南千住 回向院 その5
南千住 回向院(みなみせんじゅ えこういん)その5 2018年8月12日訪問
南千住 回向院 その4では、安政の大獄で刑死した長州藩士・吉田松陰の埋葬を通じて回向院に墓が建立された経緯を見てきた。この項では、安政の大獄で殉難した者の中で回向院に関連する人々について書いていく。
既に安政の大獄については、いろいろな場所で書いてきた。特に京都御苑 賀陽宮邸跡 その2から梨木神社 その7までを使い断続的に書いてきたので、ここでは事件の経緯について詳しくは触れない。 そもそも、この事件は安政5年(1858)冬、老中・堀田正睦が京に上り日米修好通商条約調印の勅許を得ようとしたことから始まっている。当初、交渉を楽観視していた堀田等であったが、廷臣八十八卿列参事件が発生するなど、京の政局は次第に混迷を深めていく。そして江戸から運んできた黄金の効果もなく、堀田は勅許を得ることあきらめざるを得ない状況に追い込まれていった。条約調印の勅許を得ることで国内の世論を開国に統一をすることを目指した幕府は、朝廷から方針の見直しを突き付けられた訳である。さらには交渉の後半から持ち出した将軍継嗣問題でも、一橋慶喜に決定させる言質を得ることもなかった。京における朝幕交渉の裏側で働いた梁川星巌、梅田雲浜、頼三樹三郎そして橋本左内、西郷吉之助という人々が、その後の大獄の対象となっていく。
何等得ることなく京から戻った失意の堀田に代わり、同年4月23日に彦根藩主の井伊直弼が大老に就任する。6月18日から始まった条約締結の交渉は、全権委任された岩瀬忠震と井上清直によって翌19日の午後に早くも調印を完了してしまう。21日に宿次奉書を以って京都へ条約調印についての報告を行うと共に、22日には在府の諸侯に登営を命じ米国との条約調印の顛末を説明している。そして24日に前水戸藩主・徳川斉昭、尾張藩主・徳川慶恕、水戸藩主・徳川慶篤、福井藩主・松平慶永(春嶽)の不時登城が起こる。これに次期将軍の候補であった一橋慶喜を加えた人々が幕府内における反井伊派であり大獄の対象者とみなされる。ただ、この時点までは一人の処罰も捕縛者も出ていなかった。
6月21日付け条約調印についての宿次奉書は22日に発送され、27日に京都に到着している。朝廷は条約調印の報せに驚愕し、同日の内に御三家あるいは大老の中より説明する者を呼び寄せることを決めている。さらに翌28日の会議では御譲位の宸翰が出され、一同で諫止している。とりあえず関東に対しては、6月29日付で、三家並びに大老の早々の上京を求める大奉書八折を返している。
その頃、江戸でも政局が大きく動いている。6月25日に紀州藩主徳川慶福が継嗣と定められ、26日には京都所司代に小浜藩主酒井忠義が就任、老中・間部詮勝が条約調印の弁疎のため上京が決まる。そして7月4日に不時登城の処分が決する。安政5年(1858)7月5日、前水戸藩主・徳川斉昭に急度慎、尾張藩主・徳川慶恕に隠居・急度慎、福井藩主・松平慶永にも隠居・急度慎を命じ、一橋慶喜の登営を停止している。これが大獄の始まりと見てよいだろう。そして6日に第13代将軍・徳川家定が薨去するが秘せられる。朝廷からの三家並びに大老の上京に対し、幕府は三家の召命は事故ありて奉命し難きを謝し大老は政務繁劇を以て其期を緩めること求め、そして京都所司代・酒井忠義と老中・間部詮勝が上京することを7月9日付で返書している。孝明天皇は、このような緩慢な幕府の反応に対し7月27日に再び御譲位の思召し示している。所謂、戊午の密勅と呼ばれるものは、このような朝幕交渉の行き詰まった状況下で作成されている。8月5日、関白、議奏、武家伝奏の諸臣が召集され、譲位と幕府詰問の2点について話し合われる。そして主上の御譲位の御沙汰書すなわち御趣意書を幕府に伝達するのではなく、水戸藩への勅諚降下に決まる。そして同月7日に水戸への勅諚降下が三公と前内大臣によって確定する。この日、関白・九条尚忠は意図的に欠席している。勅許なく日米修好通商条約に調印したことへの呵責、御三家及び諸藩は幕府に協力して公武合体を成し幕政改革を遂行せよとの命令、そして上記2つの内容を諸藩に廻達せよという副書である。この勅諚を水戸家に下降したことが、事件を大獄に昇格させている。つまり朝廷が一大名に対して命令を下す事は、幕藩体制の根幹を揺るがすことであり、既に徳川幕府創設時より禁じていた行為でもある。これを行ったことにより処罰対象が格段に拡大したと考えてもよいだろう。
