白沙村荘 橋本関雪記念館
白沙村荘 橋本関雪記念館 その1(はくさそんそう) 2008年05月17日訪問
慈照寺から白沙村荘へは、銀閣寺橋を渡り、今出川通を西に進む。程なくバス停・銀閣寺前が現れ、その脇に白沙村荘の入口がある。 白沙村荘は日本画家の橋本関雪が、大正5年(1916)に南禅寺からこの地に制作の場を移したことに始まる。この時から、亡くなる昭和20年(1945)までのおよそ30年間にわたり、約1万平米の敷地にアトリエから住居、そして庭園が作られている。関雪はこの30年間の間に、何回も敷地を買い増しながら庭園と建物群を拡張させている。自らの感性に従い設計し、心血を注ぎ造り上げたというに相応しい建物と庭園が一体化した空間となっている。なお白沙村荘の命名は、敷地の西側から南へ流れる白川の砂に由来している。
橋本関雪は明治16年(1883)漢学者である橋本海関の子として神戸に生まれている。本名は貫一で、画号である関雪は、父・海関が藤原兼家の見た夢に因んで名付けている。
平安時代の公卿である藤原兼家は、右大臣藤原師輔の三男として生まれている。長兄の摂政・伊尹が早世すると、関白の座を次兄である兼通に奪われ、兼通が死ぬまでの間、出世をことごとく邪魔されている。従一位摂政で太政大臣に就任していた兼家が関白となったのは、正暦元年(990)の一条天皇の元服に際しであった。この3日後に病気を理由に嫡男である道隆に関白を譲り出家している。この年、62歳で亡くなるが、兼家の子である道長の時代に藤原氏は最盛期を迎える。
兼家は雪の降る逢坂の関を越える夢を見ている。その話を聞いた大江匡衡は「関は関白の関の字、雪は白の字。必ず関白に至り給ふべし」と夢占いをしたと言われている。その翌年に兼家は関白の宣旨を蒙ったとされていることから、永祚元年(989)の頃の故事であったのだろう。関雪は死後、大正3年(1914)に購入した逢坂の関の別邸が元となっている月心寺に葬られている。
父から漢学を学び、明治36年(1903)竹内栖鳳の竹杖会に入り、明治46年(1913)と翌年に、文展で二等賞、明治49年(1916)と翌年には特選を受賞している。昭和8年(1933)に描かれた玄猿が代表作。
関雪は栖鳳の門下で学んではいるが、「自分の師とするものは支那の自然である」と公言していたように、中国への憧憬が強くなる。それに伴い師である栖鳳と作風も異なるようになり、栖鳳との距離を置くようになっている。そのため抜群の才を誇った関雪も、栖鳳の圧力により昭和10年(1935)まで帝国美術院会員に任命されなかったとい言われている。
この記事へのコメントはありません。