慈照寺 その3
臨済宗相国寺派東山 慈照寺 その3(じしょうじ) 2008年05月17日訪問
慈照寺 その1で造営者である第8代将軍足利義政についてと、慈照寺が建てられた土地の意味、そして義政が東山殿で実現しようと考えていたことについて書いてきた。そして慈照寺 その2では、慈照寺造営にあたり行ってきた掠奪の一端を見ることで、義政の東山殿にかける執念を知ることができた。そして掠奪で完成した理想の庭園が、義政の死後掠奪の対象となり、衰退していく様を見てきた。この項では、その後の慈照寺がどのように再興され、現在私達の見るものとなったかについて触れていく。
天正13年(1585)から慶長17年(1612)までの27年間、すなわち豊臣秀吉が関白となった年から大阪の役が始まる直前まで期間、慈照寺は前太政大臣近衛前久の別荘として使われていた。これは慈照寺の歴代住持に近衛家出身者が多かったことによると考えられている。貞享3年(1686)刊行の「雍州府志」によると、この時期の慈照寺は、「時に此の寺、住職無し」の状態だったという。恐らくこの時期にある程度の改装を行っていたと思われる。前久が慶長17年(1612)77歳で没すると再び相国寺の末寺となる。
元和元年(1615)より宮城豊盛が銀閣寺再建を手がけている。そして元和5年(1619)には知恩院の普請奉行を務め翌元和6年(1620)京都にて67歳で没している。このことから豊盛が銀閣寺の再建を行っていた期間は恐らく5年に満たないと思われる。この間に、豊盛は方丈を建築し、庭園の整備や持仏堂・観音殿の修理も行っている。
宮城豊盛は豊臣秀吉に従い三木合戦で功を挙げ、小田原の役や朝鮮出兵に参陣している。秀吉が没した後、徳川家康より命を受け慶長3年(1598)朝鮮に渡海し、慶長の役の将兵の撤兵を指導する。その功により従五位下丹波守に任官する。しかし慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、西軍に加わり大坂城平野橋の警護した為家康に所領を没収される。大坂の役には東軍で出陣する。その後、駿府の徳川家康に仕え、徳川秀忠の御伽衆となっている。豊盛は慈照寺や知恩院の修復に携わる以前に金戒光明寺の本堂再建にも関わっていることから、武将と言うよりは普請を得意とした文官のイメージが強い。
そして寛永16年(1639)宮城豊盛の孫にあたる豊嗣は、祖父が再建した銀閣寺の修理を手がけ、方丈、玄関、庫裡、門を整備し、銀閣、東求堂の修復、そして参道もこの際に造営されたと言われている。この宮城豊盛、豊嗣によって慈照寺は現在のような姿に改められたともいえる。
寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会には銀閣寺として図会が掲載されている。観音殿、方丈、東求堂の位置関係や、円錐台状の向月台や45度の角度で波状に整形した砂の台地・銀沙灘も既に同じか形をしている。この図会に付けられた説明文には
相阿弥作
銀閣の林泉ハ向に底造伝或ハ都名所に出たれども、年歴累りて樹木古朽し、又新に植るも多し。故に寺僧の好に任せて今時の体を図す。
とある。元の庭は相阿弥が作庭したが、その後寺僧の好みで現在のような姿となったというような意味であろう。ここで注目すべきことは、「銀閣」という言葉が使用されていることである。北山の金閣は義政の時代から金閣と呼ばれていたが、銀閣はそのように呼ばれることはなかった。宮城豊嗣が改修を行った後の万治元年(1658)に刊行された「洛陽名所週」で初めて銀閣と言う言葉が使われている。
さて総門から東に向かって境内に入ると、参道はすぐに南に折れる。ここから中門までの約50メートル位の空間は非常に絵画的に仕上げられている。低い石垣、その上に建仁寺垣を変形した背の低い銀閣寺垣、そしてその上に壁面上に刈り込まれた常緑樹の高い生垣という構成になっている。注意深くこの参道を見ると、銀閣寺垣を使用しているのは参道の進行方向左側だけで、右側は、石垣、生垣、生垣の組み合わせとなっている。およそ5メートル程度の高さに刈り込まれた樹木は、上部では左右対称であるが、垣根の部分から異なった作りになる。
中門を潜ると塀と建物で区切られた方形の松の植えられた空間があり、その先に小ぶりな唐門が見える。現在はこの門は通らせず、右側から慈照寺庭園に入ることとなっている。この順路だと最初に銀閣に視線が向かい、その後に向月台や銀沙灘、方丈そして東求堂を見ることとなる。この庭を作成した者の意図とは異なり、鑑賞の順番としてはおかしなこととなる。本来の唐門潜ると、左側の方丈、東求堂そして、銀沙灘、向月台そして銀閣の順に見渡すこととなる。
