文書と写真・地図による「記憶」の再現

京都御所 その3

京都御所(きょうとごしょ)その3 2010年1月17日訪問

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京都御所 建礼門

 本日は京都の中心である京都御所の周辺を歩くこととする。今回の訪問予定に京都御所や仙洞御所の拝観を含んでいないので、なるべく多くの時間をかけて京都御苑内を見ていきたい。特に幕末の堺町門の変すなわち八月十八日の政変と甲子戦争(禁門の変)の現場でもあるので、文久3年(1863)から元治元年(1864)にかけての歴史の転換点を頭に入れて歩こうと思う。

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 この日の最初に、平安京の内裏から現在の京都御所までの歴史的な推移について記してみる。
 桓武天皇が平安京に入京したのは延暦13年(794)10月22日のことであった。平安京の造営はまず大内裏から始められ、続いて市街の造営を進めたと考えられている。都の中央を南北に貫く朱雀大路の北には皇居と官庁街を含む大内裏が設けられ、その中央には大極殿が造営された。大極殿の後方東側には天皇の住まいとなる内裏が設けられている。この平安京の大内裏の構造と位置については京都市埋蔵文化財研究所の公式HPに掲載されている平安宮散策マップを参照すると分かり易い。現在の下立売通千本東入の上京区田中町あたりがかつての内裏であったことが分かる。内裏は天徳4年(960)9月23日夜に炎上しているが、これ以降も罹災する度に大内裏の官衙、京中の後院、公家邸宅を仮御所として使用している。罹災と内裏再建を繰り返す中で、公家邸宅の仮御所が内裏に準ずるものとして里内裏が生まれるようになった。里内裏の里は平安京の里坊のことであり、京中にある内裏という意味であった。

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京都御所 今出川御門より御苑に入る
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京都御所 左:桂宮邸 中央:朔平門

 一方、内裏の再建は安貞元年(1227)4月22日の類焼以降は行われることがついに無くなった。
そのため、かつての内裏跡は興廃し内野と呼ばれるようになる。このようにして鎌倉時代中期には里内裏が内裏そのものとなってしまう。当時の里内裏は閑院にあった。平安京二条大路の南、西洞院の西にあり、現在の中京区押小路通小川西北角に閑院内裏址の碑が建つ。 もともと藤原冬嗣によって創建された邸で、庭内に泉が湧き、その閑雅な風情から閑院と名付けたと考えられている。平安時代前半は藤原氏の邸宅として用いられ、後半は白河上皇・堀河天皇・高倉天皇・土御門天皇等の里内裏となった。鎌倉時代初期まで存続したが、正元元年(1259)5月22日の火災後は再建されることはなかった。そのため鎌倉時代後期には再び各所の里内裏を使用することとなった。冷泉富小路殿、五条大宮殿、二条殿、大炊御門殿などが用いられている。フィールドミュージアム京都には下記の里内裏の石碑が掲載されている。

 元弘元年(1331)9月20日に行われた持明院統の光厳天皇の践祚は、土御門東洞院殿を里内裏に充てられている。平安京北辺四坊二町にあった里内裏で、平安末期には藤原邦綱の土御門東洞院邸があったが、正親町南・東洞院東・土御門北・高倉西の1町四方の敷地に過ぎなかった。この地は、丁度現在の京都御所の南西角にあたり、紫宸殿や清涼殿のあたりが旧地であったと考えられている。なお元弘元年は後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕の運動を開始する元弘の乱が始まった年でもある。元弘3年(1333)鎌倉幕府が滅亡し、京に戻った大覚寺統の後醍醐天皇は二条富小路内裏に入っている。後醍醐天皇は内裏の再造営を計画したが、建武3年(1336)足利尊氏の離反により建武の親政は瓦解する。この時の戦火により二条富小路内裏は焼失している。
 明徳3年(1392)閏10月5日に南朝の後亀山天皇により三種の神器が土御門殿に移され、南北朝が統一される。これにより内裏は土御門東洞院殿に固定されるはずであった。しかし応永8年(1401)2月29日の火災で内裏は焼失してしまう。足利幕府第3代将軍の足利義満は、土御門東洞院殿が狭小であり人臣の家と大差がないことより、後白河法皇の持仏堂で土御門東洞院殿内の南側にあった長講堂を土御門油小路に移転させて再建している。また嘉吉3年(1443)9月23日、後南朝が内裏に侵入し放火する禁闕の変が起こり、紫宸殿、清涼殿、常御所、小御所、泉殿、内侍所などを焼いている。そのため後花園天皇は室町第で一年余りを過ごすこととなった。寛正6年(1465)後花園天皇より譲位された後土御門天皇は、応仁の乱を避け足利義政の室町第に10年の間避難生活を強いられている。乱の終結後の文明11年(1479)12月、兵火による焼失を免れた土御門内裏に還幸しているが、戦国時代に入ると内裏の荒廃はさらに進んで行く。

