大豊神社
大豊神社(おおとよじんじゃ) 2008年05月17日訪問
熊野若王子神社から哲学の道を北に向って歩き始める。疎水分線の東側に白い塀で囲まれた宗諄女王墓が現れる。
宗諄女王は文化13年(1817)伏見宮貞敬親王の第10王女として生まれている。文政2年(1819)光格天皇の養女となり、霊鑑寺を相続して文政6年(1823)入寺する。得度して法名を宗諄、道号を法山とする。慶応4年(1868)紫衣を勅許されるまでになるものの、明治6年(1873)には伏見宮へ復帰する。そして明治13年(1880)再び尼になり、明治15年(1882)権大教正に補される。明治24年(1891)76歳で死没。
宗諄女王墓は南禅寺塔頭・光雲寺内の伏見宮墓地となる。
hir**i1600さんの 京都を感じる日々★古今往来Part1・・・京都非観光名所案内(http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1600/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%BD%A1%EB%D9%BD%F7%B2%A6&sk=0 : リンク先が無くなりました ) には、宗諄女王墓の他にも光雲寺にある後水尾天皇第4皇女・昭子内親王墓と久邇宮墓地について詳細に説明されている。
さらに哲学の道を北に進むと大豊橋と2つの大きな石灯籠が見える。さらに西側を見ると石の鳥居が見える。ここから橋を渡ると大豊神社の石の鳥居とその奥に赤い鳥居が現れる。
祭神は少彦名命、応神天皇、菅原道真。
社伝によると、仁和3年(887)宇多天皇の病気平癒のため、尚侍藤原淑子が勅命を奉じた勅願所であったとされている。宇多天皇については仁和寺の項で触れているように、仁和3年(887)に即位し、西山御願寺すなわち仁和寺を仁和4年(888)に落成させている。そして寛平9年(897)醍醐天皇に譲位し、出家する。在位はわずか10年に満たないが、寛平3年(891)の関白藤原基経の死後摂関を置かず、藤原時平と菅原道真を重用し寛平の治を行っている。寛平の治は、私営田の抑制や国司請負による権限強化を行い、律令制への回帰を強く志向した王朝国家体制への再確立を目指したと考えられている。 藤原基経は清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握り、陽成天皇を暴虐であるとして廃し、光孝天皇を立て、宇多天皇のとき阿衡事件を起こしている。その権勢を世に知らしめ、天皇から大政を委ねられ、日本史上初の関白に就任している。北野天満宮の項でも書いたように、宇多天皇は阿衡事件に懲り、若い藤原氏長者・時平に政治的権限を集中させないように菅原道真を使っている。この均衡を破壊したのは、藤原氏との結びつきを強くすることで、宇多法皇の院政を排除しようと考えた醍醐天皇であった。昌泰4年(901)左大臣藤原時平の讒言により右大臣菅原道真を大宰権帥として大宰府へ左遷している。
さて、尚侍藤原淑子が仁和3年(887)宇多天皇の病気平癒を願ったとあったが、まさに仁和3年(887)は宇多天皇が即位した年でもある。
藤原淑子は貞観2年(838)藤原長良の娘として生まれている。異母兄弟には陽成天皇を廃位にした藤原基経や陽成天皇の母であり、岡崎神社の項でも記した東光寺を創立した藤原高子らがいる。父長良の没後宮廷に出仕し、藤原氏宗の後妻となっている。そして一度臣籍降下し源氏の姓を賜り源定省と称していた光孝天皇の皇子を猶子としている。仁和3年(887)8月25日に皇族に復帰し、翌26日に皇太子に立てられる。そして同日に光孝天皇が病没したため践祚し、11月17日に即位している。この皇族復帰から皇太子までの動きがいかに急であったかが分かる。その裏には藤原基経と共に藤原淑子の力が大きかったとされている。それだけに宇多天皇の病気平癒を強く願ったと思われる。その後の淑子は元慶8年(884)に尚侍、仁和3年(887)女官では異例の従一位に至る。基経と宮廷の連絡役を務めるだけでなく、宇多天皇のために阿衡事件の収拾にも尽力したと言われている。延喜6年(906)に69歳で薨去、正一位を贈られている。宇多天皇即位から阿衡事件までの功績が認められたのであろう。
創立時の勅願所はさらに東の椿ヶ峰山中にあったとされているが、寛仁年間(1017~1021)に現在地へ移り、大豊神社とされる。南北朝の内乱(建武3年(1336)~明徳3年(1392))や応仁の乱(応仁元年(1467)~文明9年(1477))の兵火に遭って焼失するが、本殿・末社・拝殿・絵馬堂が再建され、鹿ケ谷、法然院、南禅寺一帯の土産神として信仰を集めている。
末社の大国社の狛ねずみ、日吉社の狛猿、愛宕社の狛鳶は、それぞれの神のお使いとして置かれている。
大国主命とねずみとの関係は神話にも描かれている。須佐之男尊は広い野原に鏑矢を打ち込み大国主命に取ってくるように命じる。大国主命が鏑矢を探しに行くと四方から火がつけられ、火に囲まれてしまう。そこにねずみが現れ、「内は洞洞、外はスブスブ」と告げる。大国主命は地面を踏み込むと大きな穴が空き、その穴に入って火から逃れることができた。さらにねずみは鏑矢を見つけて来てくれた。
延暦13年(794)桓武天皇が都の表鬼門に厄魔退散開運招福の守護神として日吉神社を祀り、その末社がこの日吉社である。日吉社と猿の関係は新日吉神宮の項で書いたように、日吉大社の神使が猿ではあるが、山王信仰と猿との関係は明らかでなく、原始信仰の名残りと推測されている。神使いの猿は「魔が去る(サル)」、「何よりも勝る(サル)」の「神猿信仰」として古来多くの人々の崇敬を集めていたようだ。大豊神社・日吉社の狛猿は三番叟を踊っている。
愛宕神社の神使は、神社の創建者である和気清麻呂が助けられた猪であるが、大豊神社では鳶の像が置かれている。先代の宮司が愛宕山の天狗がかぶる鳶帽子から、鳶を神使として像を建てたとされている。鳶帽子とは何なのか?このあたりは不明である。
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