京都御所 その9
京都御所(きょうとごしょ)その9 2010年1月17日訪問
京都御所 その8では、禁裏御守衛総督である一橋慶喜に、伏見、山崎に屯集する長州兵への対応が任された後の交渉から元治元年(1864)7月18日深夜の参内、そして共に病にあった松平容保と松平定敬の三大までを見てきた。ここでは参代後の一橋慶喜の行動と十津川郷士による鳳輦奪回の企てについて書いて行く。
戎衣に着替えた一橋慶喜は、手兵を率いて諸門の防御を巡検している。歩兵隊100人余、講武所の小筒組50人、遊撃隊150人、別手組100人、床几隊100人、そして松浦作十郎、原市之進、梅沢孫太郎と近侍数人を率い、さらに床几隊100人、歩兵隊100人、雑人数100人と家老渡辺甲斐守という構成で公家門(宜秋門)前より蛤御門に至る。ここで歩兵隊を会津藩に授けている。「徳川慶喜公伝」によると朔平門外を過ぎて台所門(清所門)に至った所で銃撃が烈しくなったため、主上の御事心に懸かった上、四門の一周を了えたので、台所門の潜り戸より御所内に入ったとしている。これを信じるならば、公家門より蛤御門を経て建礼門、建春門そして北側の朔平門を過ぎ台所門に着いた事となる。ただし「七年史」の記述は下記の通りである。
一橋中納言は、諸藩に命を下して後、菊亭邸に入り戎衣を着けられしに、是より先、一橋中納言は、砲撃聞えければ、出て先蛤御門の戦況を察し、又諸隊を巡視せんとせしに、筑前の兵中立売を守りけるが、戦敗れて退きたるに会ひて、急に御台所門より入り、御車寄より昇りてて、天機を候せられんとするも、宮中動揺して、何の御殿に御坐ゐるや知る事能はず、幾多の兵士等、只槍刀を閃かして其主を尋ね、徒に混雑する事甚し、中納言は、叱咤これを制して、常御殿に参られしに、主上は此御殿にましまし、関白殿以下皆御前に候せられけり
以上を読む限り、蛤御門の戦いを巡検している内に中立売御門及び公家門前での戦いが激しくなり、一橋兵は北側に追い出されるように台所門に至ったように思える。今まで見てきた公家門前の戦いの経緯からも、朔平門側から一橋兵が応援に加わったことは考え難い。つまり慶喜は御所の四周を巡ったのではなく、御所南西角の巡検で終了したのではないだろうか。また御所内は「七年史」も記しているように混乱状況にあり、主上の御坐すらも分からない有様であった。この時、参内していた大名は稲葉美濃守、松平越中守、松平余八暦、井伊掃部頭、松平兵部大輔、松平讃岐守、大久保加賀守、真田信濃守、松平甲斐守、本多主膳正、加藤越中守、市橋壱岐守、九鬼大隅守、高家中条左衛門督、尾州藩家老渡辺伊賀守、加賀藩家老津田玄蕃等であった。そして、これ等の兵が武器を携えたまま御所内に入り騒然となっていた。先ず慶喜は兵を制し、新たな担当部署を与え御所外に押し出している。。
御所内の混乱を鎮めた後、慶喜は常御殿に参り拝謁を賜っている。守護職の松平容保、所司代の松平定敬はともに病中であり、戦場での指揮を執ることができなかった。そのため慶喜は2人に主上の守護を任せ、自らは再び御所外に出で兵の指揮を執った。「七年史」によれば、建春門で会津藩手代手代木直右衛門に出会い、その際に「因備は、我親弟なるも、其情未た知らす、宜しく守護職の注意を要す。且つ宮中の驚愕いと甚し、万一御遷幸あらは大事是より去らん、汝速に内に入りて、汝か主に伝へよ」と警告している。丁度この時期、中立売御門と烏丸の砲撃が激しかったとあるので、薩摩藩が乾御門側から攻め込んできた頃だろうか。