安政の大獄の捕縛の始まりは、一般には安政5年(1858)9月7日の梅田雲浜とされている。しかし雲浜の就縛が何時のことであったかは明確ではない。佐伯仲蔵編の「梅田雲浜遺稿並伝」(有朋堂書店 1929年刊)では5日、7日、8日、9日そしてその他と5つの説を挙げている。9月5日に近藤茂左衛門が中山道大津宿で既に捕えられているので、雲浜より先に捕縛されたのは下記の山本貞一郎の兄であった近藤であったのかもしれない。何れにしても安政5年9月の捕縛の前後から殉難者達の運命を見ていく。
最初の犠牲者は浪人の山本貞一郎であった。貞一郎は幕吏が近づくのを察し8月29日に京で服毒自殺を図ったとされている。しかし世古格太郎の「唱義聞見録」(「野史台 維新史料叢書 雑3」(東京大学出版会 1975年刊))では、「貞一郎此頃コレラ病に罹りありしを窃に大坂に落し遣りたりしに間もなく大坂にて病死しけり」とある。また「大日本維新史料 類纂之部 井伊家史料九」(東京大学史料編纂所 1975年刊)には9月3日付けの所司代宛の某上書(9・七〇)として砂村六治こと山本貞一郎の病死と火葬が報告されているので、あるいは病死と見るほうが妥当であるのかもしれない。
当時著名な詩人であり、尊皇攘夷の活動家でもあった梁川星巌も9月3日に病死している。星巌が一命を取り止めていたならば梅田雲浜、頼三樹三郎同様に捕縛されたことは明らかであり、その処罰もまた2名と同じであっただろう。先の梅田雲浜捕縛以降、逮捕者は京都、江戸そして水戸を合わせると150余名に達したとされている。ほぼ一年の取調べが行われた後、安政6年(1859)8月から断罪が始まる。切腹1名、斬首7名、40名に及ぶ遠島、追放等の中からも獄死者が続出した。ここでは殉難者を時系列的に見ていく。
就縛後最初の犠牲者は清水寺の寺侍・近藤正慎で、10月23日に六角獄で舌を噛み自殺している。これは次の月照へ罪が及ぶことを防ぐためであった。
9月に大阪に隠れた清水寺成就院の住職であった月照は11月に鹿児島に入っている。頼りとしていた島津斉彬が同年7月16日に国許で急死したため、月照と西郷吉之助を保護する者が薩摩藩にはいなかった。11月16日西郷と入水し一人死す。
密勅降下を運動した薩摩藩士・日下部伊三治は子の裕之進とともに9月27日に江戸で捕縛、12月17日に獄死。明田鉄男氏の「幕末維新全殉難者名鑑」(新人物往来社 1986年刊)には「十二月十七日伝馬町牢で獄死」とあるが、世古格太郎の「唱義聞見録」(「野史台 維新史料叢書 雑3」(東京大学出版会 1975年刊))では、「戌午十月十八日江府に囚につき石谷因幡守役宅にて改牢屋敷預となれり」とあるので、伝馬町牢獄入りはしていなかったのかも知れない。ちなみに石谷因幡守は当時の北町奉行の石谷穆清である。
大覚寺の六物空満等と尊攘運動を進めてきた富小路家家司の山本縫殿を、明田氏は「十一月二十二日伝馬町獄で病死」としている。山本は京都で捕縛されたので、この時期江戸の伝馬町で獄死したとは考え難い。恐らく今日の六角獄での獄死であろう。
月照の実弟の信海が伝馬町牢獄で獄死したのは安政6年(1859)3月18日であった。信海は京都で取り調べられた後江戸送りになり、江戸で獄死した最初の犠牲者であった。京で捕縛された者は安政5年12月頃から順次江戸に護送されている。
日下部裕之進等と国事に奔走した先手組与力の中井数馬は、元高松藩士・長谷川宗右衛門を匿った罪で安政6年3月に就縛、5月14日に江戸で獄死。因みに中井の匿った宗右衛門と子の速水は永押込となっている。
橋本左内とともに活動してきた松田東吉郎は、藩主松平慶永が隠居謹慎を命じられたことに憤り安政6年6月20日福井藩江戸藩邸で自刃している。松田は深川の霊巌寺に埋葬されている。
水戸藩君臣に対する処分は安政6年8月27日に下された。前藩主の徳川斉昭は水戸で永蟄居、現当主の慶篤は扣、そして一橋慶喜に対しても隠居慎が命じられている。
