是枝柳右衛門の寓居
是枝柳右衛門の寓居(これえだりゅうえもんのぐうきょ) 2009年12月10日訪問
田中河内介の寓居 その4では臥龍窟の凡その場所を推定してみた。この臥龍窟には多くの有志が訪れたことが伝えられている。そして寺田屋事件の発生した夜、ここに薩摩の是枝柳右衛門が居たことから京での寓居とされる。
文久2年(1862)4月23日の夜、すなわち田中河内介が計画した義挙を実行するはずだった夜、伏見の寺田屋で薩摩藩の上意討ちが行われ、京都挙兵は行われなかった。この計画は既に書いてきたように、京で兵を挙げ関白九条尚忠及び京都所司代酒井忠義邸を襲撃、さらには青蓮院宮を奉り入朝し大義を天下に掲げる。そして主上と親王が議を決し、之を島津氏に委ねることを最終目標としていた。しかし寺田屋で有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・橋口伝蔵の6名が即死、田中謙助・森山新五左衛門の2名が重傷(翌日切腹)、2階で挙兵の準備を行っていた薩摩藩士は主命に恭順、真木和泉と田中河内介等も拘禁されてしまった。また岡藩は事変後に伏見に到着するという大遅参により挙兵計画の実行は不可能となった。 当日夜、薩摩藩の動向を確認するため、長州の久坂玄瑞、堀眞五郎等が京都での浪士の集結場所である臥龍窟を訪問したとされている。ここには名前が分かっているだけでも、河内介の子・左馬介、甥の千葉郁太郎、そして秋月藩の海賀宮門と薩摩の是枝柳右衛門が詰めていた。恐らくそれ以外にも多数の浪士が決起の報を待っていたのだろう。そこへ久留米の原道太と荒巻平太郎が、相次いで一挙失敗の知らせを持ち込んだ。
是枝柳右衛門は文化14年(1817)3月15日、薩摩国谷山郷松崎の商家に生まれている。名は貞至。天保2年(1831)15歳のとき大隅の串良や高山に移り住んでいる。家が貧しかったため昼間は魚や塩の行商をしながら父母を養い、学問に励んだ。嘉永元年(1848)32歳で谷山に帰り、塾を開き子弟の教育にあたる。しかし鹿児島城下の精忠組と交わる中で尊皇攘夷思想に共鳴し、嘉永4年(1851)谷山を出て国事に関わるようになる。美玉三平との親交が有り、家老の島津久徴の知遇を受ける。
安政7年(1860)大老井伊直弼の暗殺を思い立ち、江戸に向かうが、その途上で桜田門の変を知り、万延元年(1860)上京する。豊田小八郎著の「田中河内介」(河州公顕頌臥龍会 1941年刊)に掲載されている年譜によると、万延元年(1860)3月30日に是枝は京を訪れ、4月20日頃まで滞留していたようだ。この時、中山家諸太夫であった田中河内介に出会っているので、臥龍窟にも訪れていたと思われる。河内介を通じて中山忠能大納言への謁見を許され、
薩摩潟遠き堺にありとても
御先を人にゆづるべしやは
の決意の歌を献じる。
肥後藩の松村大成、岡藩の小河一敏そして精忠組の有馬新七、柴山愛次郎等と親交を深める。是枝は藩士ではなく町人であったため、薩摩藩の二重鎖国政策の中では珍しく交友関係を広げることができたのかもしれない。
文久元年(1861)3月に再び京に上り河内介を訪ねる。4月には退京するが、この時河内介から真木和泉宛の書簡を預かり、真木を訪ねる。そして文久2年(1862)2月18日単身決行の覚悟にて是枝が入京する。同15日には既に柴山愛次郎、橋口壮助が入京を果たし、島津久光東上の報せが齎される。そして河内介が発した檄に応えるように、3月中旬には岡藩、久留米藩が相次ぎ上京する。3月20日には河内介一行は京を去り、大阪に移る。土佐堀の薩摩藩大阪藩邸の二十八番長屋に入ったのは同月25日のことであった。そして27日には盟友の小河一行も二十八番長屋に入る。3月16日鹿児島を発した久光が、4月10日、島津久光が大阪に到着し、土佐堀の屋敷に入る。西郷隆盛の二度目の流竄が決まる。森山新蔵、村田新八とともに11日、船で薩摩に戻される。こうして浪士の暴発を防ぐ役割を果たすはずだった西郷は、大阪を離れることとなる。後に森山は、罪案に憤慨、子の新五左衛門を寺田屋事件で失った悲嘆により船中で自刃、村田は鬼界ヶ島へ、西郷は徳之島に遠島となっている。その後、徳之島から沖永良部島に移されていることからも、久光の西郷に対する怒りが知れる。