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京都御所 朔平門
京都御所の北側の門

 天文12年(1543)2月14日、織田信秀は後奈良天皇の要請をうけて内裏修理料4000貫を献上している。これが縁となり永禄11年(1568)11月将軍足利義昭を奉じて入京した信長は、村井貞勝と朝山日乗を奉行として内裏修造に着手している。永禄13年(1570)2月2日より作事が始められ、元亀2年(1571)に一応の完成をみた。この時の内裏の規模は室町時代と同じものであった。
 豊臣秀吉も天下統一の後、信長の前例に従い前田玄以を奉行に据え内裏の修造を手掛けている。天正17年(1589)正月18日に修理計画が始まり、2か月後から工事が開始している。同年9月にはほぼ完成したが、清涼殿のみは天正19年(1591)3月に竣工している。ただし修造といいながらほとんど全ての殿舎を改築しているので、信長を凌ごうとする秀吉の意図が強く感じられる。秀吉は内裏だけではなく、聚楽第を中心とした市街地の周囲に御土居を巡らし、寺町通を造るなど京都の都市改造に着手している。寺町通に寺院を集めたように、禁裏周辺に公家屋敷を集住させている。このような傾向は既に室町時代頃から始まっていたが、秀吉はさらに推し進めている。そして次の徳川幕府によって公家統制策の一環として強化されることとなる。

 内裏とは関係ないが、秀吉は内裏の近くに聚楽第と京都新城を建設している。このことについては高台寺 その3から、その4にかけて書いているので、ここでは簡単な説明にとどめる。聚楽第は関白になった豊臣秀吉の政庁兼邸宅として天正14年(1586)に着工、翌天正15年(1587)には完成している。秀吉は九州征伐を終え、大坂よりここに移り政務をみている。天正19年(1591)に秀吉が豊臣氏の氏長者・家督および関白職を甥の豊臣秀次に譲ると聚楽第もまた秀次の邸宅となる。 聚楽第を譲った後の秀吉は、文禄元年(1592)より伏見城の普請を開始する。しかし文禄4年(1595)秀次を高野山に追放し切腹を命じている。翌月には秀次の居城であった聚楽第を徹底的に破却している。聚楽第を失った秀吉は、御所のある京都を自らの城下町とするため、聚楽第に替わるべく新たな城として京都新城の建設を計画する。内藤昌氏の「豊臣家京都新城-武家地の建築 近世都市屏風の建築的研究-洛中洛外図・その6-」(昭和47年(1972)日本建築学会大会学術講演梗概集)によると慶長2年(1597)正月より京都新城の縄張りを始めている。またこの時期は、前年の慶長元年(1596)7月12日に発生した慶長伏見地震により倒壊した指月山伏見城の再建中でもあった。京都新城は現在の仙洞御所の「アコゼカ池」を取り込む南北6町東西3町の広大な敷地に建設され、慶長2年(1597)9月26日に秀吉と秀頼が新城に移徒している。聚楽第に比べても規模の大きな京都新城を実質5ヶ月の短工期で竣工させたのは、9月28日の秀頼の参内に合わせて行なわれたと考えられている。なお、この日秀頼は禁裏において元服、従四位下に叙され左近衛権少将となるが、翌日には左近衛権中将に昇進している。京都新城は天正17年(1589)に修造した内裏の南東に位置するが、規模としては内裏の6倍の面積を有し遥かに上回る規模であった。