「徳川慶喜公伝」ではもう少し詳しく描いている。常御殿を出た慶喜は、白川門より入った一橋兵が月華門西北の潜戸より紫宸殿の南庭に入っているのを見つけ、これを日の門(建春門)内の内侍所の広庭で纏めている。そして日の門の潜戸より出て、清和院門通を堺町門へ向けて出張したとある。「徳川慶喜公伝」では、「中立売門外烏丸通に於ては、長人敗れて砲声漸く疎なりければ、更に堺町門に向はせらる。此処は山崎の屯衆真木和泉・久坂義助・寺島忠三郎・入江九一等百人、鷹司邸に拠りて越前の兵と開戦せるなり。越前兵公を見て援を請ひければ、一両藩に命ずれども依違して赴き授けず、乃ち一橋家の大砲隊を遣して応戦せしめ、互に死傷あり。」と「七年史」に比べると後の時刻の描写となっている。越前藩に大砲隊を応援させたことに関しては、既に京都御苑 鷹司邸跡 その2で触れている。「続再夢紀事」(「日本史籍協会叢書 三」(東京大学出版会 1921年発行 1988年覆刻))に下記のような記述が見られる。
さて同時に長兵等鷹司邸西北隅の築墻上及ひ東殿町に面する路次門等よりも大炮小銃を打出しけれハ表門の敵にハ大番隊其他の兵之に當り築墻上及び路次門の敵にハ補兵隊之に當り両所とも互いに烈しく打合ひけり此時軍監村田巳三郎院参町の方より一橋家の大砲二門を曳き来るを見認め是幸と直に其の炮手を促し相扶けて表門及ひ路次門の敵に向ひ発射せしに頗る命中し両所共敵ハ邸内に引入けり此発炮中村田ハ敵の霰弾にて数ヶ所の重傷を負ひ一橋家の砲手も負傷せり斯て其後敵は邸内より狙撃し我兵は堺町御門際及ひ九条邸五条邸の築墻より狙撃し互に打合い居りし
どうも慶喜が越前藩に貸し与えた大砲は、それほど多くの効果を上げなかったようだ。このように真木・久坂軍と鷹司邸で戦っている最中に、慶喜に至急参内の命が下った。兵を同所に留め置き、近臣を率いて参内すると、遷幸の準備が行われていた。「徳川慶喜公伝」によれば、内侍所御動座の支度が行われ、一二の御羽車を雲橋より担ぎ下ろして常御殿に移されている。さらに准后・親王も常御殿に御移りになられ、板輿を御庭に下し、諸司が常御殿の東簀子の軒下に敷物を敷き詰めている。百官・諸寮の役々、冠の纓を巻き、襷を懸け草履の紐を括るなど、今にも立ち退きが始まる様子であった。この有様を見た松平容保と松平定敬は主上に謁見を請い、「臣等不肖と雖とも、誓て玉体を守護し奉る」(「七年史」)と奏して、関白、中川宮等に御立退が不可であることを陳情した。
慶喜が再び参内したのは、上記の御立退が正に行われようとした時であった。再び「七年史」によれば、慶喜は公家達に囲まれ御所外の戦況を聞かれている。慶喜が「必ず勝利」と答えると、堂上人は「負けて和するは恥辱なれとも、勝て和するに何の事かあらん、先程より銃丸屢々御庭に落ち、殊に砲撃盛にして恐懼に堪へされは、和睦して長州父子入京を許さるへし」という談合を持ちかけた。慶喜は憤然と大喝し、「禁閥に発砲するの兇賊、何そ和睦の事あらんや、只討攘すへきのみ」と答えた。それでも「出張して速に討滅せられすんは、総督の職掌を辱しむるならすや」ちう言葉を浴びせかけられ、「委細承知せり」と云い再び御所の外に出た。既に中立売御門や烏丸通での戦闘は止み、堺町のみとなっていたが、この戦闘が長時間に渉れば、不測の事態が発生する可能性も有る。そのため慶喜は鷹司邸に立て籠もっている久坂玄瑞等を早く駆逐するため、大砲小銃で三面より総攻撃を懸けている。さらに焼玉を用いたため鷹司邸は炎上し、立て籠もっていた長州兵も撤退を余儀なくされた。
