南禅寺 南禅院
南禅寺 南禅院(なんぜんじ なんぜんいん) 2008/05/12訪問
琵琶湖疏水の水路閣をくぐると石段があり、その上に南禅寺 南禅院がある。
既に南禅寺の項で書いたように、後嵯峨上皇が文永元年(1264)に造営した離宮の禅林寺殿が現在の南禅院の地である。離宮には上下2つの御所があり、上の御所に建設された持仏堂を南禅院と称していた。 正応2年(1289)後嵯峨上皇の子 亀山上皇は禅林寺殿で落飾され法皇となり、正応4年(1291)に東福寺住持の無関普門禅師(大明国師)を開山に迎え、離宮を禅寺に改めた。南禅寺の伽藍は翌5年に上皇によって選任された第二世規庵祖圓禅師(南院国師)によって造営されることから、当初は禅林寺殿の殿舎が中心であったと考えられる。
石段の上りきったところに小ぶりな門があるが、こちらは開門しておらず、拝観は左へと書かれている。庫裏の入口から境内に入り、方丈の北側を廻り方丈の西面に出ると方丈前の庭園が左手へつながっている。庭の手入れを行っているようで、庭園内に数人の人が入っていた。そのため方丈正面の庭の様子を撮影した写真が残っていない。右手には先ほどの門が、苔に覆われた緩やかな起伏の向こう側に見える。外側からは小ぶりな門に見えたが、庭の大きさに丁度合っており、周りの新緑の中でとても美しく見える。
南禅院庭園は夢窓疎石の作と伝わる。庭は方丈正面から南側へ続くL字型をし、2つの池がある。南側奥には滝口の石組みが組まれ、これに続く池が龍の形をした曹源池と呼ばれる上池である。上池には鶴島、亀島の2つの島がある。もうひとつの下池には心字島が設けられていると南禅院のしおりに書かれている。この部分は庭師が入っていたので良く見えませんでした。
夢窓疎石は建治元年(1275)伊勢国の生まれで、幼少時に出家し、甲斐国天台宗寺院平塩寺に入門。真言宗や天台宗を学んだ後、鎌倉へ赴き円覚寺、建長寺、万寿寺で修行する。嘉元3年(1305)浄智寺で印可を受ける。
正和2年(1313)美濃国を訪れ草庵を結ぶ。これが虎渓山永保寺の開山につながる。元徳2年(1330)に甲斐守護の二階堂貞藤に招かれ恵林寺を創建する。正中2年(1325)後醍醐天皇の要請により上洛し、南禅寺の住持となる。この後鎌倉に赴くが、元弘3年(1333)鎌倉幕府の滅亡、後醍醐天皇の建武の新政を迎え、再び招かれ南禅寺に再住する。臨川寺・西芳寺の開山にも迎えられ、国師号を授けられた。そして後醍醐天皇菩提を弔う寺院として天龍寺の建立を足利尊氏に進言し、康永4年(1345)後醍醐天皇七回忌に落慶供養を行った。観応2年(1351)に死去。夢窓国師を始め、7度に渡り国師号を歴代天皇より賜与される。
夢窓国師は作庭家としても有名であり、京都の西芳寺・天龍寺、鎌倉の瑞泉寺、山梨の恵林寺、岐阜の永保寺などは国師の作庭と伝わる。
南禅院の庭は元弘3年(1333)に再び南禅寺の住持となった頃と考えられている。すなわち後嵯峨上皇が禅林寺殿を造営してからおよそ70年後に離宮の庭園の上に新たな庭を池泉回遊式として造ったこととなる。今ではどの部分に元の離宮の面影があるのか分からない。
また池は2つに分かれていると南禅院のしおりにはあるが、中央の橋によって2つの池が別れているようにも見えるし、1つにつながっているようにも見えた。このあたりは記憶が不鮮明である。
都林泉名勝図会の南禅院の項を見てもつながっているようにも見える。
この図会からは2つの疑問が生じる。1つは鶴島・亀島に橋が架けられていること。2つめは滝口が描かれていないこと。中田さんのHPでは、方丈から滝の流れが見える写真が掲載されているが、私が撮影したときは木々の勢いも強く滝の流れが新緑の中に埋もれてしまったようだ。どうも滝の流れも弱かったようにも感じられる。またこの水は疎水を利用しているということだが、疎水が完成する以前はどのように水源を確保していたのだろうか?
当初南禅院の建物は離宮の遺構であったはずだが、明徳4年(1393)の火災で焼失した。その後北山御所の寝殿を賜り再興したが、これも応仁の乱で失われた。現在の建物は、多くの南禅寺の建物と同じく江戸時代に入り、元禄16年(1703)5代将軍徳川綱吉の母 桂昌院の寄進による総桧の入母屋造こけら葺屋根である。
また庭園東南隅には亀山法皇のご遺言によって造られ、御分骨を埋葬した御陵がある。
亀山陵は天龍寺の境内に、嵯峨南陵と並んで設営されている。嵯峨南陵は父である後嵯峨天皇の御陵である。
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