京都御苑 出水の小川 その2
京都御苑 出水の小川(きょうとぎょえん でみずのおがわ)その2 2010年1月17日訪問
京都御苑 出水の小川では本願寺水道など話しが少し横道に逸れてしまった。そのため御所の防災対策については説明できたものの御用水について触れることができなかった。ここでは御所水道敷設以前の御所で使用する水をどのように確保してきたかについて書いてゆく。
現在の京都御所の元となった土御門東洞院殿は、権大納言藤原邦綱の邸宅で平安京北辺四坊二町に所在した。もともと邦綱は藤原北家良門流に属する下級官人の出であった。文章生から蔵人になる一方で、藤原忠通の家司として頭角を現わし、和泉、越後、伊予、播磨の受領を歴任する。この間に財を蓄えることに成功し、これを資本にして昇進して行く。永万元年(1165)には破格ともいえる蔵人頭に補される。また4人の娘を六条・高倉・安徳の三天皇及び高倉天皇中宮・平徳子の乳母とし、その養育を通じた人脈構築に力を尽くした。そして安元3年(1177)ついに権大納言に就任している。邦綱の系統で公卿に列したのは平安時代前期の藤原兼輔以来とされている。第宅も数多く有し、土御門東洞院殿は六条・高倉両天皇の里内裏を経て後白河院の御所となり、五条殿は高倉天皇の里内裏に用いられている。
その後、土御門東洞院殿は長講堂と共に宣陽門院、すなわち後白河天皇の第6皇女・覲子内親王の所有となり、承久の乱後の紆余曲折を経て後深草天皇に譲られ、以後は持明院統の治天の君の御所として相伝されている。元弘元年(1331)後醍醐天皇が都落ちすると、幕府が擁立した光厳天皇は土御門東洞院殿を改めて里内裏としている。これ以降、明治2年(1869)の東京遷都まで御所として使用されてきた。
上記のように北辺四坊二町の土御門東洞院殿が正式に内裏となり、室町幕府、織田信長、豊臣秀吉によって御所の整備と拡張が行われる。次第に御所を中心とした公家町が形成され、多くの池泉が設けられる。元々この地には平安時代より多くの邸宅が造営されてきたことから分かるように、地下水や湧水が豊富であった。
平安京の東北部には南北街路に沿って複数の川、東洞院川、烏丸川(子代川)、室町川、町口川、西洞院川などが流れていたことが分かっている。京外となるが、市電が通るまで寺町通を流れていたとされる中川は内裏及び仙洞御所の庭園からの水を流していた。古代の中川(中河)は東京極大路の外側、すなわち大路の東側を流れており、平安京の東の外郭を形成していた。そのため京極川とも呼ばれていた。川幅4丈といわれているので、およそ条坊の小路位のものだった。竹村俊則は、「新撰京都名所圖會 巻三」(白川書院 1959年刊)で、中河は鴨川が増水した際のはけ口であり、鴨川の上流より水を取り入れ市の北郊田野を潤す灌漑用水であったと想像している。さらに、この中河は中世に絶えたが、近世になってその支流を御所の御溝水に使用したとも記している。「類聚三代格 巻八」寛平8年4月13日の太政官符 応レ許レ耕二作鴨河堤辺東西水陸田廿二町百九十五歩一事 には直接鴨川より水を引くことを禁じ中河の水を用いるようにしている。鴨川の堤防を強固にするための平安時代初期の施策でもある。このような灌漑用水以外にも、池泉のために中川から水を引いたことが残されている。藤原実資の小野宮(左京二条三坊十一町)へ水を引いたことが「小右記」万寿四年(1027)9月8日の条に記されている。
中河水今日八日引入、従晦日掘水路引入也、従中御門末西行、経高倉春日等小路、東院東大路、大炊御門大路等引水、万里并富小路辻橋、富小路東町十字橋等忽令造渡、為思行人之煩、不仰京職先令造耳
