東山本町陵墓参考地 その2
東山本町陵墓参考地(ひがしやまほんまちりょうぼさんこうち)その2 2009年1月11日訪問
六波羅門から東福寺の境外に出る。塔頭寺院の東光寺、桂昌院、荘厳院そして願成寺の前を通り、南門を潜り伏見街道に出る。伏見街道、すなわち本町通を北上し、京阪電鉄京阪本線の東福寺駅に向かう。東福寺の中門を過ぎた先、東側の町家の並びが一瞬途絶える箇所がある。地図上では、リカー&フーズおおにしの手前、丁度霊雲院の九山八海の庭の西側に位置する。ここは仲恭天皇の陵墓参考地とされている。既に仲恭天皇については仲恭天皇九條陵 その2で、陵墓参考地についても東山本町陵墓参考地で既に書いているので、ここで多くを書き加えることはない。何回か東山本町陵墓参考地の前を通り過ぎた時は、いつも天気が良くなく、暗い写真しか残っていなかったので、今回は写真を撮ることを目的とする。
東福寺 その2と東福寺 その3で記したように、福山敏男氏は「法性寺の位置について」(佛教芸藝術100巻 毎日新聞社 1975年2月)において、この東山本町陵墓参考地の場所は、かつて法性寺の中心部分があったと考えている。
先にも触れたように東山本町陵墓参考地の主は、承久の乱で廃帝となった仲恭天皇である。仲恭天皇は建保6年(1218)順徳天皇の第一皇子・懐成親王として生まれている。母は九条良経の娘・九条立子であった。良経は長兄の九条良通が早世したため藤氏長者を嗣いだが、元久3年(1206)に若くして急死している。そのため九条家は良経の嫡男・九条道家が継いでいる。すなわち九条道家にとって立子は同母妹の関係にあり、親王にとって叔父となる。そのため親王が誕生すると道家は東宮補佐役に任じられ親王の養育に携わり、承久3年(1221)4月20日の即位の後は摂政となっている。
この承久3年(1221)の順徳天皇による懐成親王への譲位は、鳥羽上皇の挙兵・承久の乱に協力するためのものだった。承久3年(1221)5月14日 挙兵は成功し京を制圧した。しかし鎌倉幕府の反攻は早く、5月22日には軍勢を東海道、東山道、北陸道の三方から京へ向けた。6月5日と6日に東山道と東海道で京方を撃破した幕府軍は6月13日翌14日に宇治川の合戦でも勝利し、そのまま京になだれ込み勝敗が決したのは開戦からわずか1ヵ月後のことだった。7月に入ると首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流された戦後処理が行われた。この処理の中、2歳で即位した仲恭天皇はわずか81日間(1221年5月13日~1221年7月29日)と歴代天皇の在位期間の中でも最短で廃位されただけでなく、その即位すら認められずに摂政九條道家に渡御、天福2年(1234)、17歳で崩御された。そのため諡号・追号がつけられず、九条廃帝、半帝、後廃帝と呼ばれていた。
仲恭天皇が崩御した天福2年(1234)は、九条道家が奈良の東大寺と興福寺から一字づつ採り、それを寺号とする京都最大の伽藍の造営を思い立つ嘉禎2年(1236)の直前の時期にあたる。つまり、未だ東福寺は存在せず、法性寺と最勝金剛院が存在していた頃である。また忠通の娘であり崇徳天皇の中宮となった皇嘉門院の葬送が行われた養和元年(1181)頃より後は、最勝金剛院自体が法性寺を代表するような位置付けになっていたように思われる。前述の福山敏男氏の推定する法性寺の中枢部は、市立月輪小学校の周辺であったとされている。この陵墓参考地はまさに、法性寺の中枢部に設営されたこととなる。
明治3年(1870)に天皇として認められ、仲恭天皇と追号されたが、このような経緯のため葬られた場所も不明であり、九条殿で崩じたという史実をふまえ、明治22年(1889)に九条通に改めて円墳が作られたものが現在の九条陵である。ともかく仲恭天皇の葬られた場所を記した確たる記録はないため、東福寺周辺の九条家の寺院等に埋葬されたという推測も否定できない。
正安元年(1299)の法性寺御領山指図は、九条天皇が崩御した頃よりやや下った時代のこの周辺の姿を現したものである。この図は白石虎月編纂「東福寺誌」〈大本山東福寺 1930年〉に掲載され、かげまるくん行状集記の管理人さんによる普門寺について記載されたページにも転載されています。さらに安藤信策氏の「稲荷山経塚覚え書」(京都府埋蔵文化財論集 第6集 公益財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター2010年刊)の7頁目には、詳細な注釈の入った法性寺御領山指図が掲載されている。この図には貞信公御墓と法性寺公御墓が記されている。貞信公とは藤原忠平のことであり、法性寺公は藤原忠通である。この二人の墓は泉涌寺と即宗院の間にある丘の上、現在の市立日吉ヶ丘高校の地にあったと考えられている。また月輪陵、後月輪陵、後月輪東山陵そして觀音寺陵が東山の麓に造営されたことを見ていくと、九条天皇の御陵が法性寺字の中心部で鴨川に面した平地に造営されたとは考えることは難しいような気がする。
東福寺駅前の仲恭天皇九条陵・崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵参道の道標
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