禁裏御守衛総督である一橋慶喜が、甲子戦争の決着を急いだのは、長州派の公卿による遷幸を防ぐためであった。しかし鷹司邸を焼き討ちにしたことが、戦後に生じた「どんどん焼け」の原因とされ、京における会津藩の悪評につながって行ったことは確かである。この元治の大火は河原町の長州藩邸から逃走するために自焼した火が広がったとする説や薩摩藩、会津藩が掃討作戦の中で社寺、民家に火をかけたとする説もあり、誰の仕業か明らかにはなっていない。明治33年9月30日の京都日出新聞に高橋正義の「譚淵甲子兵燹」が掲載されているが、その中で高橋は甲子の大火は下記のように4つの火元があったとしている。
1 河原町三條上る二町目東側長州藩邸、即ち留守居之れを焼払ひ退去せしなり云々
2 鷹司殿(堺町御門内東側表門二ヶ所表口凡六十間)長州藩士裏門其他より入り込み、會桑越薩彦の諸藩と戦ひ、終に関白家の金銀を鏤めたる玉殿宝庫政所に至るまで、一宇も残らす兵火の爲めに灰燼となる、延焼して南方へ廣がる。
3 烏丸蛤御門戦争の際、一橋中納言下知を傅へ、長州兵の潜伏せりとの聞えある怪しき向きに砲火を打込み、先づ烏丸下長者町角小紅屋を焼き、次に烏丸上長者上る醍醐殿へ打込む此の両家の猛火盛んに燃え、殊に残暑の厳敷雨も久しく降らざりしより、強風に煽たれて四方へ延焼す。
4 會桑藩等、一橋公の下知を得て、長兵の潜伏を防がん爲め、高位堂上、武家屋敷、社寺の嫌ひなく、町家に至るまで、放火して其火處處より延焼す云々
以上が正しいかは別としても、少なくとも人々が上記のように考えていたことが分かる。また「徳川慶喜公伝」にも下記のように記されている。
公は参内して事の由を奏すれば、天皇は大に御安心の旨仰せ下され、尚潜伏の者どもを討取るべしと御沙汰あり、乃ち諸藩に命じて捜索せしむれども所在明ならず、因りて怪むべき所々は悉く焼玉を打込みて火を放ちしかば、御所附近は稍静謐することを得たり。薩藩は大膳大夫父子の国司信濃に授けたる黒印の令状を、中立売門外に獲て之を献ず。
大仏次郎の「天皇の世紀」(「天皇世紀[普及版]五 長州」(朝日新聞社 2006年刊))では甲子戦後に生じた十津川郷士の鳳輦奪回の企てについて、大きく取り上げている。大仏は下記の「明治天皇紀」(「明治天皇紀 第一」(吉川弘文館 1968年刊))を取り上げ、この事件の全貌を明らかにしている。
二十日 夜、禁庭に怪事あり、玉座を紫宸殿に移したまふ、萩藩兵既に敗退し、洛中稍々静謐に帰せんとせしが、夜に入り、禁裏付筑後守糟屋義明、十津川郷士等の宮中に潜入し、鳳輦を奪はんとすとの情報を得、之れを禁裏後守衛総督徳川慶喜に告ぐ、慶喜驚きて参内するに、常御殿の内庭に暗中人影三百許、板輿を砌下に据ゑ、其の傍に麻裃を装へる者数十人群集するを認む、乃ち退散を命じ、事態を関白二条斉敬及び朝彦親王に報ず、二人急遽出仕し、奏請して玉座を御三間に移し、次いで慶喜の奏請に因り、紫宸殿に移したてまつる、親王、准后と倶に随いたまふ、随従の宮女、恐怖して為す所を知らず、声を放ちて号泣する者あり、親王亦驚かせられ、俄に病を発して紫宸殿上に倒れたまふ、侍臣中御門経之走せて水を上り、漸く癒えたまへり、御動座の後、天皇将に東階を下らんとしたまひしが、会津藩兵数人、南北より鎗刃を交へて警護したてまつり、遂に事無きを得たまふ、慶喜の手兵・会津藩兵等、事の奇怪なるに驚き、且つ訝り、徹宵殿中を捜索すれども、遂に一人を獲ず。唯猿ヶ辻穴門の鎖鑰の破壊せるを見るのみ、二十一日、払暁、玉座を常御殿に復したてまつり、親王之れに随いたまふ、今夜の事終に明らかならずと雖も。板輿砌下に据ゑしは、御前詰たりし右兵衛権佐石山基正の所業なりと云ふ、