先ず4月12日平野国臣と伊牟田尚平は、京都挙兵計画から離脱する。江戸参勤の途上にあった福岡藩主・黒田斉溥は、島津久光東上を聞き、急遽伏見あたりで久光と会見するという話を黒田の支藩にあたる秋月の海賀宮門から聞かされたためである。元々斉溥は、薩摩から黒田藩に養子として入ったもので、実家に容易ならぬ難題が出来しないように、久光に対して入京することなく関東に赴くことを進言するつもりであった。久光の入京がなければ挙兵の機会を逸することとなるため、平野等は大蔵谷で斉溥の到着を待ったが、平野達の行動を察知した黒田藩は、藩主急病と称して参府を見合わせ、駕籠を巡らし帰国の途に着いた。そして伊牟田尚平は薩摩の捕吏に捕えられ鬼界ヶ島に流竄、平野国臣も帰国の上、獄舎に投ぜられた。
さらに清河八郎、藤本鉄石、安積五郎、飯居簡平、本間誠一郎は舟遊で狂態を晒し、幕吏に目を付けられる。田中河内介や小河一敏の老輩は清河達の不謹慎な行動に対し、橋口壮助と柴山愛次郎の薩摩藩士を通じて詰責し退邸を促している。自ら浪士の長を任じていた清河も、この場の雰囲気を察し本間精一郎に対する不興を言い訳にして、4月13日深夜に二十八番長屋を去っている。
離脱者が出たものの京都挙兵計画は進行してゆく。4月21日、兵庫警護の任にあった長州藩の浦靱負が入京する。表向きは挙兵計画より御所を守るためのものであったが、薩摩藩に加担している松下村塾派を後押しするためのものとなった。つまり長州は有志ではなく藩ぐるみでこの計画に載ることとなった。文久元年(1861)5月から始められた長井雅楽による公武合体周旋活動が行き詰まる中、大兵を率いた島津久光の東上は長州藩に大いなる刺激を与えた。この情勢の変化を知った長井は、4月14日に江戸に向かうため京を去っている。この機会に京阪での長州の藩論は松下村塾派の推進する反幕府・尊皇攘夷に固まる。
既に江戸より馳せ参じた橋口壮助と柴山愛次郎に加え、久光に率いられて上京した有馬新七や田中謙助は、田中河内介と小河一敏と計り、挙兵の期日を4月18日と定める。しかし京都薩摩藩留守居役の鵜木孫兵衛や久光東上のため江戸から上方に来た堀次郎の説得によって一旦は延期される。18日には奈良原喜左衛門と海江田武次が大阪に入り、有馬等の暴発を押し止めようとする。さらに20日には大久保一蔵(利通)も来阪し終日、有馬・田中・橋口・柴山そして田中河内介、小河一敏の諸士と議論している。もとより久光の公武合体策を手緩しとした有馬等は、自らが突出することで藩論を一変できると信じ、説得に応じることはなかった。
真木和泉も21日に着阪し、役者は揃い、幾度か延期が続いた京都挙兵計画が遂に実行に移されて行く。22日の夕に河内介は青水頼母を京に上らせ、相国寺に幽閉されている前青蓮院宮に予め計画を伝えようとした。すなわち関白九条尚忠及び京都所司代酒井忠義邸の襲撃した後、青蓮院宮を奉り入朝し大義を天下に掲げる。そして主上と親王が議を決し、之を島津氏に委ねることを最終的な目標としていた。
