京都御苑 下立売御門 その2
京都御苑 下立売御門(きょうとぎょえん しもだちうりごもん)その2 2010年1月17日訪問
京都御苑 下立売御門で「京都守護職始末」の一文を引用したが、その中に出てくる「新在家の砲声」を明らかにするため、次に下立売門周辺での戦闘状況に目を移す。「元治夢物語」では長州兵を待ち受ける守衛とこれに攻撃をかける児玉・来嶋隊を以下の用に描写している。
然る所に長州方、次第々々に御所近く進み来るよし、頻りに註進有ければ、「心得たり」と下立売御門までの間、築地の陰に鉄炮打手の者二、三十人宛まばらに埋伏させ、長州賊をそしと待かけたり。長州方には斯とも知らず、近々と寄かかれば、中川宮の塀の隠より会津勢二、三十人、筒先をそろへて打出せば、矢庭長州方十四、五人打倒され、手負数知れず。長州方は思もよらぬ事なれば、前後に別れ、さつと引き、前へすすみたる長州方の中へ、又続ざまに二、三十発打込ば、又三、四人打倒され、「敵には如何なる謀計有やも量り難し」と少し白けて見へたる所に、大将政久声をかけ、「敵に少の謀略ありとも、何程の事かあらん。伏見・山崎の手も早く乗入れて、有無の勝負を決するとみへたり。此手のみ後れを取りて、諸手の者に笑はれな。参や人々、進めや者ども」と大音に呼はれば、此詞に励まされ、勇み進んで打向ひ、討ども突ども厭ひなく、死骸の上を飛越反越、無二無三に切立れば、会津勢も、敵間近くすすみける故、鉄炮投捨、鑓刀を以て戦ひけるに、長州方の勇猛に切立られ、色めく所へ長州より鉄炮を放し掛れば、会津方も支へ兼、蛤御門の内へ引退く。長州方は勝に乗て追迫れば、御門を閉て墻の上、或は物陰より鉄炮をうち出せば、長州よりも大炮をはなち、御門の際まで推よせたり。
会津藩を含めた諸藩が長州兵の攻撃を予期して、築地を楯に狙撃を試みたことが分かる。決して長州藩の不意打ちを喰らったわけではなかった。長州側にとっても奇襲攻撃による御所奪回という筋書きが当初から破綻していたことを表している。この銃撃による人的消耗に、一時長州側の攻撃が鈍ったものの、来嶋又兵衛の号令により再び攻勢に出、会津藩を蛤門内に押し込んだ。その後の蛤御門の戦闘については次項で書いて行くので、ここではこれ以上は触れないこととする。
来嶋隊の南より公家町に攻め込んだ児玉隊の行動についても「元治夢物語」に詳細に描かれている。
児玉の隊は憤激して、法皇宮旧殿の北、町家との間の墻を押破り、此所より残らず乗入たり。其内の突当りに藤堂候守衛の番所あり。長藩窪無二蔵、一番に馳向ひ、「姦賊肥後守に累怨有て、誅伐の為に向ひたる長州勢なり。天朝へ恐あれば、決して他藩に敵対致すにあらず。極めて御傍観下さるべし」と云。藤堂家より答て云、「我々禁廷の守衛として此所に出格せり。曾て肥後守の守衛にあらず。恨討せらるとあれば、傍観すべし」と云て、其場を逃れ、智恩院宮里殿へ引こもれり。無二蔵、是を見て、礼をなして走通りければ、長州勢、先きをあらそひて走進む。会藩、是を見て、「すは南の方より賊軍進み入たり、打てや殺せ」と犇めき合ければ、隊長阪本角兵衛、士卒をはげまし、「是ぞ一世の御奉公なるぞ。防げや人々、食止や者ども」と烈しき下知に、「心得たり」と云より早く、矢庭に四、五十人ばかり、筒先を並べ、長州方を目掛打出せば、長藩、心は矢猛にはやれども、敵の勢ひ盛んにして、近付事叶はざれば、隊長、苛立つて、「是まで進み、御門内へ乗入ながら、敵に支へられて、此まま止べき事やある」と罵れば、此方も同じく筒口をそろへ、連発し、互に差しつめ引つめ、少しの間なく打合しが、斯ては果じと大炮をどつと放せば、又敵より大炮をはなし、双方より頻りに大炮を打違へ、其天地も崩るるばかりにひびき渡り、黒煙四方へなびき、火炎八面に飛ちり、是が為に両軍の死人・傷者夥しく、尚も勝負分らざる折ふし、思掛なく後の方より、勧修寺殿・日野殿・石山殿等は、何れも烏丸通りの方に非常用心門あり、此所より込入たる長州勢、有富新輔・児玉鑑吉・長松秀滴・有川常三郎・金子四郎・川上彦斎・黒瀬市良介・萱野加右衛門等、彼是八十人ばかり、此所彼所より顕はれ出、会釈もなく会・桑の勢に打て掛りければ、大にうろたへ、「此者どもは天より下りしや、地よりわきしや」と怪む程に、四方より打立ける。