京都御苑 賀陽宮邸跡
京都御苑 賀陽宮邸跡(きょうとぎょえん かやのみやていあと) 2010年1月17日訪問
出水の小川の苑路を挟んで東側に貽範碑と賀陽宮邸跡の駒札が残されている。西側の烏丸通からこの一帯にかけて、かつての朝彦親王の邸宅があった。そしてその庭に榧の巨木があったことから賀陽宮と称したとある。親王は青蓮院門跡、天台座主をつとめ孝明天皇の信任厚く天皇を助けてきたが、その公武合体政策は尊皇攘夷派から敵視され、明治維新後は広島に移されたと駒札は記している。最後に貽範碑建設に名を連ねた梨本宮守正王が朝彦親王の第4王子であることを付け加えている。
中川宮朝彦親王が元治元年(1864)京都御所南方の現在の地に屋敷が与えられた際に宮号を中川宮から賀陽宮に改めている。しかし駒札の記述通り、明治元年(1868)の広島流謫の際に宮号が停止されている。翌明治3年(1870)には冤罪が認められ伏見宮に復籍、同5年(1872)正月には宮号も許されている。そして明治8年(1875)に新たに久邇宮家を創設している。
もともと朝彦親王には第2王子の邦憲王と第3王子の邦彦王さらに第4王子の守正王がいたが、邦憲王が病弱であったことから明治20年(1887)に邦彦王が久邇宮家の継嗣となっている。その後、朝彦親王が明治25年(1892)に没し、邦憲王が結婚し一家を持つこととなった明治25年(1892)に新たな宮家設立を明治天皇に請願し勅許を得て賀陽宮の称号を賜わっている。ここに父である朝彦親王が使用していた宮号を再び用いることとなった。この時は久邇宮家の一員としての宮号であったが、正式に王家となったのは明治33年(1900)5月9日のことであった。そのため賀陽宮創設はこの日となる。邦憲王は父宮と同じく伊勢神宮祭主を務め、明治42年(1909)42歳で没している。賀陽宮は第1王子の恒憲王が継いだが、昭和22年(1947)10月14日に臣籍降下している。
この項から少し時間をかけて賀陽宮の祖となった朝彦親王について考えて行くこととする。
中川宮朝彦親王は文政7年(1824)伏見宮邦家親王の第4王子として生まれている。父の邦家親王は子宝に恵まれ、17王子15王女を得ている。親王宣下された王子だけでも、山階宮晃親王、聖護院宮嘉言親王、曼殊院宮譲仁親王、久邇宮朝彦親王、伏見宮貞教親王、小松宮彰仁親王、北白川宮能久親王、華頂宮博経親王、北白川宮智成親王、伏見宮貞愛親王、閑院宮載仁親王、東伏見宮依仁親王と12親王を数える。さらに慶応2年(1866)に臣籍降下した後、華族に列した清棲家教伯爵も邦家親王の王子である。邦家親王の王子の中には伏見宮を継いだ王子が2人いるが、正室である鷹司政熙の女景子の子である貞教親王が第21代として父宮を継いでいる。しかし文久2年(1862)享年27で薨去したため、やはり正室の子である第14王子の貞愛親王が第22代を継いだためである。貞愛親王は既に万延元年(1860)に妙法院を相続していたため、文久2年(1862)に還俗している。当時の倣いに従い、嫡子であった貞教親王と慶応3年(1867)に生まれた依仁親王を除けば、いずれも門跡を相続している。
朝彦親王の出生については、「続日本史籍協会叢書 竹亭回顧録維新前後」(東京大学出版会 1905年発行 1982年覆刻)に比較的詳しく記されている。この「竹亭回顧録維新前後」は、七卿落ちの一人である東久世通禧親王の回顧談を高瀬真卿(羽皐)が筆録したものである。通禧親王は天保4年(1833)生まれで朝彦親王より9歳年少の少壮公家であり、政治的にも朝彦親王とは立場を異とした人物である。この回顧談に従うならば、朝彦親王の母は伏見家に召仕われていた賤しき女であり、表向きの御届もなく諸太夫某に遣られその家で成長したとしている。しかし徳富蘇峰の「維新回天史の一面 ―久邇宮朝彦親王を中心としての考察―」(民友社 1929年刊)によると親王の母は鳥居小路経親の女・信子とし、室町通蛸薬師下ルの並河丹波介の家で誕生している。そのため兄弟姉妹が多いにもかかわらず、朝彦親王には同母兄弟あるいは姉妹はない。また並河丹波介とは伏見宮家に仕えた医家の並河尚美で儒医並河天民の息子である。文政12年(1829)正月23日に没している。
