文書と写真・地図による「記憶」の再現

京都御所 その5

京都御所(きょうとごしょ)その5 2010年1月17日訪問

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京都御所 建礼門

 京都御所 その4では、徳川幕府による慶長度造営から6回目となる宝永度造営までを記した。最初の慶長・元和度造営から2回目の寛永度造営までは、後水尾院と徳川幕府の間の政治的な駆け引きの中で行われた造営と考えてもよいだろう。この時期の内裏は、豊臣秀吉による天正度造営の内裏とほぼ同じ規模であったと考えられる。
 この後、僅か20年の間に内裏は3度立て続けの火災に見舞われる。寛永19年(1642)の完成後10年余の承応2年(1653)6月23日に内裏は焼失している。3度目の承応度造営が承応3年(1654)3月12日の木作始によって開始し、明暦元年(1655)11月10日には後西天皇が新内裏に還幸されている。この承応度造営の内裏完成からほぼ6年後の万治4年(1661)正月15日、関白二条光平室賀子内親王家より出火があり、内裏、後水尾院の法皇御所、東福門院の女御御所、明正院の新院御所等が悉く炎上し、公家屋敷119、社寺16、民家558が焼失している。
 幕府は安定しない経済基盤で4度目の寛文度造営を行い、寛文3年(1664)に完成をみている。しかし寛文度造営の内裏も10年ももたなかった。寛文13年(1673)5月8日夜丑時、関白鷹司房輔邸より火事が起こり、本院御所を除く、内裏、仙洞御所、女院御所、新院御所等が焼失している。
 5度目の延宝度造営は延宝3年(1675)正月19日、内裏の木作始が行われる。この時も竣工間近の同年11月25日の午刻に火災に見舞われ、前回焼け残った本院御所も失っている。幸いのことに新内裏への類焼がなかったため、予定通り新内裏還幸が11月27日に行われている。

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京都御所 左仙洞御所 奥に建春門
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京都御所 建春門

 延宝度造営の内裏は30年近く存続したが、宝永5年(1708)3月8日の午刻、油小路姉小路より発した宝永大火により、再び内裏を始めとし仙洞御所、女院御所、東宮御所、中宮御所、女一宮御所など焼いている。宝永5年(1708)9月2日に内裏の木作始が行われ、翌宝永6年(1709)9月26日に工事が完了している。この宝永度造営は、天正度造営以来の内裏拡張を行っている。今日の御所の東西幅になったのは、この時の造営によっている。この拡張に伴い、烏丸通以東、丸太町通以北の数町の民家を鴨川東の二条川東に移転させている。その跡地を御所の敷地に繰り入れることで拡張を果たしている。高台寺 その4新三本木の町並みでも触れた三本木町が新三本木町に移転したのもこの時のことである。宝永度造営の内裏は天明8年(1788)までの80年にわたって存続した。
 天明8年(1788)正月晦日、京都では宝永大火、元治大火(甲子戦争)と並ぶ天明大火が発生している。鴨川東岸の宮川町団栗辻子の町家から出火、強風に煽られて五条通にまで達する。更に火は鴨川対岸の寺町通に燃え移り、洛中全域に広がってゆく。鎮火したのは2日後の早朝であった。その焼失範囲は、東は河原町・木屋町・大和大路、北は上御霊神社・鞍馬口通・今宮御旅所、西は智恵光院通・大宮通・千本通、南は東本願寺・西本願寺・六条通までに及んでいる。京都1967町のうち焼失した町数1424、家数36,797戸、寺院201、神社37とされている。
 幕府は同年3月22日に老中松平定信を禁裏御所他の修築を命じている。ほぼ同じ時期、宝暦事件に連座し永蟄居を命ぜられていた有職故実家の裏松光世は、30年の蟄居生活の中で「大内裏図考證」を著わしていた。この大著は松平定信の知るところとなり、裏松光世の蟄居を解かせ、内裏造営に尽力させた。
 工事は寛政元年(1789)2月下旬より始まり、3月27日に御地築始があり、7月4日には木造始、さらに8月13日には紫宸殿、清涼殿、内侍所、小御所、常御所等の立柱式、そして同月26日に上棟式が行われている。11月22日には新宮に天皇が還幸された。仙洞御所と女院御所も同時期に竣工している。寛政度造営の内裏は一部に古制を取り入れて造営され、その後も御学問所を増築するなど、近世を通じて最も整備された広大な内裏となった。南側125間、東側及び西側179間9尺7寸5分、中宮御所を加えた敷地面積は25,041坪に達する。これは宝永度造営の22,201坪より1,830坪も拡張している。宝永度より南と北へ少しずつ敷地を増やしたことによる拡張である。また御所の北西隅を除く3箇所に切り欠けを設けている。南西は14間7分7厘×9間半、南東は12間7分7厘×16間5尺の切り欠けだが、北東は62間×44間半と大きく欠いた後に2間×2間の二段目の切り欠けを施している。

