京都御苑 凝華洞跡
京都御苑 凝華洞跡(きょうとぎょえん ぎょうかどうあと) 2010年1月17日訪問
京都御苑 猿ヶ辻から京都御苑 堺町御門 その5までを使い文久2年(1862)後半から文久3年(1863)の八月十八日の政変までを見てきた。政変直前には、急進派公家が尊攘派浪士の勢いを借り朝廷政治を自らの望むように動かすことができる体制をほぼ完成さていた。原口清氏は「文久三年八月十八日政変に関する一考察」(1992年発表 「原口清著作集1 幕末中央政局の動向」(岩田書院 2007年刊)所収)で、孝明天皇こそが八月十八日の政変で最も重要な役割を果たしたとしている。急進派公家の勢いを止めるためには政変を起こすしかなく、勅命がなければ政変は起こり得なかったからである。そして、この政変に至った要因を自己の権威・権力の喪失に対する危機感であったと原口氏は見ている。 孝明天皇を取り巻く人々の思惑はどうであったか?例えば中川宮にとって攘夷親征は政変参画の必須の要因にはなり得なかっただろう。宮は自らが攘夷先鋒になることを望んでいたので、御親征が決行されたとしても、それほど大きな問題ではなかった。むしろ宮にとっての問題は、急進派から西国鎮撫使就任を押し付けられることである。これを辞退するために政変に参画したと考えてもよいだろう。自らに降りかかりつつある禍を避けるための行動である。勿論、主上が御親征を望んでいないことを知り、これを延引しなければならないこと、さらには急進派が朝廷政治に口出しをすることに対する嫌悪感などもあったと推測される。また、主上の望む公武一和路線から大きく逸脱することや主上に政治的な役割を押し付けるようなことを望んでいなかったと思われる。いずれにしても、これらの要因によって中川宮は政変に積極的に参画することとなった。
会津藩もまた京都守護職として政局の混乱から内乱に繋がることを防ぐと共に、主上の意思に従うことを優先している。恐らく最優先としたことは、御親征決行により徳川幕府に委任された征夷大将軍が無力化してしまうことを防ぐことであっただろう。原口氏は上記の著書で政変後の「隠された討幕の企図を砕き、偽勅ないし違勅の罪を糺す」という名分は政変の正当化するための口実としているが、これらは後付ではなく当時の公武一和派が感じていた脅威であったことは間違いないだろう。この脅威を全く感じずに政変を計画したという事はあり得ないと思われる。
薩摩藩はなぜ、この政変を企画したのだろうか?そもそも、この計画が誰の指令のもとに発動されたかが問題になる。京都の政情の急転は鹿児島の想像以上のものであったはずである。島津久光が具体的な策と日時まで授けたと考えることには無理があると思う。佐々木克氏が「幕末政治と薩摩藩」(吉川弘文館 2004年刊)で指摘しているように、文久3年(1863)3月14日に上京し近衛邸を訪れた島津久光は、近衛父子、鷹司関白、中川宮そして一橋慶喜、松平容保、山内容堂の前で攘夷拒絶は行われるべきでないと自らの考えを述べている。この時の久光の意見は下記の通りである。
①攘夷御決議、軽率之儀不可然事
②後見惣裁ヲ奴僕之如ク御待遇、浮浪藩士之暴説御信用尤可然、且於御膝下法外之義有之、心ヲ其儘ニ被召置候義、朝憲幕令モ不行姿、只々乱世之基、歎息ニ不堪事
③右ニ付暴説御信用之堂上方、速ニ御退、浮浪藩士之暴説家ハ幕より処置可有之事
④宮・前関白・中山・正親町三条等、以前之如ク御委任等之事
⑤大原御宥免之事
⑥天之下之太政征夷江御委任之事
⑦長州父子所存、後見より質問之事
⑧御親兵一条之事
⑨無用之諸大名藩士等都而帰国之事
⑩主命之外藩士江御面会無用之事、浮浪ハ尤不可然事
⑪主家亡命之者、御信用不可然之事
⑫英夷一条、諸夷一条
⑬神宮守衛として親王方被差遣候義、尤不可然事、是は其近国之大名江被命至当之事
⑭浮浪藩士之心底能々御勘弁有之度事