中世に入り中河の流れが失われると、今出川の水を北部で合流させ旧中河の流路を復活させている。そのため上流は今出川、東京極大路に沿って南下し鴨川に注ぐ流路は中川ということになったのであろう。今出川の流路については中古京師内外地図を見ると分かりやすい。今出川は出雲郷ノ内小山郷から地図に現われ、相国寺の西側の東洞院大路を南に下る形で描かれている。その源流については「此水雲ヶ畑ノ中津川ヨリ来ル」と注釈されている。今出川は北小路東洞院で分岐し東と南に別れる。東に折れた川は東京極大路で南に転進する。また北大路で南に進んだ川も一条で東に折れ、東京極大路で合流する。1本になった今出川は二条で一流が鴨川に注ぐが、一流はそのまま東京極大路下り六条で鴨川に流入している。「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 初版第4刷1993年刊)では一条大路以南を中川としている。この中古京師内外地図は江戸時代の国学者・森幸安が平安時代から室町時代の京都を復元したもので同時代に作成されたものではない。また中古京師内外地図と対となる中昔京師内外地図では、北小路での分岐がなくなり、東京極二条で賀茂川に流入している。中昔は中古より後の戦国時代の状況を復元したものとされている。 今出川の源流とされている小野郷は清滝川と雲ヶ畑川流域に開かれた山村の総称で、行政区的には清滝川流域の5村、真弓川沿いの2村、雲ヶ畑川沿いの3村を合わせた10村で、古くから小野十郷の名もある。御所からは西北方向にあたる広大な地域である。
以上が禁裏御用水成立前の平安京東北部の水事情である。中川や今出川に代わって御所に水を供給するために作られたのが禁裏御用水である。これがいつ成立したかについては今のところ明らかでないようだ。林倫子氏ら共著による「禁裏用水の構成と周辺園池との関係」(土木学会論文集D 2009.6)によると、豊臣秀吉による公家町創設以前の桃山時代には既に開削されていた可能性もあるようだ。相国寺の功徳池の水が禁裏の池へ注いでいたことを示す記録が「鹿苑日録」の明応8年(1499)3月22日の条に残されている。ここでは「内裡庭池之水近日減少。」という語が見られる。いづれにしても、その流路から見て既存の今出川を利用しながら禁裏御用水が作られたと考えてよいだろう。 江戸時代に入ると禁裏御用水の流路が明らかになる。元禄14年(1701)や天明6年(1786)の古図から現在の北山大橋の付近から鴨川の水を取り入れ、南に下り御霊神社の西側を南下、相国寺に接するところで東に曲がる。相国寺の境内を南西に雁行するように抜け、今出川御門から朔平門へとつながる水路を伝う。朔平門東側で流れは分岐し、一流は御所築地塀外側の側溝の御溝水となり、もう一流は御所の池泉を潤している。なお上記の「禁裏用水の構成と周辺園池との関係」では、その流路を地図上で詳しく説明しているので興味のある方はご参照下さい。
ここで注意すべきは、禁裏御用水が御所と公家町のために開削された専用用水路でないことである。小山郷井手より取水された賀茂川の水は上流の小山郷では灌漑に使用されている。そのため、初夏の田植え時には、水田に水を入れるため御用水の水位が下がったようだ。また生活排水などの混濁もあり、衛生的な問題も抱えていた。
禁裏御用水の管理は、賀茂川の水利権を掌握していた賀茂別雷神社が行っていた。小山郷は賀茂六郷に含まれていたため、賀茂別雷神社の実質的支配下にあったためである。今でも賀茂川の西岸の北山通から紫明通の間に小山の地名が残っている。さらに賀茂別雷神社に残された文書には、賀茂別雷神社が用水路管理の役人の人事権と、禁裏御池への流入や停止の裁量権を握っており、夏季から秋季にかけては田畑の灌漑を優先していたことが分かる。
禁裏御用水は上御霊神社と相国寺を通過する際に、夫々の庭に設けられた池泉を経由していたようだ。すなわち上御霊神社では社務所裏の庭園は、禁裏御用水の一部を取り込んでいる。この水は再び幹線流路に戻しているので、下流へ送る水量を減少させることはなかった。また相国寺の開山塔庭園は禁裏御用水の幹線を屈曲させて庭の池としていた。方丈の北東から庭に入ってきた御用水は方丈の南庭を西に流れ、南に流路を転じて南築地の外へ去って行くように意匠されている。この庭園の作庭時期は永徳3年(1383)頃とされているので、前身の今出川を用いた意匠なのかもしれない。安永9年(1780)に刊行された都名所図会の天明6年(1786)再板本に掲載されている相国寺の図会の右下隅に御用水が見える。また2004年、相国寺の承天閣美術館の増築の際に禁裏御用水と考えられる水路が発掘されている。これは開山塔庭園の北側に当り、北から真直ぐに南へ伸びている。京都市埋蔵文化財研究所は相国寺境内発掘調査現地説明会資料として公開している。
この記事へのコメントはありません。