西一彌氏のHP kankanbowの琵琶湖疏水を語る部屋(http://www.geocities.jp/biwako_sosui/ikeizumi3.htm#29) : リンク先が無くなりました )の中で詳しく書かれているので、興味のある方は是非ご参照下さい。
廣誠院の南側の高台に、象山先生遭難碑と大村益次郎卿遭難碑が並ぶ。 佐久間象山は信濃国松代藩出身で、伊豆国田方郡韮山の江川太郎左衛門に西洋兵学を学んでいる。象山はこの西洋兵学と蘭学から得た世界情勢をもとに、海防八策を纏める。弟子の吉田松陰の密航に連座し、文久2年(1862)に赦免されるまで松代で蟄居しているが、元治元年(1864)3月、14代将軍・徳川家茂と一橋慶喜の要請により上洛する。象山は、国防という側面から今後の日本のあり方を過激に説いたため、身につけた兵学を戊辰戦争で発揮することなく元治元年(1864)7月11日三条木屋町で河上彦斎、前田伊左衛門等によって暗殺される。上洛からわずか4ヶ月後のことであった。
大村益次郎は緒方洪庵に医学と蘭学を学んだ後,江戸に出て幕府の講武所教授等を歴任するなど、ほぼ独学で兵学を身につけている。司馬遼太郎の花神を読むと益次郎の論理的な思考方法が、この時代にとって医学より兵学で世に受け入れられたことが分かる。おそらく幕末から維新の時代にあってこそ兵部大輔の地位まで上り詰めたが、平時においては村医者のまま埋もれていたかもしれない人物である。戊辰戦争までの益次郎は政治的な発言や行動が少なく、どちらかと言うと技術者的なイメージが強い。後から出てきた益次郎には佐久間象山や吉田松陰のような思想や戦略の立案や西郷隆盛や高杉晋作のような革命軍の創設は必要とされていなかったとも言える。
この2つの碑を見ると、到底常人では理解できない頭脳を持った2人が、明治維新を前後してほぼ同じ場所で暗殺されている不思議さと、最終的には世に受け入れられなかった事実を強く感じる。
象山先生遭難碑の碑文には「立石以表其終焉之 地距此正東五十二 尺乃先生遭難処」とあり、碑から東へ52尺(約15メートル)の場所が暗殺された現場と特定している。nakaさんによると、長野の象山顕彰会が建立に際して、唯一人生存していた目撃者の証言を元にして特定したらしい。この碑は象山が暗殺されてから50年後の大正4年(1915)に建立されているので、象山絶命の地の特定もかなり難しかったと思われる。
この場所は象山の寓居跡よりかなり北に位置している。元治元年(1864)7月11日象山は山階宮家の帰路に暗殺されたこととなっている。京都時代MAP幕末・維新編(光村推古書院 2003年)によると宮家が荒神通の南、三本木通の京都地方法務局の建つ地にあったとされている。京都山科にある門跡寺院である勧修寺を相続した山階宮晃親王は、元治元年(1864)徳川慶喜らの申し出により、孝明天皇の勅許をもって、改めて親王宣下と共に山階宮の宮号を賜っている。そのためか山階宮邸がどこにあったかは明らかではないようだ。慶応4年(1868)に作られた大成京細見繪圖 洛中洛外町々小名の荒神口の西に、「宮之ヤシキ」とも読める地がある。 もし山階宮邸がこの三本木にあったとしたら、象山は騎馬で南下して木屋町通に入り自邸に向かうのが最短経路となる。しかし実際には五条通の本覚寺に住む門人を訪ねた後に帰宅の途についているようである。この日も象山は供侍を付けていたが、先に地図を持たせて帰したり、気分の優れない従者を置いて先を進んだため、三条小橋から木屋町通を北上した時は不運なことに単騎だった。明治26年(1893)に林政文が記した「佐久間象山」には門人花岡敬藏による遭難の記が掲載されている。
象山先生遭難碑と大村益次郎卿遭難碑の前には、兵部大輔大村益次郎公遺址と、桂小五郎・幾松寓居跡が並ぶ。桂小五郎・幾松寓居跡については、あえて触れない。
nakaさんのブログ 「よっぱ、酔っぱ」の木戸翠香院の葬送には、この兵部大輔大村益次郎公遺址の碑自体が、北のほうにあったものが移動して現在地に辿り着いた事が記されている。物質的には長い年月残る碑であっても、物理的には移動は可能である。確かに近江屋の例もあるように、いろいろな「都合」により動かされることがあるということは記憶しておくべきだろう。