久光は朝廷が外部の力によって動かされることが無いように、中川宮や前関白・近衛忠煕を朝議に復帰させると共に、浮浪藩士の帰国と暴説を信用する堂上を朝議から排除することを提言している。さらに長州及び土佐の藩士、さらには京の巷に屯する脱藩者を一掃することを望んでいる。この考えに沿って五ヵ月後に、高崎等の指揮により政変が実行されたと考えるべきであろう。この十四カ条より、この時期の久光が秩序回復と将軍への政権委任を優先していたことが分かる。
和行幸の魁として、中山忠光、吉村虎太郎等は大和国五條で挙兵(天誅組の変)したが、八月十八日の政変によって大勢が一変し、9月末には敢え無く壊滅している。10月にも七卿落ちの公家の一人澤宣嘉を擁した平野国臣等の生野挙兵(生野の変)が起こるが、これもまた諸藩に包囲されて敗れている。
政変において孝明天皇と共に重要な役割を果たした中川宮は、8月27日に還俗元服し弾正尹宮を任官し名を朝彦と賜っている。「朝彦親王景仰録」(西濃印刷出版部 1942年発行 皇學館 2011年覆刻)の「朝彦親王の御遺蹟」によれば、文久3年(1863)10月19日に下立売御門内に邸を賜れている。これは恭礼門院の女院御所跡地であり、「維新史料綱要 巻四」(東京大学出版会 1937年発行 1983年覆刻)によれば同月29日に一乗院里坊より恩賜の新殿に移徒している。今、この地には貽範碑が残されている。翌元治元年(1864)10月10日に中川宮から賀陽宮に改称している。正確に記述するならば、中川宮邸が1年あった後に賀陽宮邸という名称に変わったと云うことになる。
繰り返し上京を望まれてきた島津久光は、文久3年(1863)10月3日に同年3月以来の上京を果たす。この時久光が鹿児島から率いてきた兵は、7000人あるいは15000人とも云われている。佐々木克氏は「幕末政治と薩摩藩」(吉川弘文館 2004年刊)で、小銃隊12隊と大砲隊2隊の総勢1700人の藩兵と推測している。9月12日に鹿児島を出た久光は、26日に豊後佐賀関から乗船している。通常のルートでは下関からの乗船であるが長州藩との関係悪化のための変更である。29日に兵庫に到着し、大阪を避けて西宮より山崎を通り3日の朝に二本松の藩邸に入っている。同月18日に前越前藩主の松平慶永、11月3日に前宇和島藩主の伊達宗城、同月26日に将軍後見職の一橋慶喜、そして前土佐藩主の山内豊信は遅れて12月28日に上京している。これより翌文久4年(1864)1月にかけて京都守護職の松平容保を含め、久光、慶永、宗城、慶喜、豊信による参預会議が成立する。12月23日に鷹司輔煕が関白を罷免され、関白兼左大臣に二条斉敬、右大臣に徳大寺公純、内大臣に近衛忠房という公武一和派が朝議を占めることとなった。
この当時の国内政治にとっての重要課題は、横浜鎖港問題と長州藩処分問題であった。幕府内の公武一和派は、禁中並公家諸法度などの諸法規による幕主朝従の従来の構図を望んできた。つまり公武とは朝廷と幕府の関係であり、諸侯は幕府の統制化に置かれているため朝廷と幕府の間に介入することはできなかった。しかしこのような公武合体体制が文久2年から3年にかけて崩れ始め、挙国一致のための新しい体制の模索が始まった。そして単なる尊王という思想上の問題ではなく、朝幕関係も朝主幕従こそが挙国体制に相応しいという考えが特に草莽浪士の間で芽生え始めている。このことによって国政上に諸侯の新たな立場が確立し、参預会議という政治形態が出来上がった。しかし参預会議は僅か数ヶ月の討議の末に解体して行く。表面上では徳川慶喜と島津久光の衝突によって崩壊したとされている。元治元年(1864)2月28日、山内容堂は参預会議より離脱し帰国の途についている。一橋慶喜の鹿児島、福井、宇和島の三藩に対する嫌疑を察した島津久光は慶喜と幕府に対して強く失望し3月9日に参預を辞している。同日、慶喜、慶永、宗城、容保も辞表を関白・二条斉敬に提出している。この辞表は15日に正式に受け入れられたので、3月15日が参預会議の崩壊した日となっている。
