法然院
浄土宗捨世派善気山 法然院萬無教寺(ほうねんいん) 2008年05月17日訪問
霊鑑寺から再び安楽寺の前を通り北に進むと、圓光大師御舊跡と記された碑が左側に建つ石段とその先に鬱蒼とした木々が現れる。石段の上には2本の門柱とそれから連なる柵が両側に見える。門柱には横木が渡されていないし扉もないので、門とは言えないのかもしれないが、ここから先が境内であることを示している。 圓光大師は元禄10年(1697)東山天皇より賜った大師号であり、500年遠忌の行なわれた正徳元年(1711)以降、50年ごとに時の天皇より諡号を賜られる習わしとなっている。ちなみに一番近いところでは昭和36年(1961)和順大師を賜っている。碑文の圓光大師御舊跡は法然上人の旧跡という意味である。
石段上りきると右手の道は法然院墓地へ続く。今回は訪れていないが、谷崎潤一郎、福田平八郎、河上肇、九鬼周造など学者や文人が眠る。左手の道の先には薄暗い木々の中に茅葺の屋根を持つ山門が現れる。
法然院は浄土宗捨世派の単立寺院で、正式には善気山 法然院萬無教寺と号す。
安楽寺の項で説明したように、法然はこの地で六時礼讃を唱え、念仏三昧の別行を修めている。
元久元年(1204)比叡山の衆徒は、専修念仏の停止を訴える延暦寺奏状を天台座主真性に提出している。その翌年には興福寺の僧徒も興福寺奏状がまとめ、朝廷に専修念仏停止の訴えを出している。そして建永元年(1206)後鳥羽上皇が熊野行幸中に、上皇が寵愛する松虫と鈴虫という女官が、御所から抜け出して鹿ケ谷草庵で行われていた念仏法会に参加、剃髪を行い出家してしまう。
建永2年(1207)事の全てを知った後鳥羽上皇は憤怒し、専修念仏の停止を決定するとともに、住蓮房を六条河原において、安楽房を近江国馬渕において斬首に処した。その上で法然は土佐国番田へ、親鸞は越後国国府への配流が決まる。既に74歳と高齢だった法然は、九条兼実の庇護により土佐まで赴くことはなく、九条家領地の讃岐国に配流地が変更された上、10ヶ月ほどで赦免の宣旨が下る。摂津の勝尾寺で滞在した後、建暦元年(1211)11月、入洛の許可が下り帰京する。しかしその2ヵ月後の建暦2年(1212)1月25日、東山吉水で死去する。この一連の専修念仏停止に伴う弾圧は承元の法難と呼ばれている。
法然院も安楽寺と同様に、承元の法難以後、荒廃してしまう。江戸時代に入り、第38代知恩院門主・萬無心阿上人は法然上人ゆかりの鹿ケ谷草庵跡に念仏道場を建立することを思い立つ。そして延宝8年(1680)弟子の忍澂によって再興される。そして善気山法然院萬無教寺と称する。善気山とはこの地が善気山の麓にあること。法然院は開山した上人の名、萬無は忍澂の師の名を称している。この頃は徳川幕府の支援によって知恩院も伽藍を拡張が完了していた時期にあたり、法然院の再興あるいは、翌9年(1681)に安楽寺の本堂の再建が行えるような環境にあったと考えてよいだろう。 安永9年(1780)に刊行された都名所図会にも鹿ヶ谷法然院として図会が掲載されている。この図会の右下に茅葺の山門が見える。
山門を入ると眼下に白砂壇と呼ばれる白い盛り砂が参道の両側に現れる。この砂壇の上には水を表わす砂紋が描かれている。この砂壇の間を通ることで心身を清めて浄域に入ることを意識させる。
白砂壇を過ぎると右手に元禄7年(1694)に建立された大浴室を改装した講堂、左手に石塔が置かれている。そのまま石畳を真直ぐ進み、放生池に架かる石橋を渡ると正面に法然院の玄関が現れる。ここを右に折れると正面に十万霊塔が見え、本堂の正面に回り込める。
法然院も安楽寺と同様、原則的には非公開寺院である。春季と秋季に1週間の伽藍内特別公開が行われる。ただし境内は公開されているので、このような清く美しく保たれている境内を1年中通して訪れることができるのは大変有難い。
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