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東福寺 その2



臨済宗東福寺派大本山 慧日山 東福寺(とうふくじ)その2  2009年1月11日訪問

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東福寺 三門
(国宝 応永32年(1425)再建、現存する禅寺の三門としては日本最古)

 最勝金剛院の山門を出て参道を下ると、正面に東福寺の本堂が現れる。
 東福寺の公式HPに記されている歴史は、京都五山の第四位の大寺院にしては非常に簡潔なものである。嘉禎2年(1236)九条道家が奈良の東大寺と興福寺から一字づつ採り、それを寺号とする京都最大の伽藍の造営を思い立ったこと、寛元元年(1243)に聖一国師を開山に迎え、天台・真言・禅の各宗兼学の堂塔を完備したことを記した後、戦火等を受けるもその度に復興し、現在に至る。大まかに謂うとそのような内容となる。そして開山である聖一国師の事績が、東福寺の歴史と同じくらいの量で紹介されている。

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東福寺 禅堂(重要文化財 貞和3年(1347)再建)と仏殿(昭和9年(1934)年再建)

 既に前回の訪問で東福寺開創について記したので、今回は開創以前の歴史について、少し整理してみる。最勝金剛院の項同聚院の項で東福寺の前身となる法性寺について書いてきた。しかし今一つ法性寺と東福寺の関係が明らかにならない。上記の東福寺の公式HPに法性寺に関する記述がないのは当然として、Web上の情報もかなり限定的である。それらを見ていくと、「九条道家は法性寺を捨てて東福寺を建立した」、「法性寺は軒先を貸して母屋を取られた」あるいは「法性寺は鎌倉時代初期の兵火によって衰退した」などの何れかに辿り着く。京都市埋蔵文化財研究所の京都市遺跡地図台帳にある法性寺の項目を見ると下記のように記されている。
     寺の創建は藤原忠平で延長2年(924)頃である。その後は藤原氏の氏寺として何代にもわたり子院の造営が行われた。延応元年(1239)には九条道家によって東福寺が造立された。明確な遺構は発見されていないが,瓦など遺物は出土している。また光明峯寺奥の院の調査では,東西棟の建物跡2棟,蔵骨器を伴う中世墳墓が発見された。

 前半は一般的な法性寺の歴史であり、後半は発掘調査の現状説明である。この中の「光明峯寺奥の院の調査」は、調査報告書 関西(京都)「法性寺跡(光明峯寺・奥院跡) −京都市埋蔵文化財年次報告 1976-Ⅲ−」のことであろう。この報告書は未見であるため、どこの部分を調査したかは分からない。
 ちなみに、光明峯あるいは光明峯寺については天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会に下記のような記述が残されている。
     光明峯〔東福寺方丈のひがし、即宗院の南谷をいふ〕

     光明峯寺址〔東福寺偃月橋の奥にあり。亡滅の後毘沙門堂あり、故に毘沙門谷ともいふ。本尊は今東福常楽庵の閣上にあり。聖一国師年譜云、建長四年二月廿一日藤丞相道家公薨ず年六十才、四条院の外祖、光明峯寺に葬る〕

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東福寺 仏殿から開山堂へ続く歩廊 春屋妙葩が造る

 光明峯寺は九条道家が葬られた寺院であり、「東福寺偃月橋の奥」の毘沙門谷にあったとされているが、既に江戸中期の天明年間には廃寺となっていたようだ。毘沙門谷とは、洗玉潤を含む三ノ橋川の流域を指すようで、偃月橋の奥ということは、現在の宗務本院から最勝金剛院のあたりも含まれる。また、Toshiさんの管理されている東山三十六峰に掲載されている光明峯では、光明峯を京都国際高校のある本多山とみなしている。そうすると最勝金剛院より東側の五社之瀧神社のあたりまでが光明峯寺の対象地域になるかもしれない。

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東福寺 経蔵

 さて法性寺についての数少ない資料の中で、福山敏男氏の「法性寺の位置について」(佛教芸藝術100巻 毎日新聞社 1975年2月)が非常に参考になった。わずか13ページの論文ではあるが、その前半は文献上に現れた法性寺を時間軸に落とし込むことで法性寺の歴史を詳細にまとめている。そして論文の後半で法性寺の寺域の推定を行っている。

 法性寺の造営は延長元年(923)頃から行われていたようだ。創建者である藤原忠平の日記・貞信公記には延長2年(924)2月10日に法性寺に参り鐘の音を視聴している。また7月9日には四菩薩を造り始めている。そして7月17日に鐘楼が落成し、11月28日に四菩薩を南堂に安置していることが分かる。この時期には造営工事がかなり進んでいたものの、まだ完成に至っていなかったようだ。翌延長3年(925)3月8日には五大尊を造り、同年8月10日に新造の五大尊の開眼供養を行ったと思われる。この辺りの時期が法性寺の開山とされているようだ。延長7年(929)には忠平の五十の賀が執り行われている。
朱雀天皇は承平年間(931~938)に法性寺内に御願堂を二棟建てたことより、法性寺は御願寺となっている。そして天暦3年(949)8月14日、関白太政大臣忠平は小一条第において70歳で没すると、翌日遺体は法性寺に移され、18日に法性寺東北の地に埋葬され貞信公と諡される。

