高台寺 その5
臨済宗建仁寺派 鷲峰山 高台寺(こうだいじ)その5 2009年11月29日訪問
高台寺の庫裏を過ぎ、境内に入ると美しくライトアップされた湖月庵、鬼瓦席そして遺芳庵の3つの茶席が現れる。この先には右手に書院、左手に薄暗い中に偃月池が見える。さらに進むと左手の眺望が開け、高台寺庭園の全貌が見えてくる。所々に紅葉を引き立たせる赤い照明が配され、それらの木々色を偃月池に写し、秋の高台寺を印象付ける景色となっている。
後藤典生氏の著書「日本の古寺5 圓徳院住職がつづる とっておき高台寺物語」(四季社 2008年刊)によると、この高台寺のライトアップは氏が住職を務めていた平成10年(1998)の春より始められたようだ。既に10年を越える期間継続して開催している。高台寺庭園を手掛けた北山安夫氏をプロデューサーとして、毎年テーマを定めてデザインしている。ちなみに第一回目のテーマは「桃山の心」であった。毎回異なった主題をテーマにし、「生死」や「夢幻」といった禅的なイメージ連想させるものもある反面、テーマと表現方法の間のギャップが感じられるものもあった。特に「流れ」というテーマでネオン管の点滅を多用した際には、寺院には似つかわしくない表現という感想も出たようだ。
慶長11年(1606)高台院が豊臣秀吉を祀るため高台寺を創建する前に、この地にあった雲居寺について考えてみる。
「日本歴史地名大系27 京都市の地名」(平凡社 1993年刊)には、雲居寺跡という項目がある。「拾芥抄」に「雲居寺。花園(双林寺)ノ向、祇園ノ南」とあり、同様の記述は「京都府地誌」や「京都坊目誌」にも見られる。「京都二重織留」には異説もあるようだが、概ね高台寺の地にはかつて雲居寺があったことは確かなようだ。川勝政太郎は「洛東雲居寺と瞻西聖人」(「史迹と美術 214号」史迹美術同攷会 1951年刊)において、法観寺に所蔵されている八坂法観寺古図より現在の高台寺の境内のあたりにかつての雲居寺の伽藍があったと推測している。この室町時代に描かれたと考えられている古図には、法観寺と霊山との中間でやや北寄りに雲居寺が描かれている。さらにその北側に菊澗川があることから、やはり高台寺の境内にかつての雲居寺があったように考えている。
雲居寺は菅野真道が桓武天皇の冥福を祈って、八坂郷に道場院一区を創建している。八坂寺すなわち現在の法観寺に近接していたため、八坂東院とも呼ばれていたようだ。「続日本後記」の承和4年(837)2月27日の条に、雲居寺の創設の歴史とともに菅野真道の子息の永峯の申し入れにより独立した寺院として認定されたことが記されている。この寺院が雲居寺の前身となったと考えられている。雲居寺が菅野真道によって承和4年(837)に創建されたような記述も見かけるが、真道は弘仁5年(814)に没しているため、承和4年(837)に雲居寺を自ら創建することは叶わない。菅野真道は百済系渡来氏族で、百済国第14代の王である貴須王の子孫とされている。桓武天皇の信任が厚く、東宮学士の傍ら左大弁・左兵衛督・左衛士督と要職を歴任する一方、造宮亮として平安京への遷都事業にも深く関与している。そのため延暦8年(789)従五位上から延暦16年(797)正四位下まで順調に昇進し、延暦24年(805)には参議として公卿に列している。
延暦24年(805)桓武天皇の前で藤原緒嗣との間で徳政論争を行い、農民の負担軽減のために軍事・造作を停止すべきとの緒嗣の主張に強く反対する。しかし緒嗣の主張が採択され、計画中であった蝦夷征伐と平安宮造宮の中止、および造宮職の廃止と木工寮への統合が決まっている。
延暦25年(806)桓武天皇が崩御された後も、平城、嵯峨の二代の天皇に仕え、最終的には常陸守従三位まで上りつめている。先にも触れたように弘仁5年(814)に没している。享年74。真道は藤原継縄や秋篠安人と共に、文武帝から桓武帝に至る95年間の勅撰史書「続日本紀」の編纂を行い、延暦16年(797)全40巻を完成させている。
菅野真道が雲居寺の基となる寺院を建立したのは、桓武天皇が崩御された延暦25年(806)から弘仁5年(814)までの8年間だと推測される。父の建立した寺院が八坂東院と呼ばれ法観寺の付属施設のように扱われてきたことに対して、菅野永峯は四方の境界を明らかにするとともに、一院として僧を置き永く護持されることを望んだのである。その願いが叶い雲居寺は承和4年(837)より独立した一寺として扱われるようになったのであろう。
雲居寺は天台宗の寺院として創建されている。数々の不思議な霊力を発揮したことで有名な天台宗の僧浄蔵貴所も晩年を雲居寺で暮らしている。元三大師や安倍晴明と同時代に生きた浄蔵は羅城門の鬼が源博雅に与えたという名笛「葉双」を下賜された笛の名手にして、仏法を守護するために遣わされた不動明王の眷族「護法童子」を自在に使役する法力僧であった。父の危篤を聞きつけ、急ぎ向かうも間に合わず、一条堀川の橋の上で父の葬列に出会い、一心不乱に祈祷を行い蘇らせたという「戻り橋」伝説の元となったのも浄蔵であった。また、天慶3年(940)勅命により平将門の乱を調伏するため、比叡山横川にあった首楞厳院で21日間の大威徳法を勤行し、乱を鎮め調伏に成功している。ただし左大臣藤原時平が熱病に罹った際は、怨霊の意を汲んで祈祷を取りやめたため、延喜9年(909)時平は39歳の若さで菅原道真に呪い殺されたとされている。浄蔵は康保元年(964)に雲居寺で入滅している。