鉄炮を放つ間もなく、刀ぬく間もあらざれば、長州方は当るを幸ひ、切廻り、まくり立れば、会津方、忽ち備へ乱れ、討るる者数知れず、総崩となりて、蜘の子を散す如く、皆ちりぢりに成て逃失たり。
最初の「法皇宮旧殿の北、町家との間の墻を押破り、此所より残らず乗入たり」を、「元治夢物語」の校註者である徳田武氏は女院御旧地と推測している。女院御旧地は恭礼門院の女院御所跡地であり、「維新史料綱要 巻四」(東京大学出版会 1937年発行 1983年覆刻)によれば、中川宮がこの地を賜り文久3年(1863)10月29日に一乗院里坊より新殿に移徒している。つまり尹宮邸と町家の間の垣を分け入ったのであろう。宇高浩著の「真木和泉守」(菊竹金文堂 1934年刊)では、下記のように児玉隊の侵入経路さらに詳細に説明している。
児玉隊は砲撃が轟くに及んで、直に烏丸通下長者町下る東側弁慶良次郎邸より石山家邸内を通り抜け、八条殿前町を北へさして攻めかゝつたので、会津勢は来嶋・児玉両隊より挟撃を受け、東に向かつて敗軍した。八条殿前は藤堂和泉守の警衛するところで、長藩士久保無二三は唯一騎進んで二三言之れと応接したが、藤堂勢は何を思ひけん兵を撤して下立売御門に向つて引揚げた。
これは「元治夢物語」の記述とほぼ一致する。「真木和泉守」のこの章の参考文献の中に「甲子戦争記」が含まれていることより、この部分の記述は「甲子戦争記」を参考にしていたと思われる。これは「新撰組始末記」の西村兼文が慶応元年(1865)に書いたものとされている。「新撰組始末記」(「野史台 維新史料叢書 維新之源 新撰組始末記 他」(東京大学出版会 1974年刊))の序文を書いたのが「元治夢物語」の馬場文英であり、巻頭で「此書ハ予ガ旧友西村兼文氏ノ編スル処ナリ」と紹介している。「元治夢物語」「甲子戦争記」そして「真木和泉守」は同じ資料を基にしていたことが伺える。 再び、文久3年(1863)の「内裏圖」で確認する。藤堂兵の守衛分担は、「蛤門内南」とあるが、新在家町の南端、すなわち八条殿の前にいたと考えれば、その後に智恩院宮里殿へ引き込んだことが分かる。児玉隊が新在家町を北に進めば蛤御門の内側に出て、来嶋隊と共に蛤御門を守衛する会津藩を挟撃することとなる。また直進すれば凝華洞の裏に出ることも可能である。実際に長州兵が凝華洞を攻撃したかについては直接的な記述を見つけることができなかった。「元治夢物語」では下記の様に記している。
長州方は此勢ひに乗じて、凝華洞へ押よせ、日頃の本意を遂んと、金鼓をならして凝華洞へ進みけるが、中将公には早先達て参朝せられしと聞へしかば、兼ての望を失ひしかども、又止べきにあらざれば、「何くまでも追て行、中将に対面せばや」と、逃る敵を追いまくりながら、公家門の方へ進入せり。
此時、皇宮墻外、未申角、えの木の本に、兼て水戸家守衛の番所有て、藩士若干出格したり。又、其東の方、南御門の向いにも又、松代の藩も同様の番所在ながら、如何る心にや有けん、又は小勢故にや、目のあたりに戦ひあるに、両藩士ども、長州方を支ゆることもなく、此有様を傍観し居たり。