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京都御所 朔平門

 古制を復活させた寛政度造営の内裏は60年余存続する。孝明天皇御宇の嘉永7年(1854)4月6日の午刻、女院御住居の局より出火した火は後院の殿舎を炎上させ、内侍所、紫宸殿に移り、内裏、准后御殿と公家屋敷や町家を炎上させ、西は千本通、北は今出川通、南は下立売通まで焼失させている。なお安政への改元は、嘉永7年(1854)11月27日であり、その理由は内裏炎上、地震そして黒船来航などの災異が重なったためとされている。
 徳川幕府としての通算8度目にして最後の造営となる安政度造営は、同年4月16日に禁裏御所方御作事惣奉行に老中阿部正弘を任命したことから始まった。造営の工事費を府内の町人に御用金として仰せ付けている。その総金額202,500両とされている。既に幕末期に入り幕府財政は破綻を来たしている時期の造営である。工事は翌安政2年(1855)3月18日の木造始より開始されている。4月8日には立柱式、8月24日に上棟式が行われ、9月21日より7日間、阿闍梨青蓮院二品天台座主尊融入道親王によって新殿安鎮の修法が行われている。尊融入道親王とは後の中川宮、すなわち久邇宮朝彦親王であり、安政の大獄に連座する前のことである。
 徳富蘇峰の「維新回天史の一面」(民友社 1929年刊)の第三章にはこの大火の発生の経緯と当日の朝彦親王の行動が記されている。今城定成の女で先代に御仕えしていた掌侍の孝順院が毛虫を嫌っていた。孝順院住居の傍らにあった梅の枝あった毛虫が生じたため、召使の紅梅という女が主人のために竹の先に藁を結び付け、毛虫を焼き殺そうとした。これが飛び火し東の方湯殿の屋根に燃え移り大火に至ったとしている。孝明天皇は鴨社に避難、さらに聖護院に御幸し、後には御所の北に位置する桂宮邸に仮皇居を定めている。
 朝彦親王は正午刻に禁中炎上を知り、すぐに徒歩で参内している。しかし既に天皇、祐宮(後の明治天皇)敏宮、和宮、新待賢門院雅子御方々は下賀茂神社へ遷幸されたため、親王も鴨社に向かっている。鴨社本殿で天機を御伺い、自らの青蓮院を宮御方の住所に用いるように申し出ている。天皇と祐宮は午後3時に聖護院に遷幸され、敏宮、和宮、新待賢門院雅子は午後5時に青蓮院を仮御所としている。青蓮院はその前の天明大火の際、後桜町上皇の仮御所となっているため、青蓮院旧仮御所の碑が門前に建てられている。親王はこの故事に従い再び仮御所を進言したのであろう。なお日本史籍協会叢書に「朝彦親王日記」(東京大学出版会 1969年復刻)があるが、現存する日記は元治元年(1864)の禁門の変の直前から始まるため、残念ながら御所炎上や安政の大獄に関する記述は欠如している。

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京都御所 清所門

 この安政度造営は、10月2日の新殿地鎮祭を経て、11月23日に孝明天皇は新宮に還幸されている。惣奉行の阿部正弘は江戸で国事にあたっていたため、京都出張はなかった。そのため所司代の脇坂安宅が代役を勤めている。嘉永7年(1854)1月16日にペリーの再来があり、3月3日には日米和親条約の締結が行われている。この後、阿部は攘夷派の徳川斉昭を政権につなぎとめながら、開国派との調整に忙殺される。そのような状況下で内裏造営に関与することなど無理な注文であった。
 安政度造営の内裏の規模は寛政度造営と同じものであった。ただし、上記の南側築地の切り欠き無くしている。そのため南東は仙洞御所の西北隅に切り欠きを設けることで道路を通し、南西では清水谷家の敷地に道路をくい込ませている。なお東北の大きな切り欠きは慶応元年(1865)11月の内裏築地の拡張で変更されている。つまり文久3年(1863)5月20日の朔平門外の変の際には、寛政度造営の大きな切り欠きが残されていたことになる。

