東福寺 その5
臨済宗東福寺派大本山 慧日山 東福寺(とうふくじ)その5 2009年1月11日訪問
東福寺の三門の東側に鳥居が見える。鳥居の北側に見える最勝金剛院の参道が緩やかに上っていくのに対して、この部分はいきなり高台となっているので、鳥居の先から石段が始まる。登り切った先に五社成就宮が現れる。石清水、賀茂、稲荷、春日、日吉の五社神を祀るので五社明神社ともいわれる東福寺の鎮守社である。
東福寺 その4で触れたように、寛元元年(1243)3月15日に九条道家は法性寺鎮守惣社を東福寺の鎮守として遷宮を行い、成就宮と号している。そして8月22日に盛大な祭礼を行っている。この遷宮では社地の移動が行われたと考えられる。福山敏男氏の「法性寺の位置について」(佛教芸藝術100巻 毎日新聞社 1975年2月)によると、この遷宮によって現在の地に移った訳ではなさそうだ。東福寺の公式HPには室町時代と書かれているように、後の時代に手が加えられたようだ。福西氏は五社成就宮の現在の社殿は中世様式を保っているが、新たな材が加えられていることを指摘し、道家の時代の社殿は、現在のものより大きかったとしている。
嘉禎2年(1236)に東福寺創設を思い立った九条道家は、暦仁元年(1238)法性寺別業で出家している。この頃から延応元年(1239)、正嘉2年(1258)、そして正元2年(1260)と法性寺の保有地を東福寺に委譲している。このように法性寺から東福寺への改装は、およそ25年余の時間をかけて行っている。
仏殿が竣工した建長7年(1255)を東福寺造営の完成時期とするならば、五社成就宮が遷宮した寛元元年(1243)をどのような時期と捉えるか?嘉禎2年(1236)から7年後となるこの頃が、九条道家にとって法性寺を廃して東福寺に乗り換えた時期と考える。つまり寛元元年を以って、鎮守社を失ってしまった法性寺の命運は決定したともいえる。建長7年(1255)までの10年余の年月は東福寺造営と寺領等の移行作業に費やした時間ともいえる。そして九条道家が建長2年(1250)11月に定めた家領初度処分状によって全ての方針が定まっている。
五社成就宮の傍らには十三重石塔が建つ。花崗岩製で高さ4.5メートル、康永2年(1343)造立されている。初重軸部の金剛界四仏の梵字も美しく彫られている。
東福寺の境内を歩いて気がついたことは、鳥羽伏見の戦に関する碑が多く残されていることである。北側から見ていくと、退耕庵の門前には戊辰役殉難士菩提所の碑が建つ。応仁の乱で荒廃した退耕庵を慶長年間(1596~1615)に再興した安国寺恵瓊と毛利家との関係が幕末まで続いたのだろうか?あるいは伏見街道に最も近い塔頭という地理的な要因で長州藩の本営が置かれたのだろうか。
即宗院に向かう本坊の南側に旧鹿児島藩士招魂碑が建つ。これは即宗院の山上に鹿児島藩招魂碑があることを示している。またこの碑の傍らに、中井櫻州山人墓所 即宗院の道標が建つ。即宗院は元中4年(1387)薩摩の武将・島津氏久の菩提のため、剛中玄柔を開基として創設された寺院である。幕末まで薩摩藩との関係が続き、嘉永6年10月4日(1853)篤姫が東福寺を参拝した際、即宗院を訪れたのではないかと推定されている。これは江戸幕府第13代将軍徳川家定の御台所となるための輿入れの旅の途中である。また安政の大獄が始まる直前の安政5年(1858)頃に清水寺成就院の住持・月照と西郷隆盛が密議を行ったとされている採薪亭も山内にある。また山内の墓所には、朔平門外の変で姉小路公知を暗殺実行犯と目されている田中新兵衛、生麦事件でリチャードソンを斬殺した奈良原喜左衛門そして、中井櫻州こと中井弘の墓がある。 先の旧鹿児島藩士招魂碑は、山内東北隅の高台に並ぶ。西郷隆盛が筆を執った薩摩藩士東征戦亡之碑が南面するように建てられている。そしてその傍らには慶応4年(1868)1月3日、小枝橋での新政府軍と旧幕府軍との衝突から始まった鳥羽伏見の戦いから関東・北越・東北におよぶ戊辰戦争で戦死した薩摩藩士等の524名の名前が5基の碑に刻まれ、鹿児島に向かい合うように西向きに建てられている。
三門の東側には防長忠魂碑が建つ。鳥羽伏見の戦の50回忌にあたる大正6年(1917)11月に建てられている。山県有朋篆額、三浦梧楼譔、野村素介書により、
慶応三年十月十四日徳川慶喜在二条城奉還政権
から始まる表文は、大政奉還から王政復古そして正月二日の入京の様子を、会桑以萬余人先駆会兵自伏見桑兵自鳥羽と記している。これに対して毛利内匠が率いる長州軍は、整武膺徴第二奇兵遊撃振武諸隊及徳山右田等兵二千余人先発入京とある。これら2000名の長州軍全てを鳥羽伏見の戦に投入したとは考え難い。そして正月3日の開戦から4日、そして錦旗が翻った5日の戦い、そして慶喜が海路江戸に戻り恭順、そして翌年5月の五稜郭陥落による平定につながって行く歴史を説明している。
未見であるが、この碑の裏面には鳥羽伏見で戦死した48名の名前が刻んであるらしい。現在、鳥羽伏見戦防長殉難者之墓に祀られているのは49柱であるから人数が合わない。次回の訪問のときに確認したいと思う。
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