親王とは祐宮で後の明治天皇である。非日常的な事態の発生と宮女達が泣き叫ぶ異常な雰囲気により、過敏な若い親王はひきつけを起こしたのであろう。三百人とも云われる人間が忽然と消えてしまったことより、大仏はこの事件自体が複数の人間が同じ幻覚を見たと考えているようだ。事件発生後に参内した朝彦親王はその日記に「椿事椿事」と書いているが、実際には目撃していない。そのため大仏は「昔夢会筆記」を引用している。「昔夢会筆記」(「東洋文庫 昔夢会筆記 徳川慶喜公会相談」(平凡社 1966年刊))は、その例言にも記されているように、明治40年(1907)から17回にわたる談話の書き起こした稿本を、慶喜自らが内容を確認したものである。そのため実歴であるが後の時代に作成されたものであり、慶喜の当時の立場を肯定的に捉えた記述も多く見られる。
「昔夢会筆記」第一の「蛤門の変の事」では、7月18日深夜の参内から、御所外での戦況の巡検、早期鎮静のために長兵が立て籠もる鷹司邸に大砲を撃ち掛け焼き払ったことなど、「徳川慶喜公伝」に記述されている根幹がここで全て語られているそして十津川郷士の事件は、この項の凡そ三分の一を割いて説明しているので、慶喜にとって蛤門の変の中でも重要な事件であったことが分かる。その経緯は「明治天皇紀」と凡そ同じなので、ここでは新たな情報のみを補足として記す。禁裏附糟谷筑後守(義明)が、十津川郷士が今夜鳳輦を奪い取る企てがあるという情報を一橋慶喜に報告したのは、7月20日の午後3時頃であった。別にも、既に郷士等が禁中に入り込んでいるという話もあったので、慶喜は筑後守に会桑両藩に内報させ、常御殿の塀外に兵を配置している。そして自ら伝奏を通じて関白・二条斉敬に申し上げた後、参内している。この時、主上は常御殿にあり、その縁側には板輿を舁き据え麻の上下を著けた者が数十名、その場で跪いていた。慶喜は急ぎ奏上し主上紫宸殿に移した上で、会桑の兵を御庭内に入れている。郷士達は事為らずと思い、板輿を擁して去って行ったと「昔夢会筆記」では結論付けている。後に御所の裏門の鍵が捩じ切られており、ここから侵入したと考えられている。慶喜は条約勅許奉請の時、官軍江戸討入りの時、と並び生涯で必死の覚悟を定めた時として蛤門の変を挙げている。
「京都守護職始末」(「東洋文庫 京都守護職始末-旧会津藩老臣の手記」(平凡社 1965年刊))には、十津川郷士闖入についての記述は見られない。ただし会津側の史料でも「七年史」(「続日本史籍協会叢書 七年史 二」(東京大学出版会 1904年発行 1978年覆刻))と「守護職小史」(「幕末維新史料叢書4 逸事史補 守護職小史」(人物往来社 1968年刊))には、「昔夢会筆記」と同様な記述が見られる。「昔夢会筆記」が「麻上下を著けたる者数十人その傍に跪けり」としたところを「何者とも知らず、三百人はかり、常御殿の庭内に来る者ありければ」(「七年史」)、「何者とも知ず三百人計常御殿の庭内参りければ」(「守護職小史」)と人数が増えている点に違いがある。この三百人が「明治天皇紀」にも採用されていった。「徳川慶喜公伝」は、その成り立ち上「昔夢会筆記」の引用が多いため、「麻上下の者数十人其傍に候す」としている。この「徳川慶喜公伝」は慶喜が郷士を追い払った後に判明したことまで記述している。先ず、「斯くて様子次第に討取らんとする中に、彼等は早くも去りて隻影なかりき」と郷士達は人知れず立ち去った様子が記されている。そして、この慶喜の速やかな対応について、「一橋中納言なかりせば世は暗黒となるべかりしに」(「守護職小史」)との賞賛の声も上がっている。なお元治元年(1864)4月9日に、建春門内内侍所前の非常の時の警備を十津川郷士に任されている。しかし19日の戦闘の当日、郷士達はどこに屯集していたかは明らかでない。さらに翌20日になって何故か常御殿の庭内に入り込んでいる。また宮門の鍵を捩じ切ったのも郷士の所業とされている。なお「明治天皇紀」には十津川郷士が侵入した経路を、「唯猿ヶ辻穴門の鎖鑰の破壊せるを見るのみ。」としている。この猿ヶ辻の対面に有栖川邸があったことは偶然ではないだろう。