 以上が徳川幕府になってからの8度の内裏造営である。藤岡通夫の「京都御所 新訂」(中央公論美術出版 1987年刊)では、織田信長による永禄度と豊臣秀吉による天正度を加え、近世に行われた10度の造営を総括している。藤岡は天正度造営までは里内裏としての土御門東洞院殿を踏襲していたとし、僅かに方1町程度のものであったと推測している。つまりその当時の内裏の敷地は119m四方(1尺=2.96445m)程度であるが、残念ながら今のところそれを立証する史料はないとしている。
 慶長度造営では正親町院御所の敷地を取り込み東側に拡張することで、南側築地で115間半、東側103間、西側119間となっている。6尺5寸間とすれば1間=1.97mで227.5mとほぼ方2町の敷地となる。東西方向は、併合された正親町院御所も方1町であったと考えれば説明がつくが、南北方向についてはこの時期に1町程度の拡張が成されたと考えねばならないだろう。元和度には東福門院入内に伴う女御御殿の建設が行われている。これは旧後陽成院御所の一部を取り込んだ拡張であるが、この増築を含めると天正度の内裏の凡そ6倍近い面積になる。
 先の「京都御所 新訂」の「挿図31 内裏敷地拡張比較図」によると寛永・承応・寛文・延宝度造営は、先の元和度造営の女御御殿を含めた内裏よりも南北方向は狭くなっているものの、慶長度の内裏に見られる敷地北辺部の不整形な形状を若干の拡張を行ことにより改めているように見える。寛永度から延宝度までの4度の造営では、東西は慶長度の115間半を維持しながら、南北は129間余とほぼ矩形の14,265坪の敷地の中で行われてきた。

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京都御所 東面 右端は猿が辻
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京都御所 北東隅 猿が辻 入り隅になっている

 宝永度造営の時に東側と北側への拡張が行われている。東側へは10間ばかりの拡張により、東西125間半になった。これに対して南北方向は、西側が198間となったことで70間近い拡張が行われている。さらに寛永度に作られた矩形の敷地に対して、東北隅に大きな切り欠けができたのもこの時のことである。敷地面積も寛永度造営から7,936坪増え、22,201坪となっている。なお現在の京都御所の東西幅はこの宝永度造営を踏襲している。
 寛政度造営でも内裏は南北方向に拡張している。先ず南側は紫宸殿前方が狭いため、南門前の道路12間余を内裏内に取り込んでいる。この南門前の道路とは、平安京の土御門大路のことと思われる。もともとは10丈=29.6445mの大路であったが、この時期には12間余(12×1.97m≒24m)の道路となっていたのかもしれない。また南側築地については南西と南東の隅には夫々10間余の切り欠けを作ることで通行を確保したようだ。北側へは宝永度から16間程延び、近衛邸との道幅は著しく狭められている。この寛政度の北側築地の位置は現在の位置と同じものである。東北隅の切り欠けも少しだけ東側に築地を張り出すことでやや小さくなっている。
 安政度造営は南側築地の南西、南東隅にあった切り欠けがなくなり、整形になっている。さらに東北隅の大きな切り欠けが無くなり現在の形なったのは慶応元年(1865)11月のことであった。

 以上のように現在の京都御所の西側の築地の位置は、室町末期の土御門東洞院殿の西限とほぼ一致していると考えられている。すなわち西側への拡張はなかったことになる。これに対して東側への拡張は、江戸時代に入ってからは宝永度の一度のみで、この時に現在の御所の東西幅が決まっている。また南側への拡張も寛政度に12間余拡張したのに留まる。これらからも内裏の敷地面積増の要求に対しては北側への伸張によって応えてきたことが明らかになる。このような内裏敷地の変遷は仙洞御所や大宮御所の位置と大きさにも影響を与えたと思われる。

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京都御所 南面

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