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京都御所 御所北西隅 皇后門
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京都御所 西面

 この京都新城が何時まで存在したかが問題となっている。慶長3年(1598)豊臣秀吉が亡くなり、翌慶長4年(1599)9月26日、高台院は大坂城西の丸を徳川家康に明け渡し、京都新城へ移っている。同日の「言經卿記」には

大阪ヨリ政所、禁中辰巳角、故太閤殿中へ今日御上洛也

と記されている。
 内藤昌氏は「豊臣家京都新城-武家地の建築 近世都市屏風の建築的研究-洛中洛外図・その6-」(昭和47年(1972)日本建築学会大会学術講演梗概集)の論文中で、関ケ原の戦いの前後に京都新城の石垣、塀、門などが撤去されたことを指摘している。「大日本史料」慶長5年(1600)8月29日の綱文に「禁垣東南豊臣氏第アリ是日其南西二門及ヒ塀垣ヲ毀ツ」とあり、9月13日にも南門が壊されている記述が「言経卿記」に残されている。
 これは軍事拠点として京都新城が使用される可能性を取り除くと共に、そのような疑いを掛けられることを防ぐためであったとも考えられる。恐らくそれでも危険を回避できないと察した高台院は9月17日に京都新城を出て、後陽成天皇の母である勧修寺晴子の屋敷に居を移している。時の天皇の生母の屋敷までは手を出せないと考えての行動である。そして再び京都新城に戻ったのは22日の暁の頃であった(「言経卿記」9月19日の条)。
 豊臣家の京都新城は武装解除を行なうことにより、関ケ原の戦い後も高台院邸として維持されていたと内藤氏は考えている。そして慶長10年代(1605~14)に行なわれた公家町の改変及び整備においても、高台院邸が存続していることを確認している。またこの時期に徳川家康を自らの館に招き饗応を行ったという記録も残されている。
 同じことは「カラーブックス606 写真太閤記」(保育社 1983年刊)に掲載されている「お祢の生涯」の中でも確認できる。内田九州男氏は高台院の京屋敷の位置を具体的に地図の上で推測している。元和年間(1615~24)から寛永年間(1624~45)にかけて描かれたとされている「京都地図小屏風」の中に御土居に接し、荒神口北側に「百万へん 知恩寺」、その西に百万遍前町を挟んで「木下宮中」とある。この木下宮中の西は道一つを隔てて、その北には禁中が描かれている。木下の南には「政所様」とある。この政所様の西には頂妙寺が続き、さらに西へ二筋目が三本木町となっている。すなわち木下宮中と政所様と記された屋敷は、禁中の東南に位置していたことが分かる。ちなみに木下宮中とは、宮内少輔と称した木下利房のことと思われる。利房は大阪城の戦いの後にその功績が認められ、備中足守25000石の大名に返り咲いている。
 また内藤氏は上記の論文中で、木下宮中と高台院邸があった地の北側の町家に着目している。奥行15間町家が三段連なる町並みは、明らかに周囲の町割りとは異なっている。現在は京都迎賓館が建設されているが、幕末までは三条実美ら公家屋敷となっていた場所である。内藤氏は慶長5年(1600)8月に行われた京都新城の一部破却した石垣や塀と外辺広場であった可能性をここに見ている。さらに小堀遠州が後水尾上皇のために作庭した仙洞御所の直線を多用した異形の庭も、もとの京都新城の影響の表れかもしれない。

 高台院邸が後水尾上皇の仙洞御所に改められるのは、高台院が死去した寛永元年(1624)より後の寛永4年(1627)の事であった。

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京都御所 今出川御門

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