銀閣の平面は長方形で正面8.2メートル、奥行7.0メートルの重層、杮葺の建物。初層の「心空殿」は住宅風、上層の「潮音閣」は方3間の禅宗様の仏堂で、西芳寺の瑠璃殿を模して造られている。書院造につながる和風の住宅風意匠が取り込まれている。
銀閣の東面の正面には月待山が配されている。銀閣に坐り満月の昇るのを待つとこの山の奥から現れる。義政の時代から銀閣の位置は変わっていないことから、銀閣は月を望むために造られた建物でもあるだろう。宮城一族の改修した時期に洗月泉という錦鏡池南東端に落ちる滝が造られている。これは銀閣と月待山を結ぶこの東西の軸線上にある。向月台、そして潮音閣と呼応するように潮騒を思い起こさせる銀沙灘を庭園に新たに付け加えている。そしてこの2つの造形には斜長石や石英を含む白川砂を使用し、光をより強く反射できるようにしている。これらのことから宮城一族の改修は、月をかなり意識したものとなっている。
これは慈照寺 その1から、その2で見てきた義政の描いた浄土と穢土の対立する要素を統合する庭園というコンセプトから、かなり離れたものになってきている。精神的な表現から美意識の表現に変更されたとも言えるだろう。 このように江戸時代の改修以降、銀閣と東求堂の前に広がる錦鏡池を中心とした下段の庭園のみが鑑賞の対象とされていたが、昭和に入り上段の枯山水の一部が発掘され、義政の創り上げた上段、下段の二層構成の庭園が昭和6年(1931)に確認された。漱蘚亭跡付近には岩肌を表現したような石組みが見られる。
最後に銀閣と並んで国宝に指定されている東求堂を見てみる。
義政の持仏堂として建てられたこの建築は文明18年(1486)に完成している。東西、南北3間半にの実に小規模な建物である。正面左は方2間の8畳の広さの板敷きの仏間で、須弥壇が設けられ観音菩薩像が祀られていた記録が残っている。左奥に6畳、右前に4畳の畳敷きの部屋が設けられている。そして右奥は同仁斎と呼ばれる4畳半畳敷きの部屋で義政の書斎として使われていた。書斎の北側に設けられた付書院と違棚は現存最古の座敷飾りの遺構であり、書院造の源流として重要な遺構である。もともと付書院は僧侶などの勉強机として使われ、違棚には文具が置かれている。東求堂には仏間があるが宗教建築の雰囲気は薄く、小振りではあるが上質な生活するための空間、すなわち住居というイメージが強い。
西和夫氏の「京都で「建築」に出会う」(彰国社 2005年)では、同仁斎を最古の茶室とする説が江戸時代からあったことを紹介している。根拠不明ではあるものの「山州名跡志」に「茶亭四畳半の濫觴なり」とある。この言葉は元治元年 (1864)に刊行された花洛名勝図会にも引用されている。義政の死後、この部屋には炉、釣釜、水指、手桶などの茶道具が飾られていたと「蔭涼軒日録」に残されている。ちなみに付書院には硯、筆、書物、違棚には建盞台、茶筅、茶杓なども置かれている。これらは当時流行の飾り付けと西氏は見ている。 また昭和40年(1965)に行われた解体修理の際、天井長押から「御いるりの間」という墨書が発見されている。茶に使う炉か暖房用のものだったかは判別できないとしている。その上で茶室専用に作られた部屋ではなく、義政の書斎で茶を喫していたと考える方が自然である。
書院茶の時期には専用の茶室というものはなかった。もともと書院の部屋は連歌や能などの文芸・芸能共通の場であり、そこで茶会もまた催されたと考えられている。これえを専用の茶室とは言えないし、茶室のように炉も切られていなかった。初期の茶の湯である書院茶では、点茶する場所と喫茶する場所とが分離している。足利義政の東山山荘には茶湯の間と呼ばれる点茶所があったが、そこで同朋衆の手によって点てられた茶が、他の部屋へ運ばれていた。
「京都名庭を歩く」の71頁に東山殿復元図と現在の慈照寺との比較が行われているが、創建当時の東求堂は現在位置より南側の銀閣に近い位置に建てられていたと推定されている。
義政の時代から現在に伝わる銀閣(観音殿)と東求堂の2つの建物が国宝に指定されている。
庭園の方も昭和27年(1952)特別史跡及び特別名勝に指定されている。そして平成6年(1994)には「古都京都の文化財」として 世界遺産に登録されている。
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