熊野若王子神社
熊野若王子神社(くまのにゃくおうじじんじゃ) 2008年05月17日訪問
疎水分線にかかる若王子橋を東に渡ると、細い水路が東西に走る。熊野若王子神社の境内はこの水路の北側にあり、2本の石橋が架かる。境内に入る石段の右手に御神木である梛の大木がある。梛の木は、古来より紀州熊野三山詣、伊勢神宮参拝などの折、ミソギの木として用いられた珍しい樹木である。樹齢についての記録はないが、400年以上と推測されている。なお梛の大木の傍らに架かる石橋は明暦2年(1656)7月吉良家よりの寄進とされている。この西側の鬱蒼とした木々の中の石橋を渡り境内に入る。
祭神は国常立神、伊弉冉尊、伊弉諸尊、天照大神。
永暦元年(1160)後白河法皇が熊野権現を禅林寺の守護神として勧請せられ、分霊を迎え祈願所とする。禅林寺新熊野社・若王寺と呼ばれることもあった。社名は天照大神の別称である若一王子に因んで名付けられている。
熊野神社の項で触れたように、阿弥陀信仰が強まり浄土教が盛んになると本地垂迹と呼ばれる神仏習合思想が強くなり、そして熊野全体が浄土の地と見なされるようになる。白河上皇をはじめとした院政期の歴代の上皇が頻繁に行った熊野詣は、この地に浄土を求めたためである。 熊野神社は、修験道の始祖といわれている役小角から数え十世となる僧日圓が、弘仁2年(811)紀州熊野大神を勧請したのが始まりとされている。そして寛治4年(1090)白河上皇が増誉大僧正に熊野三山検校の職を授けると、増誉は聖護院の建立の際に、熊野神社を鎮守神として別当を置き管理している。
その後、永暦元年(1160)後白河上皇は、新熊野神社と共に熊野若王子神社を勧請し、京都の熊野三山として朝野の崇敬を集めてきた。
以後、室町幕府及び武家の信仰を集めると共に花見の名所としても有名であり、寛正6年(1465)3月に室町幕府第8代将軍・足利義政により花見の宴が催されている。その後、応仁の乱(応仁元年(1467)~文明9年(1477))により社殿は荒廃したが、豊臣秀吉により再興され、社殿及び境内が整備される。
現在の社殿は昭和54年(1979)に一社相殿に改築されたもので、明治の修築の際は本宮・新宮・那智・若宮の四棟から構成されていた。
元治元年 (1864)に刊行された花洛名勝図会の正東山若王子(若王子)の図会の左下に若王子神社の熊野権現社の本宮・新宮・那智・若宮の社が一列に並んで建てられ、その傍らには蛭子社が見える。その他に本文には拝殿と神楽殿も記されている。いずれにしても現在私たちが見る熊野若王子神社はこの図会のほんの入口に過ぎないことが分かる。明治初年の神仏分離によって熊野若王子神社のみが残ったということは、このことなのだろう。
境内には、末社として恵比須神社及び三解社が祀られている。恵比須神社は本殿に向かい左側、最初に境内に入った西側の石橋の正面に建つ。
恵比須像は木造寄木造り等身大の坐像で、社宝のご神体として祀られ、現在も多くの崇敬者より篤く信仰されている。
宝暦11年(1761)に書かれた「京町鑑」には
古老云、往古西洞院中御門に北山の下流あらはれ、又この辺に蛭子社有りしゆえ、恵比須川と号し、其後次第に人家建つゞきしゆえ通りの名とす、応仁の乱に此社亡滅し、川も埋れ侍りしが不思議に蛭子の神像残り
とあり、この神像が恵比寿神社に祀られたと伝えられている。西洞院中御門は現在の椹木町にあたり、蛭子社の傍らを恵比須川が流れていたが、現在では川は埋まり夷川通の名だけが残っている。この恵比須神社へは開運・商売繁盛を祈願する人のお参りがある。
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背後の若王子山頂には、同志社英学校の創立者である新島襄の墓がある。その道標が鹿ケ谷通から熊野若王子神社へ上る入口と神社前に建てられている。 また神社前には後花園天皇御遺蹟之地の碑も建つが、フィールド・ミュージアム京都の記載が「解説文作成中」ということで何の御遺蹟か良く分からない。また今回は三宅安兵衛遺志ではなく三宅洛園建之と記されている。
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