もともと八坂郷は隣接する鳥戸郷付近とともに著名な葬地であったが、「三代実録」元慶8年(884)12月25日条に、「以同郡八坂郷地十町、為贈正一位藤原朝臣数子墓地」とあるように八坂郷は古くより貴顕の埋葬地であった。そして貞元2年(977)に藤原兼通が没した時、東山雲居寺に移し葬ったという記述が「日本紀略」貞元2年(977)11月8日条に残されている。さらに長保4年(1002)には為尊親王も雲居寺に葬送されている。
「中右記」天永3年(1112)9月8日の条に、「東山雲居寺聖人之所作之極楽堂焼亡」とある。雲居寺が被災したという記事である。この後の天治元年(1124)7月に、雲居寺に住していた瞻西が金色の丈八阿弥陀如来像を建立し、堂を証応弥陀院と号している。このことからも瞻西が衰微していた雲居寺を再興したと考えられている。瞻西は比叡山延暦寺の僧で、説法が達者で年来から道心を発して様々な仏事を成した僧でもある。極楽浄土百日行道や、阿弥陀仏の来迎引接を模擬的に行う法会である迎講を行うなど、藤原宗忠などをはじめとし、天下の道俗男女が貴賤なく帰依している。また、瞻西は雲居寺で歌会や歌合を行ない、和歌曼陀羅の創案者ともされている。絵画も能くし、歌人としても有名な行尊との交流が知られる。
先に紹介した川勝政太郎による「洛東雲居寺と瞻西聖人」には、瞻西が建立した八丈の阿弥陀仏に関する記述がある。阿弥陀坐像で居高四丈であったことが「東寺私用集」より分かる。四丈の坐像が立った時の高さが、八丈となるため八丈の像と称されている。
後に「南都の半仏雲孤 雲孤の半仏東福」とよばれるように、奈良の大仏は坐像で五丈三尺、十六丈の大仏と称していたので、雲居寺の八丈の仏像は確かに半仏となる。さらに東福寺の大仏はその半分という意味である。この瞻西が建立した阿弥陀坐像は先の「東寺私用集」の永享8年(1436)11月9日条に東山方面に大火が起こり、八坂の塔とともに雲居寺の大仏も極楽堂も焼失している、しかし4年後の永享12年(1440)には画僧としても有名な周文が、焼失前と同じ規模の坐像を再興している。永享11年(1439)に京都の高辻大宮仏師と東方仏師によって造像が始められたが、その建立費用より安く制作するという奈良の仏師が現われたため、首が出来たところで2名の仏師は免職されている。すなわち価格競争によって仕事が失われた訳である。奈良の仏師により2体目の仏像が造られ、永享12年(1440)4月に竣工する。しかし完成後の検分により不合格となり、制作した仏師は召し捕られる事態になっている。 そして改めて3体目の仏像の制作が、周文と新たな奈良の仏師によって同年6月より始められる。この仏像は五ヵ月後の11月に竣工している。ちなみに竣工検査で不合格の烙印を押された2体目の仏像は祇園舎の南の百度大路に堂を設けて安置したとされている。百度大路とは下河原の中央を祇園社南門の鳥居前から八坂道までを南北に貫通する下河原町通。この道は祇園社の表参道のため、百度詣でに因んで百度大路の称が用いられている。
永享の再興は、後に赤松満祐に暗殺される第6代将軍足利義教の肝いりであったため、大仏を中心として華々しく再建されたことと思われる。この時期の雲居寺は阿弥陀信仰を中心とする浄土教の寺院となっており、多くの結縁者を集めていたことが「秋夜長物語」などから想像される。また法然も吉水より雲居寺の証応弥陀院へ百日参詣を行なっている。しかし20数年後の応仁の乱により、周文の阿弥陀坐像も雲居寺と共に焼失し、以降再び昔日の観を見ることが出来なくなっている。
「高台寺 その5」 の地図
高台寺 その5 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | ▼ 高台寺 台所坂 | 35.0005 | 135.7802 |
02 | ▼ 高台寺 庫裏 | 35.0008 | 135.7808 |
03 | ▼ 高台寺 遺芳庵 | 35.0011 | 135.7813 |
04 | ▼ 高台寺 偃月池 | 35.001 | 135.7815 |
05 | ▼ 高台寺 臥龍池 | 35.0008 | 135.7818 |
06 | 高台寺 書院 | 35.0009 | 135.7812 |
07 | 高台寺 方丈 | 35.0007 | 135.7812 |
08 | ▼ 高台寺 方丈南庭 | 35.0005 | 135.7812 |
09 | ▼ 高台寺 勅使門 | 35.0004 | 135.7812 |
10 | ▼ 高台寺 観月台 | 35.0009 | 135.7814 |
11 | ▼ 高台寺 開山堂 | 35.0009 | 135.7816 |
12 | ▼ 高台寺 臥龍廊 | 35.0009 | 135.7819 |
13 | ▼ 高台寺 霊屋 | 35.0009 | 135.7821 |
14 | ▼ 高台寺 傘亭 | 35.0006 | 135.7826 |
15 | ▼ 高台寺 時雨亭 | 35.0005 | 135.7826 |
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