水戸藩家老の安島帯刀は三田藩九鬼家邸で同27日に切腹。この大獄において切腹は帯刀一人のみである。ちなみに安島の切腹した三田藩邸は駒込にあったという記述もWEB上で見られるが、駒込には三田藩の藩邸はなかったようだ。三田市電子図書館の「江戸の大火で類焼した三田藩江戸屋敷」によれば、安島は三田藩に預けられ霞が関上屋敷に収容されている。この霞が関上屋敷は宝永4年(1707)の拝領以来、明治維新まで三田藩の藩邸として使われてきた。現在の外務省から憲政記念公園・国会前庭和式庭園にあたる。そして安政の大獄を主導した井伊直弼の彦根藩上屋敷(憲政記念館から国会前庭あたり)のすぐ近傍でもあった。
安島帯刀は三田藩藩邸に預けられ同地で切腹した後、親族によって水戸酒門共有墓地に葬られている。小塚原に埋葬されなかったため帯刀の墓碑は回向院に存在しない。
水戸藩京留守居役の鵜飼吉左衛門、幸吉の父子は、安政5年9月18日京で捕縛され、12月5日に東行となる。安政6年8月27日に伝馬町牢獄で斬。密勅を京から運んだ幸吉は獄門に処せられている。これは安政の大獄の中で最も重い処罰であった。それだけ幕府は密勅降下を重大犯罪と見なしていることが分かる。
水戸藩奥祐筆筆頭の茅根伊予之介も伝馬町牢獄で斬。高橋多一郎の弟の鮎沢伊太夫は遠島に処せられた。なお鮎沢は豊後佐伯藩に禁錮され3年後に赦されたが、明治元年(1868)10月の諸生党藩士による水戸城を襲撃事件(弘道館戦争)で戦死している。この水戸藩に対する処罰は切腹1名、斬首3名(内1名は獄門)、遠島1名であった。この安政6年8月27日に鷹司家臣小林良典に遠島、儒者池内大学に中追放、近衛家老女村岡に押込みが処せられている。
西園寺家家臣の藤井尚弼は安政5年12月25日、有栖川宮の家士飯田忠彦、青蓮院宮家士の伊丹蔵人と山田勘解由、三条家諸大夫の森寺常邦、鷹司家諸大夫の高橋俊璹そして梅田雲浜、頼三樹三郎とともに京の六角獄舎から江戸に送られている。1月8日に飯田、森寺、梅田と藤井の4名は小倉藩、伊丹、山田、高橋、頼の4名は福山藩預かりに決まった。彼等が江戸に到着したのは1月9日のことであった。藤井に対する鞠問は、3月4日と6月10日にあったが、9月1日に小倉藩邸で病死している。
同じく小倉藩に預けられた梅田雲浜も脚気となり、9月14日に衰弱死している。藤井と梅田は小倉藩小笠原家が檀家となっていた浅草海禅寺中の泊船軒に“仮埋葬”されている。
前内大臣で隠居 落飾 慎となった三条実万は、洛北一乗寺村に幽居していた。安政6年10月6日に急死しているが、これが毒殺であったといわれている。石田孝喜氏は「幕末京都史跡大事典」(新人物往来社 2009年刊)で次のように記している。
八月十二日、腹瀉を患いいったん回復するが、九月二十六日に、公が隣家の渡辺喜左衛門の来訪を受け、世話話をしていると、菓子がどこかから送られてきたので、喜左衛門にも分け与えたところ、彼は帰宅後、これを食べて中毒死した。
公は同夜二時頃から下痢を患い、御典医中山摂津守、高橋安芸守らの診療を受けたが思わしくなく、知らせにより本宅より御簾中様(奥方)や実美公も駆せつけて看護にあたった。病状ますます思わしくないため、十月三日に医師上田玄仲の勧めにより、本宅に帰られることになり、同夜丑の刻深更二時頃、近習数名と医師一人付添いで帰宅された。そして十月六日午前六時、五十八歳で薨去されたとなっている。
明田氏の「幕末維新全殉難者名鑑」も渡辺喜左衛門を「安政六年九月二十六日実万あての菓子を相伴して毒死」としている。
「南千住 回向院 その5」 の地図
南千住 回向院 その5 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
回向院 | 35.7322 | 139.7978 | |
01 | 泪橋 | 35.729 | 139.7994 |
02 | 延命寺 | 35.7316 | 139.7978 |
03 | 円通寺 | 35.734 | 139.7928 |
04 | 素戔雄神社 | 35.7371 | 139.796 |
05 | 荒川ふるさと文化館 | 35.7375 | 139.7954 |
06 | 千住大橋 | 35.7393 | 139.7973 |
07 | 千住宿 | 35.7505 | 139.8028 |
08 | 奥の細道矢立初めの地 荒川区 | 35.7331 | 139.7985 |
09 | 奥の細道矢立初めの地 足立区 | 35.7412 | 139.7985 |
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