天龍寺
臨済宗天龍寺派大本山 霊亀山 天龍寺(てんりゅうじ) 2009年1月12日訪問
本坊を拝観した後に塔頭の拝観を行なうつもりであったが、宝厳院の拝観時間が早く終わるため、天龍寺本坊を後回しにした。宝厳院から再び法堂まで戻り、庫裏への石段を上って行く。既に16時を大きく回っているため、庭園だけの拝観とする。庫裏には行かず、大方丈東庭の入口から中へ入る。
臨済宗天龍寺派大本山天龍寺の山号である霊亀山は、小倉山の別称の亀山に由来している。
「京都の地名 検証 3 風土・歴史・文化をよむ」(勉誠出版 2010年刊)によると、かつての小倉山は桂川右岸の現在の嵐山、左岸の現在の亀山、小倉山、さらに北方愛宕山までを含んだ連山の総称であった。その後、しだいに連山から一山の名称に変わっていったと考えられている。それは西行や寂蓮が嵯峨野に住む頃からとされている。すなわち、小倉百人一首の
小倉山峰のもみぢば心あらば
今ひとたびのみゆき待たなん 「拾遺和歌集」 藤原忠平
の小倉山は、今の嵐山のこと詠んでいる。この歌は、延喜7年(907)宇多法皇が大井川に行幸し、醍醐天皇にもこの紅葉を見せたいと言ったのを聴いて詠んだ歌である。これに対して左岸の山は亀が伏したように見えるため、尾に当たる部分、すなわち亀山公園を亀尾山と呼ぶようになっていた。
万代と亀の尾山の松影を
うつして澄める宿池水 「続拾遺和歌集」 亀山院
現在でも嵯峨小倉山町、嵯峨亀山町、嵯峨亀ノ尾町などの地名に残っている。天龍寺はこの北側から続く小倉山の一番南端に位置する亀尾山を背にして建てられている。安永9年(1780)に刊行された都名所図会にも亀山として以下のように記されている。
亀山は天龍寺の西なる山なり。
〔亀の甲に似たるゆゑ号る〕後嵯峨帝亀山帝離宮をいとなき住せ給ふ旧蹟なり。
なお天龍寺の正式な寺号は、天龍資聖禅寺である。
嵯峨野の町並みの項で触れたように、平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(檀林皇后)は、この地に檀林寺を開いている。野宮神社に続く竹林の仲に、竹林の小道が分岐する角には、三宅安兵衛遺志の檀林寺旧跡・前中書王遺跡の道標が建つ。財団法人 京都市埋蔵文化財研究所の発掘地図によると、野宮神社の北東のあたり嵯峨天龍寺立石町、すなわち三宅安兵衛遺志の碑が建つあたりにあったことが分かる。 大沢池の項で書いたように、嵯峨天皇が嵯峨の地に山荘造営に着手したのは、皇太子時代と考えられている。西桂著「日本の庭園文化 歴史と意匠をたずねて」(学芸出版 2005年)によれば、日本後記の弘仁5年(814)閏7月27日の条に、
天皇、北野に遊猟し給い、この日嵯峨院に御す
という記述が残されている。この時期には既に離宮が完成していたと推測される。恐らく嵯峨天皇は、大同4年(809)の即位後の間もない時期に離宮を竣工させたのであろう。そして承和元年(834)仙洞御所として嵯峨院に移座し、この時期に檀林皇后による檀林寺の建立が行なわれている。嵯峨院は、上皇が亡くなって30年余り経った貞観18年(876)に皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が大覚寺に改めている。 檀林寺は開山に唐僧の義空を迎え、我が国最初の禅学興隆の道場として承和年間(834~48)に建立されている。しかし皇后没後の延長6年(928)に焼失し平安中期に廃絶している。また祇王寺、滝口寺に行く手前にある檀林寺は、名前は同一にしているが全く関係ない寺院と考えてよい。
