文書と写真・地図による「記憶」の再現

京都御苑 蛤御門

京都御苑 蛤御門(きょうとぎょえん はまぐりごもん) 2010年1月17日訪問

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京都御苑 蛤御門

 京都御苑 下立売御門と その2を使って、国司隊と児玉隊の戦闘を見てきた。中立売御門を攻めた国司隊については、山川浩の「京都守護職始末」(東洋文庫 「京都守護職始末 2 旧会津藩老臣の手記」(平凡社 1966年刊))でも「中立売門の筑前兵を撃ち破り、門内に闖入してきた。また、ほかの一手は、中立売門の南にある烏丸邸の裡門から邸内に闖入し、それから日野邸の正門を押しひらき、唐門を守衛していたわが藩の内藤信節の軍に砲撃をしかけてきた。」という記述があることから、中立売御門を破って門内に侵入したと考えられる。それ以外にも前日から潜んでいたとする書もあるが、烏丸邸の裏門から入り日野邸の正門から公家門に攻撃を仕掛けた一隊があったことは確かなようである。

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国司軍の攻撃箇所 地図:京都 1889年製

 これに対して、児玉隊が下立売御門を打ち破り門内に侵入したという記述は見られない。「官武通紀」(「続日本史籍叢書 官武通紀」(東京大学出版会 1913年発行 1976年覆刻))に下記のような記述があるので、長州藩と仙台藩の間に交戦状態があったことは確かであろう。

夫より御屋敷詰御人数繰出之儀、隊長手前より申渡、具足等渡方之儀御役人共え申談、立懸夫々相渡遣申候処、七ッ半時頃にも候哉、鉄砲打合、御屋敷屋根之上を鉄砲玉飛行、御人数之内途中それ玉危く、烏丸通には長州人押寄候に付、一両人杯に而は罷越兼候勢に付、御人数は町家之裏杯より出張仕

 むしろ児玉隊の本務は、「元治夢物語-幕末同時代史」(岩波書店 2008年刊)の「児玉の隊は憤激して、法皇宮旧殿の北、町家との間の墻を押破り、此所より残らず乗入たり」だったのではないだろうか?たとえ下立売御門を破り門内に入っても凝華洞あるいは公家門までは遠く、戦略的な価値の低い作戦だったと思う。児玉隊の目的は公家町に入り込み、来嶋隊と呼応し蛤御門の内側から会津藩を叩くことにあったと考える方が合理的である。

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京都御苑 蛤御門
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京都御苑 蛤御門 鉄砲疵か

 蛤御門は新在家町の北にある門で、正式名称は新在家御門であった。普段開くことのない門が、天明の大火の時だけは開いたため、火に炙られて開いたことをハマグリになぞらえて、この名になっている。甲子戦争の激戦地となった蛤御門は、この戦闘で焼け落ちる事もなく当時の姿を現在に伝えている。ただし明治初年の京都御苑整備事業によって、西に30メートル程度、そして時計回りに90度回転させている。つまり元の蛤御門は烏丸通より内側に南面していた。だから守衛の会津兵も門を背にして守る事はできなく、開門して一斉射撃ということも困難であったと推測される。一方、攻める方も門の前面に大きな面積もないため、力押しするには攻めにくい構造になっている。
 さて本題の蛤御門での戦闘である。まずは会津側の記述から見て行く。「京都守護職始末」には下記のように記されている。

