京都御所 その10
京都御所(きょうとごしょ)その10 2010年1月17日訪問
京都御所 その8と、その9で、禁裏御守衛総督である一橋慶喜を中心に守衛側の行動について書いてきた。この項より、福原越後軍、国司信濃軍そして真木・久坂軍以外の長州藩と長州支援の諸藩の動きについて書いてみる。
元治元年(1864)7月18日の前日、つまり17日の夜から18日の暁にかけて宮中に於いて評定が行われている。一橋慶喜は、この評定が始まる前に水戸藩士大野謙介をして、長州藩留守居乃美織江を説き、伏見・嵯峨に赴き撤兵の周旋を行わせようとしている。これは慶喜が行った通算6回目の説諭となる。乃美は既に撤兵の見込みがないことを理由に、周旋を辞退している。そして山口からの急報についての一書を奉っている。この書には、脱藩してイギリスに留学していた志道文太(井上馨)と伊藤俊輔(伊藤博文)が急遽帰国して四カ国艦隊が赤間関へ襲来することを報せた事と艦隊が摂海より京畿に攻め入る恐れがある事、そして毛利父子が上京する事を伝えている。この乃美の書は「七年史」(「続日本史籍協会叢書 七年史 二」(東京大学出版会 1904年発行 1978年覆刻))の甲子記二に所収されている。幕府方は、それまで収集した世子上京の諜報と一致するため、近日中に確実に戦争が行われることを確信した。
「朝彦親王日記」(「日本史籍協会叢書 朝彦親王日記 一」(東京大学出版会 1929年発行 1982年覆刻))7月17日の条に以下のようにある。
一 一橋中納言参内未中刻予ト同時之事
一 関白殿徳中帥山近其余之国事人々不参之事
一 夕刻一橋へ一同面会 勅使之義相談之処取行候而モ宜又不取行候而モ宜断然之御処置有之度旨演舌大小目付昨日伏見へ出張為及応対候右之義申入候旨噺シ候且昨日江戸ヨリ書面到来早々人数差出筑葉ママ山へ押寄候由申越候旨咄ニ候
中川宮は、一橋慶喜と同じく7月17日未の刻(14時)に参内している。この日は関白・二条斉敬、右大臣・徳大寺公純、中務宮幟仁親王、有栖川熾仁親王、山階宮晃親王、内大臣・近衛忠房等が参内しており、夕刻より一橋慶喜を交えて長兵への対応について討議している。前日より伏見への勅使派遣に反対していた慶喜は、この日になって勅使の派遣の可否に拘らず、断固とした処置を検討すべきと演舌している。前日に江戸からの書面が届き、天狗党の筑波挙兵に対して武力を以って鎮圧する方針が定まったと告げている。これを以って畿内に屯集している長兵に対する慶喜の態度が定まった。この日は夜を徹して討議が行われ、ほぼ長兵に対する対応方針が定まったと考えてよいだろう。翌日の「朝彦親王日記」には、「一 前日ヨリ参内今巳刻頃退出之事」とあるので、午前10時頃まで調整が続いたのである。そして宮は関白と共に主上に拝謁し、「今日ニモ変事難計旨」を申し入れ、主上の異母姉にあたる敏宮(桂宮淑子内親王)の安全を確保するため参内を進言している。
また同じく17日に、中山忠能等の長州討伐反対派もまた、二条関白に面会を求めていた。つまり7月12日付けで大炊御門家信等58人連署の上書(京都御苑 中山邸跡)、すなわち長州藩に対し寛大な処置を講じ、藩主父子の入京を早々に許し攘夷の叡慮を貫徹する建議に対する回答を得ようとしていた。中能は既に朝議によって討伐が決定したと漏れ聞き及んでいたことによる行動でもある。そのため17日申刻(16時)に忠能は家信等と参内し関白に面会を請うたが許されず宮中で居催促したが、翌18日の巳刻(10時)中川宮等と同じ頃に退出している。しかし18日戌の刻(20時)に、諸藩に投じられた長州側の書面を携えた有栖川宮父子、中山忠能、大炊御門家信、正親町実徳、橋本実麗等が参内している。
甲子戦争における桂小五郎の行動を理解するため、文久3年(1863)8月18日以降の桂小五郎の動静を、妻木忠太著の「史実考証木戸松菊公逸事」(有朋堂書店 1932年刊)と「松菊木戸公伝」(マツノ書店 1996年覆刻)に所載されている年譜で確認する。 都より撤退した長州藩士は翌19日に、七卿を長州に送るため兵庫に向かっている。そして22日、上方に残った長州藩士は兵庫より大阪に戻り大阪藩邸に入っている。しかし桂は8月18日以降の京の形勢を探るため入京している。残留した長州藩士の行動と雪冤運動については、京都御苑 凝華洞跡で書いているのでそちらを御参照下さい。ここでは桂の行動を追って行く。9月13日に俗論派を抑えるために、藩主より麻田公輔、中村九郎そして桂小五郎を召す命が下され、桂も帰国を決意している。同月23日に大阪を発し海路により10月3日に帰国を果たしている。藩主より直目付役として奥番頭格を賜り、一度は辞したものの許されなかった。この後、佐賀藩前藩主・鍋島閑叟に親書を届けるため、同月27日に下関を発っている。11月10日には下関に戻り、その日の内に萩に赴き藩主に復命している。 元治元年(1864)正月5日、直目付役を免ぜられ、京への派遣が命ぜられる。これは桂が望んだ人事である。同月12日に山口を発ち、18日に大阪に到着している。25日には乃美織江と国事について談義している。