道路幅の広い御池通を渡ると加賀前田藩邸の跡を示す碑と二之船入跡の碑がある。二之舟入は加賀前田藩邸の南側にあった。先ほどの藩邸跡の碑から二之舟入までがそれ程離れていないのは、御池通が戦時中の建物疎開で拡幅された時に旧加賀藩邸の敷地がかなり削られたためであろう。
二之舟入の斜め前の駐車場(木屋町モータープール)の入口に佐久間象山寓居址の碑がひっそりと建っている。駐車場の置き看板の陰になってしまうので、気がつかずに通り過ぎてしまう人も多いだろう。この地は三井家総領家である三井八郎右衞門の屋敷があった場所だったので、かなり大きな区画だったのだろう。佐久間象山寓居址の碑は、この角にしか残せなかったため、置かれたのであろう。現在は建物もなく更地となっている。このような駐車場は御池通以南でもいくつか見かける。江戸時代から続く町家も、現状の建築基準法ではこのような用途変更を行わざるを得ないだろう。
「洛東の町並み その2 木屋町通 2」 の地図
洛東の町並み その2 木屋町通 2 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
▼ 一之舟入 | 35.0122 | 135.7704 | |
▼ 二之舟入 | 35.0113 | 135.7704 | |
長州藩邸01 | 35.0116 | 135.769 | |
長州藩邸02 | 35.0111 | 135.7697 | |
長州藩邸03 | 35.0116 | 135.7703 | |
長州藩邸04 | 35.0121 | 135.7697 | |
加賀藩邸01 | 35.0111 | 135.7697 | |
加賀藩邸02 | 35.0107 | 135.7704 | |
加賀藩邸03 | 35.0104 | 135.7697 | |
加賀藩邸04 | 35.0107 | 135.769 | |
対馬藩邸01 | 35.0102 | 135.7697 | |
対馬藩邸02 | 35.0099 | 135.769 | |
対馬藩邸03 | 35.0096 | 135.7697 | |
対馬藩邸04 | 35.0099 | 135.7703 | |
一之舟入 | 35.0122 | 135.7704 | |
二之舟入 | 35.0113 | 135.7704 | |
木屋町通01 | 35.0128 | 135.7703 | |
木屋町通02 | 35.0124 | 135.7704 | |
木屋町通03 | 35.0109 | 135.7705 | |
木屋町通04 | 35.0094 | 135.7704 | |
木屋町通05 | 35.0065 | 135.7704 | |
木屋町通06 | 35.0032 | 135.7705 | |
木屋町通07 | 35.0025 | 135.7704 | |
木屋町通08 | 35.0023 | 135.7704 | |
木屋町通09 | 35.002 | 135.77 | |
木屋町通10 | 35.0016 | 135.7697 | |
木屋町通11 | 34.9999 | 135.7688 | |
木屋町通12 | 34.997 | 135.7676 | |
02 | ▼ 長州藩邸 | 35.0117 | 135.7695 |
03 | ▼ 廣誠院 | 35.012 | 135.7702 |
04 | ▼ 象山先生遭難碑 | 35.0117 | 135.7703 |
05 | ▼ 大村益次郎卿遭難碑 | 35.0117 | 135.7703 |
06 | ▼ 桂小五郎・幾松寓居跡 | 35.0117 | 135.7706 |
07 | ▼ 兵部大輔大村益次郎公遺址 | 35.0116 | 135.7702 |
08 | ▼ 加賀藩邸 | 35.0105 | 135.7705 |
10 | ▼ 佐久間象山寓居址 | 35.01 | 135.7705 |
11 | ▼ 対馬藩邸 | 35.0099 | 135.7696 |
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