白河院
白河院(しらかわいん) 2008/05/12訪問
洛翠を出て、白川通から二条通に入り、1ブロック西に進むとこけら葺屋根に瓦を載せた大門が現れる。ここが白河院の表門である。車止めがあるため、左側の建物に入り、庭園の拝観を申し出る。
この藤原氏の氏長者である藤氏長者として良房の7代目にあたる藤原師実の時に、この別荘地は白河天皇に献上された。師実は藤原氏絶頂期である藤原道長の孫、平等院を建立した頼通の子にあたる。師実は養女の賢子を白河天皇に入内させ、敦文親王と善仁親王が産まれたことから後宮政策は成功を収めた。その後、善仁親王への皇位継承(堀川天皇)においても白河天皇と協調することで、従兄である藤原信長との摂関の地位をめぐる対立に勝利する。白河天皇も院政を開始した後も師実の意向には配慮するように努めていた。 しかし承徳3年(1099)に子の師通が38歳の若さで死去し、その2年後の康和3年 (1101)には師実も亡くなる。後に残された師通の子である忠実はまだ23歳であった。父そして祖父の後見を失ったため、摂関家の権力は失われ、完全に白河法皇の院政の風下に立つ事になった。
「澄空」さん?のブログには「みやこめっせ」と「平安京創生館」に展示されている法勝寺の復元模型の写真が掲載されています。しっかりと撮影されているので細部まで良く分かりました。「平安京創生館」の模型では、東西に走る大路が法勝寺に突き当ったている。この大路は二条通と思われるが、境内の北側は上記のように冷泉通より50メートル南どころではなく、現在の丸太町通まで達しているように思える。このあたりは既に民家となっているためなかなか発掘調査が出来なのだろう。この模型も心なしか境内北側は空白になっているように見える。
建立後の法勝寺は文治元年(1185)の大地震により九重塔以外の諸堂の大半が倒壊し、承元2年(1208年)には落雷により九重塔は焼失している。このときは栄西が大勧進になって塔の再建がなされた。しかし康永元年(1342)の火災により残る堂舎も焼失した。その後覚威和尚によって一部再建されたが、衰退の一途を辿り、やがて廃寺となった。
現在の白河院はこのような歴史を持った地の上に、同じ名前で大正8年(1919)呉服業を営む下村忠兵衛の邸宅として造られた。竣工当時は和館と洋館があり、円山公園のマスタープランを作成した武田五一の設計、庭は7代目小川治兵衛の作庭であった。 昭和33年(1958)に,現所有者の前身である私立学校教職員共済組合の宿泊施設となり、昭和57年(1982)に洋館と和館の一部は取り壊され、新たな宿泊棟が建てられた。しかし庭園は殆ど改変されなかったようだ。
京都市の駒札には
「庭園の構成には,東山への眺望を活かしつつ和館の傍にクロマツの大木を配することで,敷地に遠近感を与えるなどの工夫が凝らされている。さらに,樹木の特性を熟知した植栽の配置,琵琶湖疏水から引かれた水流の巧みな取り扱いなど,植治による円熟の技が随所に現れており,貴重なものである。」
とあるが、木造2階建ての建物、昭和に増築された建物そして庭木が高くなり、東山の眺望が得られていない。また芝生部分も少なく、どちらかというと鬱蒼とした森の中というイメージが強い。以前の建物配置はどのようなものだったのだろうか?残された和館の位置から見てもう少し池前の空間が広かったのではないかと思われる。
ともかく和館二階からの眺望は、庭からのものと異なり、東山が庭木に連なるように見えるに違いない。もっともこの施設を利用しないと得られないと思うが…
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