さて、嵯峨兵の一部の児玉、来島の率いる賊兵は、烏丸通蛤門と下立売門との間に集合して、公卿の八条邸の南の塀柵を破って闖入し、新在家を北にのぼり、わが蛤門の守備の兵に砲撃を加えた。わが隊長一瀬伝五郎らは士卒を督して、これと戦った。
はじめ、わが衛兵たちは、敵が門外から来るものと予想して、大砲二門を門の外に引き出し、烏丸通を東に向って蛤門を攻める敵を待っていたが、賊兵が新在家から攻めてきたので、いそいで大砲を門内に引き入れ、南に向って砲撃を開始した。賊兵は、遂に敵することができないで、公卿の石山邸に入って、そこからわが兵を砲撃した(石山邸には、前夜から賊兵が潜伏していたということである)。わが兵はこれと戦って、死傷者が数多く出た。来島らは、必死に兵を鼓舞して奮励せしめたが、勢いが振るわない。そのうち、桑名の兵士もわが軍に加わって、共に進み、遂に来島を仆した。賊衆は瓦解して敗走した。
その日の戦でもっとも激戦だったのは、蛤門であった。ゆえに、この日の戦を蛤門の戦と世称するようになった。

 この記述を読む限り蛤御門は長州兵に打ち破られず、新在家町を北上した軍の奇襲を受けて門内で戦闘状態に入ったということになる。また、乾門から応援に駆けつけた薩摩藩のことについての記述も見られない。また北原雅長の「七年史」(「続日本史籍協会叢書 七年史 二」(東京大学出版会 1904年発行 1978年覆刻))と「守護職小史」(「幕末維新史料叢書 4」(人物往来社 1968年刊))でも、山川浩の記述とほぼ一致している。

国司信濃は、精兵七百を率ゐて、天龍寺を出で、間道を回り、下立売、蛤、中立売の諸門に向ひ、先つ新在家町より、蛤門に迫る守衛会津藩の一瀬伝五郎、林権助隊善く拒く、賊更に近隣の公卿屋敷に入り、第門墻垣に出没して、会兵を悩ます、唐門前なる会将山内蔵人、応援し来りて、共に戦ふこと久し。(「七年史」)
 天明長人新在家町より来り犯す。蛤門守衛の我一瀬伝五郎隊及び大砲隊応戦甚勉む。賊更に近隣の公卿屋敷に入りて第門墻垣に出没して我を悩ます。唐門前なる我山内蔵人隊応援し来て二隊と共に奮戦する事二時間余、賊将森鬼太郎を斃す。敵兵破れて走る。(「守護職小史」)

 公家門前の戦いで劣勢に陥った会津・桑名を助けたのは薩摩藩であったが、蛤門については桑名と協力して長州兵を打ち破ったというのが会津藩の主張である。

 一方、長州贔屓の馬場文英は「元治夢物語-幕末同時代史」(岩波書店 2008年刊)で以下のように蛤御門の戦を描いている。

然る所に長州方、次第々々に御所近く進み来るよし、頻りに註進有ければ、「心得たり」と下立売御門までの間、築地の陰に鉄炮打手の者二、三十人宛まばらに埋伏させ、長州賊をそしと待かけたり。長州方には斯とも知らず、近々と寄かかれば、中川宮の塀の隠より会津勢二、三十人、筒先をそろへて打出せば、矢庭長州方十四、五人打倒され、手負数知れず。長州方は思もよらぬ事なれば、前後に別れ、さつと引き、前へすすみたる長州方の中へ、又続ざまに二、三十発打込ば、又三、四人打倒され、「敵には如何なる謀計有やも量り難し」と少し白けて見へたる所に、大将政久声をかけ、「敵に少の謀略ありとも、何程の事かあらん。伏見・山崎の手も早く乗入れて、有無の勝負を決するとみへたり。此手のみ後れを取りて、諸手の者に笑はれな。参や人々、進めや者ども」と大音に呼はれば、此詞に励まされ、勇み進んで打向ひ、討ども突ども厭ひなく、死骸の上を飛越反越、無二無三に切立れば、会津勢も、敵間近くすすみける故、鉄炮投捨、鑓刀を以て戦ひけるに、長州方の勇猛に切立られ、色めく所へ長州より鉄炮を放し掛れば、会津方も支へ兼、蛤御門の内へ引退く。長州方は勝に乗て追迫れば、御門を閉て墻の上、或は物陰より鉄炮をうち出せば、長州よりも大炮をはなち、御門の際まで推よせたり。
此時会藩、御門をさつとをし開き、筒口をそろへ、二、三十人うちたおし、此勢ひに乗じ、血気の若武者百人ばかり走出れば、長兵は少しも騒がず、踏込々々血戦す。会津方より「久保田半次」と名のり、「一番鑓」と喚はり踊り出、忽ち敵兵二、三人突止しが、長州より放つ鉄炮に中り、亡たり。会津方も「此所を破られては叶ふまじ」と火水に成て防ぎ戦ひしが、二の手の児玉小民部の勢、南の築地を打破り、宮中へ込入しと聞へしかば、是に気を呑れ、怯む所を、得たりと付入、御門内へ乗入ければ、児玉の隊は憤激して、法皇宮旧殿の北、町家との間の墻を押破り、此所より残らず乗入たり。