浅見雅男氏は著書「闘う皇族 ある宮家の三代」(角川書店 2005年刊)で、信子の父である鳥居小路経親が青蓮院の坊官であることに注目し、通禧親王の言うほど下賤の出自でなかったと記している。これは浅見が、「朝彦親王景仰録」(西濃印刷出版部 1942年発行 皇學館 2011年覆刻)に所収されている羽倉敬尚の「粟田の落穂」の記述を重視したことによっている。羽倉は並河家の出身で、宮の事跡については幼い時より言い伝えられてきたため、諸本では触れていないことまで上記の一文に記している。宮の生母の実家すなわち鳥居小路は大谷家と並び譜代の坊官専任家で正応2年(1289)の経祐以来連綿と坊官を世襲する名門家でもある。生母信子も文政10年(1827)伏見家より御暇を頂いた後に、大宮御所の新清和院に奉仕したとされている。また並河丹波介は伏見家の家臣ではなく、儒医として宮家に出入りしていた。同じ並河の姓であるため、朝彦親王の家臣であった並河共和や並河靖之と間違えられることが多いようだ。
朝彦親王は幼少時には富宮と通称され、熊千代君などと呼ばれていた。8歳の頃には日蓮宗本能寺の日慈上人の元に入寺している。この当時の逸話については川路聖謨の「寧府紀」(「日本史籍協会 川路聖謨文書 3」(東京大学出版会 1933年発行 1984年復刻))の弘化4年2月2日の条に、「ある人の密にかたりしは」ということで記している。
一乗院の宮は御幼年の節 日蓮宗の本山に御住職のつもりにて御客分同然の小僧にていらせられしに けしからぬ御いたつらにて講中の町人共に糞汁をかけなとなされ 大にあはれ給ひけれ共王孫の御事故すへき様もあらす けふは返し奉るへし あすは返し奉るへしと困り居ける
蘇峰の「維新回天史の一面」は久迩宮家の求めに応じて書いたものであるため、親王の幼年の逸話も英明さを示すものをとり上げているが、上記の川路の「寧府紀事」や「竹亭回顧録維新前後」にはもう少し人間味の感じられる親王の幼少期が描かれている。その中でも東久世通禧の下記の指摘は正鵠を得ているだろう。
七八歳の頃より本能寺の小僧となって台所で使はれ 味噌こし提て豆腐買などにゆき、或は寺の僧侶の供をして祇園の妓楼へ度々御出になったと云 ある時坊主の文を持て女の許へゆきたるに仲居に怒られて頭を打擲された事もあると御自分で御話なされたと云ふ、十四五歳まで民間に在て斯く艱難をなされた故よく民情に通じ世上の事を能く御存じなされ 其上漢学をなされたから益々英俊の器となられたのである
朝彦親王は天保7年(1836)8月に仁孝天皇の猶子となり、翌年(1837)12月に親王宣下、同9年(1838年)閏4月に得度し奈良興福寺塔頭の一乗院の門主となり、尊応入道親王と称した。嘉永元年(1848)3月ニ品の叙し、孝明天皇の勅旨により青蓮院門跡門主となったのは、嘉永5年(1852)3月23日のことであった。歴代門主と同様に青蓮院宮または粟田宮、また法諱を尊融に改めている。
これ以降の朝彦親王の事跡については、泉涌寺の大門近くにある賀陽宮墓地と久邇宮墓地を訪れた際に記した朝彦親王墓、朝彦親王墓 その2、朝彦親王墓 その3をご参照下さい。ここでは安政の大獄までの親王の周辺とそれ以降の宮号の変遷を中心に追ってゆくこととする。嘉永6年(1853)12月14日の天台座主となって以降、親王は参内し宮中での御祈祷を行うようになるが、これに留まらず近衛忠煕や三条実萬とともに宮中での内議に参画するようになって行く。また嘉永7年(1854)4月6日の皇居内で出火し炎上した際には、青蓮院から徒歩で駆けつけ下賀茂神社へ遷幸されていた天皇を見舞い、自らの青蓮院を宮御方の住所に用いるように申し出ている。この日の親王の行動については、京都御所 その5で記したのでご参照下さい。なお青蓮院は天明大火の際、後桜町上皇の仮御所となっているため、青蓮院旧仮御所の碑が門前に建てられている。親王はこの故事に従い進言され、青蓮院は敏宮、和宮、新待賢門院雅子御方々の仮御所となっている。この皇居炎上を通じて天皇の親王に対する信任はさらに厚いものとなっていく。嘉永7年(1854)は11月27日を以って安政に改元される。ペリーの再来と日米和親条約の締結、内裏炎上そして安政伊賀地震、安政東海地震、安政南海地震、豊予海峡地震の立て続けの地震とこの年だけでも多くの災厄に見舞われている。安政は「群書治要」の「庶民安政、然後君子安位矣」から用いられている。
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