檀林寺が荒廃してから300年経た後、後嵯峨天皇とその皇子の亀山天皇は、亀尾山から現在の天龍寺にかけての地域に亀山殿を造営する。寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会には亀山殿旧跡とし以下のように記されている。
又嵯峨殿とも称す、東は今の天龍寺方丈を際り、南は大井川、西は亀山、北は野宮を限る
また吉田兼好の徒然草の第51段に亀山殿の御池に大井川の水を引き入れるための水車を作る話が出てくる。多くの費用と日数を費やした水車が回らなかったのに対して宇治の里人を召して作らせると思い通りに水を御池に入れることができた。餅は餅屋という意味の説話で有名なこの段も亀山殿について書かれたものであった。
天龍寺創建の歴史については、次回の訪問の時に記すこととし、今回は天龍寺が造営されるまでの亀山の歴史について書いてみた。
文化庁の国指定文化財等データベースによると、天龍寺本坊庭園は史跡名勝天然記念物に指定されている。京都府で指定されている名勝は下記の通りである。
金地院庭園 史跡名勝記念物 特別名勝 -天橋立 史跡名勝記念物 特別名勝 -
二条城二之丸庭園 史跡名勝記念物 特別名勝 -法金剛院青女滝附五位山 史跡名勝記念物 特別名勝 - 浄瑠璃寺庭園 史跡名勝記念物 特別名勝 史跡
本願寺大書院庭園 史跡名勝記念物 特別名勝 史跡
慈照寺(銀閣寺)庭園 史跡名勝記念物 特別史跡 特別名勝鹿苑寺(金閣寺)庭園 史跡名勝記念物 特別史跡 特別名勝醍醐寺三宝院庭園 史跡名勝記念物 特別史跡 特別名勝西芳寺庭園 史跡名勝記念物 史跡 特別名勝
大仙院書院庭園 史跡名勝記念物 史跡 特別名勝大徳寺方丈庭園 史跡名勝記念物 史跡 特別名勝
天龍寺庭園 史跡名勝記念物 史跡 特別名勝
龍安寺方丈庭園 史跡名勝記念物 史跡 特別名勝
天橋立を除き、いずれも名園とよばれる庭園がリストアップされている。残念ながら西芳寺庭園は未見のため比較ができないが、これらの庭園に京都御所、仙洞御所、修学院離宮そして桂離宮を含めても、天龍寺庭園はその中の上位に位置することは間違いないと思われる。 なお天龍寺は大正12年(1923)に史跡、昭和30年(1955)に特別名勝に指定されている。指定理由は下記の通りである。
天龍寺ハ龜山離宮ノ故■ニシテ由來形勝ノ地タリ興國元年夢■國師足利尊氏ニ説キテ創立スル所ナリ其ノ林泉ハ今舊時ノ宏大ナル有樣ヲ偲フニ足ラサルモノアルモ現存ノ池及池畔ノ景致ニ於テ往古ノ俤歴然タルモノアリ而シテ内庭ハ自然型ノ泉水園ニシテ前庭ハ則テ支那寺院園池ノ體型ニ取レルモノナリ、共ニ我古園ノ尤ナルモノトスヘシ 夢窓疎石の開山に伴い築造されたものであって、前庭と内庭とに分つ。
前庭はほぼ長方形にして、両側は築地塀により境され、左右対称の地割を有し、勅使門、■池、法堂があり、赤松の疎林から成る。内庭は方丈庭園と書院庭園とよりなる。方丈庭園は単純な平庭であるが、書院庭園は亀山々麓に設けられ、滝をかけ池をうがち、池汀・滝頭に石を組む。特に滝頭石組は優秀にして当時の景観をよく現わし、嵐山の借景もまた優れている。禪宗寺院の前庭及び内庭がともによく保存された代表的なものとして特に価値の高いものである。
創建当初の石組み発見 木津川・浄瑠璃寺
国の特別名勝・史跡の浄瑠璃寺庭園の発掘調査を行っている木津川市教委は4日、池の周囲から、平安時代末期の石組み遺構や、平安―鎌倉時代の洲浜が見つかったと発表した。寺が創建、整備された平安時代末期と特定できた遺構は石組み遺構が初めて。市教委は「通路か排水路ではないか」としている。現地説明会は8日午前11時、午後2時の2回。