文書と写真・地図による「記憶」の再現

高台寺 その8

臨済宗建仁寺派 鷲峰山 高台寺(こうだいじ)その8 2009年11月29日訪問

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高台寺

 高台寺 その3において、慶長3年(1598)の豊臣秀吉没後に北政所が伏見城を出て京都新城に移ったこと、さらには木下家の人々が関ヶ原の戦いに、どのように対峙したかについて書いてきた。また高台寺 その4では、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い以降の北政所が居住したと考えられる三本木屋敷について書いた。現在では慶長10年(1605)の高台寺建立以降も高台院は、三本木屋敷で暮らしていたとする説の方が有力であると思われる。そして高台寺 その5高台寺 その6では、高台寺が創建される前に東山に存在していた雲居寺の興亡について、高台寺 その7では先行して建立された康徳寺と岩栖院の入替や、高台寺の敷地に鷲尾家の領地を組み込むに至った経緯について記した。ここでは高台寺創設後から寛永元年(1624)9月6日の高台院の崩御、その後の高台寺の変遷について書いて行くつもりである。
 高台寺の開創時期については、慶長10年(1605)と翌慶長11年(1606)の2つの説があるようだ。前者については、「大日本史料」の慶長10年(1605)6月28日条の以下の綱文が根拠となっている。

     二十八日、辛未、高台院浅野氏嘗テ造立スル所ノ、
     京都寺町康徳寺ヲ東山ニ移シ、規模ヲ恢宏ニシ、
     改メテ高台寺ト号ス、
     工就ルヲ持テ、是日移リテ之ニ居ル

 また同じく「時慶卿記」の6月27日及び28日の条にも同様の記述が残されており、同年9月1日には幕府は高台寺寺領の安堵を認め、諸役を免じ、竹木の伐採や殺生などを禁じていることも「大日本史料」に残されている。
後者の説は、「高台寺誌稿」にある康徳寺開創から高台寺への経緯に記されている以下の一文に依っているようだ。

     同十一年落成シ、之ニ移リ住ス
     ○中略、移住ヲ十一年トセルハ、時慶卿記ト合ハズ、
      蓋シ誤ナラン

 また「当代記」でも竣工日時不詳ながら慶長11年に造立したこととなっているようだ。ただし既に「大日本史料」でも指摘されているように時慶卿記との不整合から疑問視されている。ただし「鹿苑目録」の慶長11年8月8日の条に、「大御所様が北政所様にお出でになられ、下々までお土産を下された」と記されていることから、これを高台寺で行なわれた開山式であるという見方もあるようだ。いづれにしても、慶長11年までに高台寺は弓箴善彊を開山に迎え、朝日殿を弔った康徳寺と同じく曹洞宗の寺院として開創したと思われる。
 この後、高台寺は15年の間に7人の住職を永平寺から迎えることとなる。このことについては、碓井小三郎が大正4年(1915)に纏めた「京都坊目誌」(新修京都叢書刊行会 光彩社 1969年刊)の中に高台寺の沿革として記されている。開山の善彊は慶長14年(1609)に高台寺内に桂林院を建て隠退している。高台寺第二世として迎えた良芸は半年で亡くなっている。その後を継いだ三世の扶夫も元和5年(1619)に没している。四世の通伝は塔頭の僧との折り合いがうまくいかず、丹波に隠退してしまっている。五世として鼓山という僧を迎えたが、碓井の記述では「名ありて実無く近江に退く」とある。そして岡林院の元昌が本寺である高台寺を主管するような事態に陥っている。
このような事態を憂慮した高台院は元和8年(1622)に徳川秀忠に臨済宗への改宗のお願いを届け出ている。これが同年中に認められたものの、幕府は臨済宗南禅寺派の寺院に転宗転派し高台寺塔頭岡林院の久林を住持とすることを命じてきた。以心崇伝が僧録に任ぜられたのが元和5年(1619)であったことから、徳川幕府の宗教政策の中で管理できるように南禅寺を選んだのかもしれない。しかし高台院も納得せず、その後2年間幕府との間で紛争した結果、寛永元年(1624)9月3日に建仁寺の三江紹益を晋山している。三江紹益は建仁寺第295世を務め、徳川家康より信認されていた。慶長13年(1608)には徳川家と縁戚関係を持つ奥平信昌(戒名 久昌院殿泰雲道安大居士位)のために久昌院を、また山中長俊のために洛東に慈芳院を創設している。