23日早朝大阪藩邸を脱した薩摩の有志達は4艘の舟に別れ伏見を目指し遡上し、七つ半時すなわち午後5時には伏見蓬莱橋の傍らにある寺田屋に入っている。それ以外の諸士も22日夜から23日朝にかけて長屋を出ていったため、六つ半(午前7時)には河内介・左馬介父子と岡藩の列が残るのみとなった。ここで浪士たちを監視する役にあった奈良原と海江田が大阪藩邸に到着する。河内介は医者に行くという口実でその場から脱したが、残った小河は挙兵計画の全貌を奈良原・海江田両士に打ち明け、左馬介を早駕籠で京に上らせている。そのため午後2時頃には、左馬介京に居たことが分かる。 千葉郁太郎は中村主計と同舟、是枝柳右衛門は別舟で、いずれも同日早朝には八軒屋を船出した。柳右衛門は伏見で昼食を済ませた後、駕籠に乗り京に入る。まず綾小路東洞院の西村敬蔵方に入り、手当てを受けている。3月に入った頃より脚に附骨疽を病み、治療に努めたが一向に治らず、大小便にも難儀する状況であった。歩行が甚だ困難であったため、河内介、小河そして真木等からも挙兵への参加を見合わせるように勧められた。しかし柳右衛門は辞退を承知せず、臥龍窟に入り京での指揮を担うこととなった。夜になるのを待って、西村邸で討入りの支度にかかった。竹杖にすがって川端通丸太町上ルの臥龍窟に辿りついた。その時、臥龍窟には秋月の海賀宮門、吉田益太郎、吉村寅太郎を始め、雲州や長州の諸浪士が多数集まり、訣別の宴をひろげていた。
その宴半ばに久留米の原道太が伏見から飛んできて、一挙の失敗を告げている。柳右衛門の記すところによると、翌24日河内介は錦にあった京都薩摩藩邸より書を寄せて、左馬介と郁太郎を錦邸に呼び寄せている。また真木の伝えによると、海賀、青水等は久光が志士の義挙に同意したと聞いて錦邸に入ったとも謂われている。また小河の記すところによると、久坂玄瑞や堀眞五郎等は臥龍窟に赴き、左馬介、郁太郎、柳右衛門等と一挙の報を待っていたところ、四更頃すなわち午前2時頃に、久留米の原道太と荒巻平太郎が一挙失敗の知らせを持ち込んだとしている。そして久留米の宮地誼蔵と千葉郁太郎は、原と荒巻の言うがままに錦邸に入ったとしている。恐らく大混乱の中で諸説に割れたのであろう。
是枝柳右衛門は各々が臥龍窟を去って行く中、後始末を行うと共に、後計を図っていた。そして4月26日に、僕の善助と婢の阿元に28日を以って臥龍窟を引き上げるように命じ、大久保宛に書簡を送っている。これが柳右衛門逮捕につながってしまった。藩からの迎えの駕籠に入れられ、伏見の薩摩藩邸を経て大阪藩邸の牢屋に繋がれることとなる。柳右衛門は比較的長い期間、大阪で過したようで、黒木弥千代著の「幕末志士 是枝柳右衛門」(是枝翁顕彰会 1963年刊)によると6月の下旬から7月の上旬と推測している。この時、既に田中河内介父子を始めとする京都挙兵計画に参画した人々はこの世になかった。その後、屋久島に遠島の処せられている。島での生活振りを著した記録がないが、幽閉の身で島の子弟を教養していたことは島民が語り継いでいる。
元治元年(1864)江戸より鹿児島に戻った小松帯刀は、柳右衛門が配所で幽閉されていることを知らされ、赦免の令を出している。しかし柳右衛門には国事に再び関わることも、そして鹿児島に戻るだけの体力も残っていなかった。同地で保養したものの再起すること適わず、元治元年(1864)10月13日に没す。享年48歳。想えば田中河内介と同じ年齢であった。
和歌に長じ数百首を詠み、「海防急務論」「異国人に対する意見書」「羈中浮草」「志天之日記」などを残す。墓は由緒墓として谷山万田宇都にあり、墓碑に「勤王堂赤心報国大信士」と辞世の歌
よしさらば風にまかせむ桜花
わがみ世にふる色をつくして
が刻されている。
なお、田中河内介の寓居の北側、荒神橋の東詰の東南アジア研究センター、南のアフリカ地域研究センター、東の京大医学部付属病院宿舎、薬学部のあたりは、文久4年(1864)2月に会津藩の調練場になり、会津藩兵の洋式調練が行われた。しかし、それは田中河内介や是枝柳右衛門の死後の歴史である。
戊辰戦勃発後は軍務官の調練場となり慶応4年(1868)4月以降、官軍の東征に従うため在京40藩の諸藩兵が洋式の調練を行っている。明治5年(1872)牧畜場となり、明治13年(1880)には民間に払い下げられている。後に京都織物と京都大学病院となる。
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