京都御苑 出水の小川 その3
京都御苑 出水の小川(きょうとぎょえん でみずのおがわ)その3 2010年1月17日訪問
京都御苑 出水の小川では御所水道敷設について、京都御苑 出水の小川 その2では平安京造営以降の東北部の水環境と禁裏御用水の成立までを書いた。ここでは第一疎水の完成によって禁裏御用水がどのように変わったかについて書くこととする。
東京極大路の外側を南北に流れる中河の姿は源氏物語にも現われる。しかし平安時代後期から末期にかけて、中河は流れを失っていたと考えられている。そして流れを再現するため、東洞院川を北小路と一条大路の2箇所で旧中河に結び付けたのが今出川であり、この工事は鎌倉時代になってから行われたと思われる。今出川の流路は中古京師内外地図でも見られるので、室町時代までは変わらなかったのであろう。応仁の乱から戦国時代にかけての京都を再現した中昔京師内外地図に代わると、北小路から南に下り一条で東に折れて中川と合流する流路と二条から六条まで南下し鴨川に放流する流路が無くなっている。つまり東洞院通、今出川通、寺町通を経て二条で鴨川に合流する流路だけに変わっている。
もともと中河が田畑の灌漑として使われていたものだが、東京極大路沿いに公家屋敷が建ち並ぶと池泉への注水も行われるようになる。今出川もまた小山郷からその南の地域にかけての灌漑用水として開発、整備されてきた。それを北小路(現在の今出川)以南の京内に引き込み、屋敷内の池泉に利用した後に鴨川へ帰している。
今出川が禁裏御用水に改修されたのは、林倫子氏ら共著の「禁裏用水の構成と周辺園池との関係」(土木学会論文集D 2009.6)によると桃山時代から室町時代後期まで遡ることができる。土御門東洞院殿が継続的に御所として使用されたのが、南北朝時代の初期であった。かなり早い時期から今出川を始めとする平安京の南北の大路に沿って整備された河川を利用していたことが想像できる。 徳川時代に入り御所の拡張整備が行われ公家町が形成されると使用水量も増加する。それに伴い禁裏御用水の整備が重要視されるようになって行く。小山郷は賀茂六郷に含まれるため、賀茂川の水利権を掌握していた賀茂別雷神社が禁裏御用水の管理も行っていた。その度合いは分からないものの、神社が禁裏御池への流入や停止の裁量権を握り、夏季から秋季にかけては田畑の灌漑を優先していたとされている。各所に悪水濾や樋門を設けたものの、本線から導いて使用した水を再び本線に戻すため、清浄度を保つことも難しかったようだ。専用用水路でない禁裏御用水は、その水量と清浄度の2点に問題を抱えながら明治時代まで利用されてきた。
「続日本史籍協会叢書 明治天皇行幸年表」(東京大学出版会 1933年発行 1982年覆刻)によると、明治10年(1867)1月24日、明治天皇は神武天皇陵御拝並孝明天皇式年祭執行のため、大和国並京都行幸に御出発されている。新橋停車場から東海道線を使い横浜停車場に、そして横浜港より高尾丸に御乗船され神戸港へと向かう。しかし船は風波のため、同月26日鳥羽港に立ち寄り御上陸されている。翌27日に再び鳥羽を出港し、28日に神戸港上陸を果たしている。神戸停車場から鉄道で七条停車場に到着し、東本願寺で小休した後に京都御所にお入りになっている。これが東京奠都以来始めての京都御所還御となる。そして1月28日から2月6日までの京都での御在所は京都御所となる。30日に後月輪東山陵での孝明天皇十年御式年祭に御出席された後は、31日に二条城内の京都府庁、京都府裁判所、大宮御所の博物館、2月1日には下立売の中学校、土手町の女学校並女紅場への御視察を行っている。その後も河東の牧畜場、集書院、勧業場、織工場、舎蜜局など殖産興業に関する御視察を続けている。5日には京都神戸間鉄道開通式に御臨席され、七条停車場から大阪停車場、神戸停車場の各式場を巡り、再び七条停車場に御戻りになっている。そして2月7日に京都を御出発され伏見・宇治を経由して、8日に奈良に到着されている。この後、12日に大阪に入り16日には再び京都に還御されている。そして19日に鹿児島暴徒征伐を布告し、7月27日まで京都に留まる。
明治2年(1869)東京奠都が行われると、天皇とともに多数の公家も京都を後にしている。このときから、御所とその周辺の公家町の荒廃が始まっている。明治天皇は上記の京都行幸を通じて、その変わり様を悲しみ御所一帯の保存の沙汰を出している。明治16年(1883)まで宮内省の予算、京都府の事業主体で公家町の解体と緑地庭苑化の大内保存事業が行われている。明治11年(1878)に公家町跡地は御苑と命名され、事業完了の明治16年(1883)に苑内に宮内省京都支庁が設置されている。
この大内保存事業が行われている頃の明治14年(1881)2月、第3代京都府知事に就任した北垣国道は停滞する京都に活力を取り戻すため琵琶湖疏水建設に着手する。就任2ヵ月後の4月には疎水に関連するルートの測量を地理掛に命じ、翌15年(1882)2月には安積疏水の主任技師南一郎平を招聘し、建設構想の諮問を行っている。南は琵琶湖疏水計画の調査を行い、実現可能という「琵琶湖水利意見書」を提出している。この意見書では通水の目的として
1 鴨川の水量増による水力利用
2 京都経由での大津・淀川間の連絡
3 灌漑用水利用
4 京都市中の流通
5 新たな水車利用
6 淀川流勢を添えての川蒸気の通航