2月9日には、因州筑前の二藩が長州藩を支援してくれるものの、薩摩、越前、宇和島の三藩は結束が固く、切り崩すことが困難であることを国許の毛利登人等に報告(「木戸孝允文書」(「日本史籍協会叢書 木戸孝允文書 二」(東京大学出版会 1930年発行 1985年覆刻)-三 毛利登人、大和国之助宛書翰 元治元年二月九日)している。さらに2月11日に長州藩士の入京が不可であることを乃美織江に告げ、久坂玄瑞の帰国を急がせている。しかし久坂が山口に到着したのは3月19日であり、25日には来嶋又兵衛等12名と共に再び京に向かって山口を発っている。桂が止めたにも拘わらず、来嶋又兵衛は4月10日に壮士50余名を率いて入京している。同月18日、桂は京都留守居に命じられる。この命が京都に届いたのは5月2日であった。4月18日は島津久光が京を去り帰国の途に着いた日でもある。翌19日、桂小五郎、久坂玄瑞、来嶋又兵衛、寺島忠三郎、入江九一、宍戸九郎兵衛は大阪藩邸で世子上京について討議する。久坂と来嶋は進発論を主張するが、桂は同意しなかった。久坂の進発論は、島津久光の帰国による京での反長州勢力の減少、やがて訪れる将軍家茂の東帰、そして天狗党の筑波蜂起などの政治状況の変化に伴うものであった。そして将軍が大阪より海路で江戸に発った5月16日に、久坂も帰国の途に着いている。
6月5日、池田屋事件が勃発し宮部鼎蔵、北添佶摩、吉田稔磨等が闘死あるいは自刃している。桂小五郎は新選組の襲撃の際に、偶然その場に居合わせなかったため辛くも難を逃れている。既に6月4日には藩主・毛利慶親が世子・定廣に兵を率いて上京することを命じ、計画が漏洩することなく実行に移す段階を迎えていた。
第一発として来嶋又兵衛が遊撃軍を率いて進発したのが6月15日、翌16日には佐久間左兵衛、竹内正兵衛等300名を率いて福原越後が出発している。福原は江戸に赴くとされていたので、幕府に対する上書と黒印の軍令書を携帯していた。久坂玄瑞及び真木和泉は総官となり忠勇・集義・八幡・義勇・宣徳・尚義の諸隊300余名を統帥し、16日に三田尻を出航している。久坂等が大阪に到着し藩邸に入ったのは21日であった。また翌22日には福原越後が大阪に到着し、25日には伏見に移っている。さらに22日には来嶋又兵衛が淀川を上り既に伏見藩邸に入っている。24日未明、久坂、真木の諸隊は淀川を遡り前島村に上陸し山崎に入り、忠勇隊を天王山、集義一隊・八幡二隊を離宮八幡、宣徳・尚義の諸隊を大念寺、義勇隊を観音寺に配置し天王山及び寶寺を中軍の本陣に定め力士隊をして守らせた。
第二発となる福原越後に続いた第三発国司信濃500余名が山口を進発したのは6月24日で、大阪着が7月7日、翌日淀川を上り9日に山崎着、脱藩浪士鎮撫の為と称し7月11日に天龍寺に入っている。なお国司隊の一部、児玉小民部の率いる遊撃軍200余名は出発が遅れ、京に到着したのは7月15日であった。第四発益田右衛門介600余名が山口を発ったのは7月6日で、13日に大阪に着き山崎を経て、15日に男山に駐屯する。そして第五発として7月13日に世子毛利定廣が五卿を伴い出発している。
「京都御所 その10」 の地図
京都御所 その10 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
安政度 御所 | 35.0246 | 135.7627 | |
01 | ▼ 京都御苑 中立売御門 | 35.025 | 135.7596 |
02 | ▼ 京都御苑 蛤御門 | 35.0231 | 135.7595 |
03 | ▼ 京都御苑 下立売御門 | 35.0194 | 135.7595 |
04 | ▼ 京都御所 清所門 | 35.0258 | 135.761 |
05 | ▼ 京都御所 宜秋門 | 35.0246 | 135.761 |
06 | ▼ 京都御所 建礼門 | 35.0232 | 135.7621 |
07 | ▼ 京都御所 建春門 | 35.0236 | 135.7636 |
08 | ▼ 京都御所 朔平門 | 35.0272 | 135.7624 |
09 | ▼ 京都御所 月華門 | 35.0238 | 135.7617 |
10 | ▼ 京都御所 承明門 | 35.0235 | 135.7621 |
11 | 京都御所 日華門 | 35.0238 | 135.7625 |
12 | ▼ 京都御所 紫宸殿 | 35.0241 | 135.7621 |
13 | ▼ 京都御所 清涼殿 | 35.0243 | 135.7617 |
14 | ▼ 京都御所 小御所 | 35.0245 | 135.7625 |
15 | ▼ 京都御所 御学問所 | 35.0249 | 135.7625 |
16 | ▼ 京都御所 御池庭 | 35.0247 | 135.763 |
17 | ▼ 京都御所 御常御殿 | 35.0253 | 135.7628 |
18 | ▼ 京都御所 御内庭 | 35.0253 | 135.7631 |
19 | ▼ 京都御苑 清水谷家の椋 | 35.0231 | 135.7608 |
20 | ▼ 京都御苑 凝華洞跡 | 35.0213 | 135.7624 |
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