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高台寺

 紹益の師は妙心寺第58世の南化玄興であった。玄興は後陽成天皇や豊臣秀吉をはじめ諸大名の崇敬をうけ、妙心寺内に一柳直末が大通院を、稲葉貞通が智勝院を、脇坂安治が隣華院を創建した際、各院の開山に招請されている。天正19年(1591)秀吉の子である鶴松(戒名 祥雲院玉巖惠麟台霊)が病死すると菩提寺として東山に祥雲寺が建立されている。この開山として迎えられたのが南化玄興である。しかし祥雲寺は長くは続かず、関ヶ原の戦いの後の慶長6年(1601)に家康によって、かつての根来寺の僧・玄宥に与えられている。根来寺は天正13年(1585)の秀吉の根来攻めで炎上しているので、その再興として智積院が建てられている。このようにして家康は鶴松の墓所であり、豊国神社の近接地を秀吉が弾圧を加えた人々の復権を印象付けるように与えている。なお妙心寺の玉鳳院に鶴松の霊屋や遺品が残るのは、祥雲寺から南化玄興が妙心寺に運んだためとされている。このように豊臣家にとって南化玄興の代より強い結び付きがあった。そして法嗣である三江紹益も、高台寺が建立される以前の慶長9年(1604)に、木下家定のために建仁寺に常光院を創建している。また家定の末子も紹益に弟子入りし紹叔と名のっていることからも木下家との関係は既に築かれていた。恐らく高台院は、南禅寺からではなく、木下家あるいは豊臣家とも縁のある三江紹益を迎えたかったのであろう。そして三江紹益の入山を見届けた3日後に高台院は息を引き取っている。また三江紹益も高台寺を紹叔に継ぎ、慶安3年(1650)に寂している。紹叔は、塔頭輪番を以って住持職を為すという寺規を制定し法燈の継承を行なった。

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高台寺 偃月池と開山堂

 この後で触れるが、高台寺は何度かの火災を受け、その度に再興してきた。そのため創建当時の高台寺の姿は、残念ながら現在の高台寺に見ることは難しい。先の「京都坊目誌」には慶長10年(1605)の創建時の堂宇についての記述があるので、これを頼りとして創建時の様子を記してみる。
現在青龍寺の北側に高台寺の薬医門が残されているが、これがかつての総門である。元伏見城にあり、加藤清正が築造に係わったと伝えられている。
安永9年(1780)に刊行された都名所図会には当時の高台寺の様子が分かる図絵が残されている。ここにも現在のねねの道の下側(西側)に総門が描かれている。この総門は下河原通すなわち八坂神社の南楼門から南に続く道に面して建てられているため西面している。総門の東側は高台寺の境内となり、月真院をはじめとする塔頭はその中に建てられていたことが確認できる。門を潜り維新の道の坂を上ると現在の霊山観音のあたりに中門が設けられており、この門を潜ると主要伽藍が現われる構成となっている。なお中門は古の雲居寺の旧門の址ともされている。 当時の高台寺には総門以外にも2つの門があり、その内のひとつが現在の台所坂の門であり、庫裏へ繫がる門であったようだ。これは先の図絵からも確認できる。さらに北側には裏門があり北面していたとされている。この裏門は恐らく大雲院のあたりにあったと推測される。

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高台寺 かつての忠魂堂 
現在は大原野の正法寺に移された 2010年9月19日撮影

 図絵からは中門を潜り北に折れると正面奥に方丈、手前の左手に仏殿、右手に鐘楼と浴堂があったことが分かる。鐘楼は木下家定が慶長11年(1606)に建立したものとされているが、大正2年(1912)の火災で焼失している。ただし慶長11年の銘のある梵鐘は残り、現在も高台寺駐車場の脇に天満宮とともにある。
 瓦屋根を載せた仏殿は東面し、創建時に康徳寺の法堂を改築したものとされている。堂内の床には敷瓦が施され、本尊の釈迦仏は坐像でニ尺五寸、脇侍は左に迦葉、右に阿難の立像で共に三尺。脇檀の南に椅子に座す達磨像、北に大元像が祀られてあった。脇檀の厨子は高台院が所有していた牛車の上屋を使用していたとされている。これらは明治18年(1885)11月の火災により堂宇共々焼亡している。 明治30年(1897)11月14日この仏殿の北側に日清戦争で戦没した京都出身者を祀る記念碑が建てられている。また仏殿の東北面には日露戦争の戦没者を祀る忠魂堂が明治41年(1908)に落成している。朱塗りの忠魂堂は六陵ニ層の檜皮葺屋根を持ち、その上に宝珠を載せていた。大山巌の筆による忠魂堂の扁額が楣上に掲げられていた。この堂宇は京都尚武義会が建立したもので、堂内中央に置かれた六角形の厨子内には戦没者の氏名が記された牌が納められていた。毎年秋に法会が行なわれ戦没者の冥福を祈られてきたが、高台寺の境内整理に伴い、撤去されることが決まる。東本願寺菊の門を設計するなど明治・大正期の多くの社寺建築を手掛けた亀岡末吉の初期の作品であったため、その喪失を惜しんだ泉涌寺の上村貞郎長老の仲介により大原野の正法寺へ移築されている。正法寺で忠魂堂を見掛けた時には、上記のような経緯を知らなかったので新築の堂宇だと思っていた。

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高台寺

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