7 湖水面低下による琵琶湖沿岸の水害除去
を上げている。
北垣は熊本・高知県令時代の部下であった島田道生に大津京都間の測量を命じている。島田は明治16年(1883)2月に大津・京都間の測量を完了している。そして同年春に「琵琶湖疏水設計書」を完成させている。琵琶湖疏水の趣意書には下記の7項目の目的を挙げている。上記の意見書から若干の変更を行っている点が注目される。
1 製造機械
2 運輸
3 田畑の灌漑
4 精米
5 火災予防
6 井泉
7 衛生
意見書の「京都経由での大津・淀川間の連絡」と「京都市中の流通」と「淀川流勢を添えての川蒸気の通航」を「運輸」に、さらに「鴨川の水量増による水力利用」と「新たな水車利用」を「製造機械」に纏めている。そして、精米、火災予防、井泉、衛生を加えている。技術者としての経済的な効用の強い意見書に対して、北垣が新たな都市政策を加えて纏め直したのが設計書といった感じがする。いづれにしても当初の目的が、水車動力の確保、通船運搬、田畑灌漑の3点に絞られていた事は間違いない。
北垣は明治16年(1883)中に勧業諮問会や上下京連合区会に建設の可否を問い、11月には琵琶湖疏水起工伺を国に提出している。さらに土木技師として明治16年(1883)5月には、工部大学校を同年に卒業した田邉朔郎を採用している。そして明治18年(1885)1月に起工許可が下り、6月に起工式を執り行っている。
琵琶湖疎水建設計画は5番目に火災予防の事を掲げ、着工前から御所用水と接続することを計画していた。国立公文書館デジタルアーカイブには「琵琶湖疏水工師レーケ氏復命書」が掲載されている。明治16年(1883)11月に京都府から提出された琵琶湖疏水起工伺に対して、内務省は御雇外国人デ・レーケに査定を依頼している。明治17年(1884)2月23日にデ・レーケが内務省土木局長に提出した「琵琶湖京都間隧道復命書」の附属地図が上記の地図である。地図には御所の北側から南に下る御所用水が描かれ、「御用水毎秒時三十立方尺」と記述されている。また疎水の終点が小川に結ばれ、最終的には堀川に琵琶湖の水を注ぐ計画が明示されている。この地図には、南禅寺トンネルと共に現在の日ノ岡ルートが既に描かれている。 また「琵琶湖疏水路図面」は明治18年(1885)1月に起工が許可された際の起工許可関係文書に附属する疏水路図である。
明治18年(1885)6月に着工した琵琶湖疎水開削工事は、山科から南禅寺山下隧道を経て若王子に至る当初計画を、南寄りの日岡山下の隧道に変更し、蹴上に導水することになった。これは南禅寺山下隧道が長等山の第1トンネル並の難工事が予想されたためである。また政府の指示により、本線と分線の2コースに分け、本線は通船用として岡崎に延ばし鴨川に合流。分線は灌漑用として南禅寺境内を水路閣で渡り、北白川、下鴨を経て堀川に向かうようにしている。南禅寺舟溜から蹴上舟溜までの距離582m高低差約36mは、台車に舟を乗せて上り下りするインクライン(傾斜鉄道)を採用することで解決している。また水車を動力源とした計画は水力発電に置き換えられ、蹴上発電所が建設されている。第一疎水と疎水分線は明治23年(1890)春に完成し、4月9日天皇皇后両陛下の御臨幸を仰いだ竣工式が挙行されている。
長く水量不足と衛生上の問題を抱えてきた禁裏御用水の改善も疎水完成後の明治23年(1890)9月から開始されている。新町頭地区から引水する御所用水路開削は8ヶ月を要して、翌24年(1891)に完成している。水路は幅0.75~0.9m深さ0.9~0.6メートルであった。疎水からは毎秒0.278m3の水が新町頭から流入したが、田畑の灌漑利用や水路から漏洩が大きく、実際に御所で使用できる水量は流入分の半分にも満たないことが分かった。第一疎水開通前後の今出川及び御用水の経路図については、「水みちの通水システムと園池形態-禁裏御用水を対象として-」(景観・デザイン研究講演集 2007.12)に掲載されている図―2明治期の禁裏御用水(今出川)が分かりやすいだろう。
このように、疎水分線からの取水だけでは計画した通りの能力を発揮できなかったこと、さらには御用水の水圧が低いため火災時の防火用水として使用するには問題があった。田邊朔郎は明治32年(1899)より新たな御所水道の調査に着手している。しかし日路戦争などの影響を受け、計画は延期され、事態は改善されないまま10年が過ぎて行った。日露戦争後の明治43年(1902)にやっと予算が承認され、御所水道の工事が着工した。この後の出来事は、京都御苑 出水の小川で説明した通りである。明治45年(1912)2月に御所水道は完成する。高圧通水試験を行ったところ3箇所で漏水が認められたため、さらに修理を行い、5月より御所水道の運用が始まる。そして禁裏御用水は役目を果たしたため、翌月の6月には疎水分線からの給水を停止している。大正13年(1924)今出川通の京都市電開設に伴う道路拡幅が行われ、今出川が暗渠化されている。また相国寺境内の禁裏御用水も昭和10年(1935)頃には流れが途絶えている。このようにしてかつて御所に御用水を送ってきた水路の痕跡が一つ一つ消えて行く。御所水道もまた老朽化が進み、その完成から80年を経た平成4年(1992)に停止している。
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