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東福寺 方丈と庫裡 いずれも明治時代に再建
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東福寺 方丈

 忠平の死後の天徳2年(958)3月30日、法性寺は火事にあっている。翌天徳3年(959)に法性寺の諸堂の資材を東大寺領からではなく、他国のものを利用するような要請が出ていることから、復興工事に着手していたことが分かる。寛弘2年(1005)12月21日、藤原道長による丈六五大尊が造り始められ、翌寛弘3年(1006)7月27日、五大堂の上棟が行われる。8月7日に新堂に五大尊が安置され、10月25日に開眼、12月26日に五大堂供養が盛大に行われている。
 天永3年(1112)6月12日から13日にかけて、法性寺の東五大堂が倒壊している。後に調べると築後200年経つ建物であったことが分かる。これは忠平が延長3年(925)に建設した五大堂であり、天徳の火災を越えて187年存続していたことが分かる。上記のように道長が新たに建設した五大堂と区別するために東側にあった忠平の五大堂を東五大堂と呼んだのかもしれない。

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東福寺 東司(重要文化財 室町時代)

 藤原忠通は久安3年(1147)頃より法性寺の傍らに別宅を造り、翌久安4年(1148)2月11日に夫人の宗子と共に移住の儀を行っている。これより少し前の応徳3年(1086)白河天皇が退位後の居所として鳥羽離宮の造営を始めている。そして鳥羽上皇が営んだ仏堂が起源とされる安楽寿院の創建は保延3年(1137)のことである。院政の中心が鳥羽殿であったことからも忠通が、鳥羽殿の北東の地にある法性寺の近くに別邸を建設したことは十分に理解できる。久安4年(1148)7月17日には、近衛天皇、鳥羽法皇、崇徳上皇などの御臨幸の元で、宗子が造営した新堂の供養が行われている。そして久安6年(1150)11月26日、宗子が建立した最勝金剛院を御祈願所となし、同院の四至内に官使などの入ることを禁じている。これは久安4年7月に供養した新堂に最勝金剛院の法号が与えられたことである。また四至の限界を、東は山科境から西は河原まで、北は貞信公墓所山から南は還坂南谷までとされている。これは太政官牒(東福寺文書)に記されているもので、これが最勝金剛院の寺域と見なされているようだ。ちなみに還坂南谷とは、稲荷山から車阪を結ぶ道をかつて還坂と呼び、現在も仲恭天皇九條陵の南に深草車阪町や今熊野南谷町の地名が残る。

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東福寺 三門

 久寿2年(1155)9月15日、宗子は法性寺殿で没する。翌日、殿から東南二町余の場所に建てられた塔の地下に埋葬されている。応保2年(1162)に法性寺別業で出家した藤原忠通も、長寛2年(1164)2月19日に68歳で没している。そして21日に法性寺山に葬られる。なお東福寺の塔頭・大機院には法性寺殿藤原忠通墓がある。これは昭和25年(1950)に市立日吉ケ丘高校が建設された際に大機院に移されている。
 養和元年(1181)12月5日、忠通の娘であり崇徳天皇の中宮となった皇嘉門院の葬送が行われている。最勝金剛院を出て、同院の東南の山中に埋葬されている。この葬送の様子は九条兼実の日記・玉葉に詳しく書き残されていることから、当時の最勝金剛院の規模がある程度想像される。葬送の御車は西面北側の四足門から最勝金剛院に入り、同院の御殿と御堂の前を通り東南の山中に至っている。また、この葬送に参列した兼実は西面にあった八足門から出たとされている。このことから最勝金剛院の西面には2ないし3の門が建てられるほどの広さであったことが分かる。現在の東福寺が伏見街道に面して北門、中門、南門を持つのと考えると、その規模が分かる。随行した九条兼実は法性寺の東方に別業月輪殿を造り、建仁2年(1202)2月27日に出家し、承元元年(1207)4月5日に没している。兼実は月輪殿あるいは後法性寺殿とも呼ばれている。

 元久2年(1205)5月17日の太政官牒(東福寺文書)に記された最勝金剛院の四至は、前期の久安6年(1150)のものと同じであった。この四至内には法性寺本堂も含まれていた。このことから法性寺自体の広大な領地の大部分は最勝金剛院に譲渡され、自らの保有地が狭小なものになっていたと福西氏は推測している。恐らくこれが東福寺創建直前の法性寺の実態であろう。

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東福寺 三門と仏殿

「東福寺 その2」 の地図





東福寺 その2 のMarker List

No.名称緯度経度
01  東福寺 三門 34.9757135.7737
02  東福寺 本堂 34.9763135.7737
03  東福寺 方丈 34.977135.774
04  東福寺 庫裏 34.9767135.7744
05  東福寺 東司 34.9756135.7729
06  東福寺 禅堂 34.9761135.7731
07  東福寺 経蔵 34.9767135.7732
08  東福寺 通天橋 34.9772135.7736
09  東福寺 普門院 34.9782135.7737
10  東福寺 開山堂 34.9782135.7737

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