 このように「元治夢物語」では来嶋隊が蛤御門を打ち破り築地内に入ったとしている。また、「真木和泉守伝」でも同様の記述が見られる。

時に前夜から勧修寺家に潜んでゐた長府藩有川常三郎・金子四郎等三十名、日野家に潜んでゐた長藩士有冨新輔・児玉鑑吉・長松秀鏑等二十名、石山家に潜んでゐた川上彦斎・黒瀬一郎助・萱野嘉左衛門等十七八名、其の他烏丸家に忍んでゐた者も、急に起つて会津藩の後方備へに討ちかゝつた。会津藩は不意を討たれて周章狼狽の状を呈したが、応援の桑名勢は会津藩の敗れるのを見て、砲門を開き来島勢を撃たんとしたが、火薬の装填が余り多かったので、車体が崩れて用をなさなくなつた。此の間に長州方の伏兵等は、石山家塀内の樹木に攀じ登り、会兵を狙撃することが急で、来島隊は勢ひに乗じてドッと蛤御門内に雪崩れ込んだ。

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京都御苑 蛤御門

 ただし「元治夢物語」で蛤御門から打って出て一番鑓をとった久保田半次は、明田鉄男氏の「幕末維新全殉難者名鑑」(新人物往来社 1986年刊)によれば、以下の通りである。

窪田伴治 忠順 八石二人扶持。家老付寄合。重太郎父。槍術の達人。元治元年七月十九日御所唐門で戦死。三十九歳。京都黒谷に墓。靖国。

 つまり蛤御門ではなく公家門前の戦いで戦死している。「七年史」でも同様である。

忽にして賊の一軍、日野大納言の邸より突出して、会将内藤近之助が隊の側面を襲ひ進んで唐門を犯さんとす、兵勢頗る猛烈にして、会兵沮む、近之助急に指揮し、槍を執て突貫せしめれば、窪田伴治声に応じ、自から姓名を呼んで、一番槍といひ、疾走賊を仆せは、飛丸又伴治を仆す。飯河小膳、町野源之助、相踵きて進み、皆傷を被る、会兵の守り殆んと失はんとす

 どうも混戦の中で色々と情報が錯綜しているようだ。桑名藩の加太邦憲は維新史料編纂会講演速記録(「続日本史籍協会叢書 維新史料編纂会講演速記録 一」(東京大学出版会 1911年発行 1977年覆刻))で以下のように述べている。

蛤門の戦と公卿門前の戦は誠に近い所で半丁と離れぬ所でございますから、是が誠に混雑しまして、どの書物を見ても判然と二つに書分けてございませぬ。けれども是は全く二つになつて居つて、同じ人が蛤門と公卿門前両方に與つたと云ふこともないのであります。

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京都御苑 蛤御門

 ちなみに桑名藩の加太も、同じ講演速記録内で「長州兵は外面から蛤門に向はずして、もう少し南の方の蛤門と下立売門との間の柵を破って御廓内に入りました、さうして左に折れて新在家と云ふ町を北に上りて、蛤門内の会津兵に迫ったのであります」と証言している。加太の経歴と如何にこの戦闘状況を知り得たかについては、京都御苑 下立売御門で記しているので、ご確認下さい。

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