この事件は大納言・日野資宗が左少将・石山基文と右兵衛権佐・石山基正父子に板輿を取り下し雨具を掛けることを命じ、十津川郷士もこれに内応したと見られている。日野大納言は鞠問に対して「混雑の折柄朦朧として覚え申さず」と答えるに留まり、朝廷もこれ以上の追及を行わなかった。十津川郷士も日頃の忠義により罰せられることはなかったが、7月28日に禁裏ではなく賀茂社警守を命ぜられている。これは事件の嫌疑だけが残り真実が明らかにならなかったためであろう。
そして大仏は、「昔夢会筆記」及び「徳川慶喜公伝」を参照した後、最後に「中山忠能日記」を取り上げ、一橋慶喜等が起こした騒擾の正体と考えられる説として披露している。「中山忠能日記」(「日本史籍協会史料 中山忠能日記ニ」(東京大学出版会 1916年発行 1973年覆刻))の7月20日の条に、この事件の顛末を記されている。ここでは、御前詰めの右兵衛権佐・石山基正が大暑に耐え難いため、大納言・正親町実徳と話し合い、常御殿の東御縁の板輿を舁き下し、雨露を凌ぐために雨具を加えたとしている。これは板輿を庭に下した言い訳である。その上で、「大将軍代守宮中右軽率麁忽之進退實以可弾指之至之後無面目欤」と慶喜を酷評している。中山忠能が長州派であったことが実に良く分かる筆致である。
「京都御所 その9」 の地図
京都御所 その9 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
安政度 御所 | 35.0246 | 135.7627 | |
01 | ▼ 京都御苑 中立売御門 | 35.025 | 135.7596 |
02 | ▼ 京都御苑 蛤御門 | 35.0231 | 135.7595 |
03 | ▼ 京都御苑 下立売御門 | 35.0194 | 135.7595 |
04 | ▼ 京都御所 清所門 | 35.0258 | 135.761 |
05 | ▼ 京都御所 宜秋門 | 35.0246 | 135.761 |
06 | ▼ 京都御所 建礼門 | 35.0232 | 135.7621 |
07 | ▼ 京都御所 建春門 | 35.0236 | 135.7636 |
08 | ▼ 京都御所 朔平門 | 35.0272 | 135.7624 |
09 | ▼ 京都御所 月華門 | 35.0238 | 135.7617 |
10 | ▼ 京都御所 承明門 | 35.0235 | 135.7621 |
11 | 京都御所 日華門 | 35.0238 | 135.7625 |
12 | ▼ 京都御所 紫宸殿 | 35.0241 | 135.7621 |
13 | ▼ 京都御所 清涼殿 | 35.0243 | 135.7617 |
14 | ▼ 京都御所 小御所 | 35.0245 | 135.7625 |
15 | ▼ 京都御所 御学問所 | 35.0249 | 135.7625 |
16 | ▼ 京都御所 御池庭 | 35.0247 | 135.763 |
17 | ▼ 京都御所 御常御殿 | 35.0253 | 135.7628 |
18 | ▼ 京都御所 御内庭 | 35.0253 | 135.7631 |
19 | ▼ 京都御苑 清水谷家の椋 | 35.0231 | 135.7608 |
20 | ▼ 京都御苑 凝華洞跡 | 35.0213 | 135.7624 |
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