参預会議体制と入れ替わるように、同年3月25日に一橋慶喜は将軍後見職を免ぜられ禁裏御守衛総督と摂海防禦指揮に就任している。配下に京都守護職の松平容保、京都所司代の松平定敬らを従えたことにより、江戸の幕閣達から独立した一会桑政権の誕生である。これが八月十八日の政変から甲子戦争までの一年間の大きな政局の変更点である。前年の秋に連携して上京した諸侯達も4月の中旬から帰国の途についている。久光も18日に京を発ち鹿児島に帰国している。文久2年(1862)4月からこの2年間で幕政改革と朝政改革のため3回上京したが、その成果が得られずの帰国となった。次に久光が上京するのは慶応3年(1867)の4月であった。
八月十八日の政変以降、全ての長州藩士が京を去った訳ではなく、京阪地域に潜伏し地下運動を行う者もあった。末松謙澄著の「防長回天史」(「修訂 防長回天史 第四編上 五」(マツノ書店 1994年覆刻))によれば、政変の翌日の19日に毛利讃岐守、吉川監物、益田右衛門介は兵2000余を率いて、七卿を護し京都大仏を発ち、伏見、郡山(茨木市)、芥川(高槻市)、西宮を経て21日に兵庫に至っている。七卿及び長州兵は海路で三田尻に向うが、荒天により三田尻に集結したのは8月27日のことであった。
七卿等と兵庫で別れた益田右衛門介は、8月22日に中村九郎、桂小五郎、久坂玄瑞、来嶋又兵衛、佐々木男也、寺島忠三郎等十余士を率いて大阪に戻り大阪藩邸に入る。益田以外の諸士は京都の藩邸に潜伏し政情を偵察していた。また京都藩邸留守居添役は村田次郎三郎であったが、山口の藩庁は村田もまた帰藩の途についたと考え、乃美織江を上京させた。乃美は伏見街道の守衛に入京を遮られるが、京都藩邸留守居あることで9月5日に入京を果たしている。大阪藩邸は北條瀬兵衛が帰国したので、9月下旬に宍戸九郎兵衛等を上坂させている。上方の情勢を偵察していた益田右衛門介も、回復の兆しが見えないことから9月1日に大阪を発ち、6日に三田尻で七卿に謁した後に山口に帰っている。来嶋、久坂等もまた9月10日から19日の間に次々と京を発ち帰国の途についている。
長州藩による雪冤運動は政変勃発直後から始まっている。9月13日に家老・根来上総が嘆願書を携え大阪に到着している。乃美織江が朝廷に上報するが同月17日朝議で入京許さざるに決する。長州は朝命に従うことに決し、根来は乃美に嘆願書を託し帰国の途についた。乃美は同月23日に勧修寺家を通して嘆願書を提出している。
毛利家が嘉永癸丑(ペリー来航の嘉永6年)以来の国事奔走の始末を詳述し勅命を奉じ叡慮を重んじた行動を纏めた奉勅始末記と八月十八日の政変に関する弁明書としての査點書2通を作成し、家老の井原主計を上京させることとなった。井原の随行に久坂玄瑞、そして警護には遊撃隊から壮士が選ばれ、11月8日に出発している。
井原等は11月中旬に大阪に到着する。山口藩庁は大阪の宍戸左馬介(この頃九郎兵衛から改名)と久坂玄瑞の周旋によって井原主計の入京を果たすつもりであったが、入京の許可は得られずにいた。ついに12月11日、朝使である勧修寺家雑掌2名が京都所司代公用人2名を伴い伏見の井原の仮寓を訪れた。井原は朝使に奉勅始末記及び査點書2通を提出せざるを得なくなり、藩主の密命を訴える機会を失った。そして16日に帰国の命が下った。なおも入京の嘆願を行ったため、朝議は勧修寺右小弁経理を伏見に遣り藤森神社で井原と面会することを許している。12月21日、勧修寺経理は武家伝奏の飛鳥井雅典と野宮定功の2名の雑掌を従え井原主計を引見し、主計の陳情を聴いている。「防長回天史」では「主計乃ち公の密命を陳情す其詳今知るべからずと雖ども辞簡にして意極めて沈痛なりしもの丶如し」とあるが、「続再夢記事」(「日本史籍協会叢書 続再夢紀事2」(東京大学出版会 1921年発行 1988年覆刻))には、「井原八月十八日一件ニ就き毛利讃岐吉川監物へ御不審之筋あれハ藩主に於て吟味すへき旨御沙汰ありし故篤は吟味に及ひけれと別段申上へき程の事実なし此上ハ御憐慇の御沙汰を願ひたしと申出たるのミにて其他ハ何事も申出さりし」とある。「続再夢記事」を信じるならば、井原の藩主の密命とは上京のための口実だったようだ
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