これは八条殿前から北に向い蛤御門内で戦った児玉隊から分かれ、直進して凝華洞に達した兵士の描写と思われる。蛤御門の内側で会津藩と戦った後に御所の南西角から東に進み凝華洞に至るには、各所での戦闘を避けることができない。そのため凝華洞の裏側から正面に廻り込み、松平容保が既に参内したことを確認した後、南門(建礼門)に達したと考えるほうが合理的だと思うが、如何であろうか?その際に、南門前の水戸藩と松代藩との交戦もなく、公家門に向って進撃したのであろう。
上記「元治嫁物語」からの引用の中に「彼是八十人ばかり、此所彼所より顕はれ出、会釈もなく会・桑の勢に打て掛りければ、」とあったが、これについて「真木和泉守伝」で、詳しく説明している。
時に前夜から勧修寺家に潜んでゐた長府藩有川常三郎・金子四郎等三十名、日野家に潜んでゐた長藩士有冨新輔・児玉鑑吉・長松秀鏑等二十名、石山家に潜んでゐた川上彦斎・黒瀬一郎助・萱野嘉左衛門等十七八名、其の他烏丸家に忍んでゐた者も、急に起つて会津藩の後方備へに討ちかゝつた。会津藩は不意を討たれて周章狼狽の状を呈したが、応援の桑名勢は会津藩の敗れるのを見て、砲門を開き来島勢を撃たんとしたが、火薬の装填が余り多かったので、車体が崩れて用をなさなくなつた。此の間に長州方の伏兵等は、石山家塀内の樹木に攀じ登り、会兵を狙撃することが急で、来島隊は勢ひに乗じてドッと蛤御門内に雪崩れ込んだ。
勧修寺家、日野家、烏丸家は中立売御門と蛤御門の間にある公家の邸宅である。前日から潜んでいた長州側は、ここから出て公家門を守る会津藩に奇襲を掛けたのである。石山家は八条殿の北側に隣接する新在家町にある。ここからは蛤御門の内側に守る会津藩あるいは凝華洞自体を攻撃することも可能である。なお川上彦斎とは、7月11日に三条木屋町で佐久間象山を暗殺した河上彦斎のことである。
また、桑名藩の大砲が破損し使用不能に陥ったことは、加太邦憲の「維新史料編纂会講演速記録」(「続日本史籍協会叢書 維新史料編纂会講演速記録 一」(東京大学出版会 1911年発行 1977年覆刻))にも同じ記述を見ることができる。
此時、台所門にありました桑名の兵は、蛤門の急を聞きまして、旗下備中の鉄砲頭長尾錬見と云ふ者と、砲一門を派しまして、会津の応援を致しました、さうして一時は激戦で接戦にまでなりまして、雙方の間に死傷者もありましたが、遂に長兵は退けられました、此時桑名の一門の砲は、初発一発にて数名の敵を斃しましたが、二発目に車体は損して用を成さゞるに至りました。
「京都御苑 下立売御門 その2」 の地図
京都御苑 下立売御門 その2 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
▼ 京都御苑 中立売御門 | 35.025 | 135.7596 | |
▼ 京都御苑 凝華洞跡 | 35.0213 | 135.7624 | |
01 | ▼ 京都御苑 今出川御門 | 35.0289 | 135.7623 |
02 | ▼ 京都御苑 乾御門 | 35.0274 | 135.7596 |
03 | ▼ 京都御苑 蛤御門 | 35.0231 | 135.7595 |
04 | ▼ 京都御苑 下立売御門 | 35.0194 | 135.7595 |
05 | ▼ 京都御苑 堺町御門 | 35.0177 | 135.7631 |
06 | ▼ 京都御苑 寺町御門 | 35.0199 | 135.7669 |
07 | ▼ 京都御苑 清和院御門 | 35.0232 | 135.7668 |
08 | ▼ 京都御苑 石薬師御門 | 35.0277 | 135.7667 |
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