東福寺 その6
臨済宗東福寺派大本山 東福寺 (とうふくじ)その6 2009/11/28訪問
2009年の秋も東福寺から始まる。東京駅を6:00に出る新幹線に乗車すると京都駅に8:11に到着する。今回はJR奈良線に乗り換え、次の東福寺駅で下車する。ここから徒歩で東福寺を目指す。前回の訪問が2008年11月22日であったのに対して、暦の上では1週間程度遅い。紅葉も見頃を迎え、人出も昨年以上のような気がする。
東福寺については、最初の訪問の時に創設の歴史に少し触れている。それ以来、東福寺 その2で、法性寺から東福寺への移行について、東福寺 その3で、盛時の法性寺の規模とその推定される位置について記してみた。また東福寺 その4で、東福寺の開山となる聖一国師が住した普門寺と東福寺の北側にあった三聖寺、後の時代に移転してきた万寿寺の歴史について考えてみた。東福寺 その5では、五社成就宮の遷宮と東福寺境内に遺された戊辰戦争に関する碑ついて触れている。どうも聖一国師すなわち円爾弁円と東福寺の創建に関することについて、あまり触れていなかったことに気がつく。今回は東福寺創設後の歴史と塔頭について少し書いてみたい。
摂政九条道家が、奈良における最大の寺院である東大寺と最も隆盛を極めた寺院の興福寺になぞらえ、京都最大の大伽藍の造営に着手したのが、嘉禎2年(1236)であった。この後19年の年月を費やし建長7年(1255)に完成に至った。寺号の東福寺は、東大寺と興福寺から一字づつ取って名づけられている。なお山号の慧日山は、東福寺の寺地の南東にある東山36峰の恵日山からきている。
東福寺建立を思い立った嘉禎2年(1236)とは、道家にとって権勢の全盛期へと上り詰める時期ともいえる。まず承久3年(1221)の承久の乱の戦後処理により、朝廷では幕府との関係が深かった西園寺公経が最大実力者として君臨していた。道家の正室である綸子は西園寺公経の娘であるため、道家にとって時の権力者である公経は岳父にあたる。嘉禄元年(1225)の北条政子が死去し、嘉禄2年(1226)には、道家の三男の頼経が将軍宣下により鎌倉幕府第4代将軍に就任している。さらに道家自身も安貞2年(1228)近衛家実の後を受けて関白に任命される。そして翌年の安貞3年(1229)には長女の藻壁門院を後堀河天皇の女御として入内させている。
寛喜3年(1231)長男の九条教実に関白職を譲るが、なおも朝廷の最大実力者として君臨し、従一位にまで栄進する。さらに藻壁門院に、後の四条天皇のとなる秀仁親王が生まれ、秀仁親王が貞永元年(1232)に後堀河天皇の譲位を受けて践祚する。これにより道家は外祖父として実権を完全に掌握し、長男の教実は摂政となる。文暦2年(1235)教実は25歳の若さで早世する。再び道家が摂政となり、嘉禎4年(1238)には出家して法名を行恵と改めるが、以後は禅閤として君臨する。このようにして九条家の権勢はついに全盛期を迎える。
しかし仁治3年(1242)四条天皇が12歳の若さで夭折すると、道家の権勢にも暗雲が漂うようになる。時の天皇と外戚関係を失ったため、道家は次の天皇として順徳天皇の皇子で縁戚に当たる岩倉宮忠成王を推薦する。かつて承久の乱に積極的に加担した順徳天皇の子孫から天皇を擁立することに、執権北条泰時及び鎌倉幕府は強硬に反対したため、これは実現せずして終わる。そして承久の乱には関与しなかった土御門天皇の皇子の邦仁王が、四条天皇の後を受けて後嵯峨天皇となる。この後の両統迭立の歴史は、嵯峨南陵の項を参照して下さい。
後嵯峨天皇の下で西園寺公経と土御門定通が政治の実権を握ると、天皇家との縁戚関係を失った道家の実力は衰退していく。北条氏との関係に配慮してきた西園寺公経が寛元2年(1244)に死去すると、道家は公経の遺言と称して関東申次の職を継承し、幕政に介入を試みるようになってきた。さらに関東申次を3人制として実経と近衛兼経を任命するなどの独断専行も増えてくる。そして寛元4年(1246)寵愛する四男の一条実経を関白として擁立する。翌日に後嵯峨天皇が譲位したため後深草天皇の摂政となる。このような振る舞いによって、道家は次第に朝廷内における信望を失っていったとされている。
また関東においても、道家の三男で鎌倉幕府第4代将軍藤原頼経と執権北条経時との関係が悪化していく。そして寛元2年(1244)頼経は経時により、将軍職を嫡男の頼嗣に譲らされることになる。翌寛元3年(1245)鎌倉久遠寿量院で出家したものの、その後もなお鎌倉に留まり、大殿と称されて、なおも幕府内に勢力を持ち続ける。しかし北条氏得宗家に反発する北条一族や御家人達の支持を集めた事から、幕府側からも危険視されるようになっていく。
北条家一族における得宗家に対する反目は、第3代執権北条泰時が仁治3年(1242)に死亡した際に表面化している。泰時の嫡子時氏と次子時実はすでに死去していたため、執権になっていない時氏の子の経時が執権職を嗣ぐこととなった。庶流が多く分立しつつあった北条氏一族において、この継承に対して不満を持つ者も少なくなかった。もともと側室の長子であった泰時に対し正室の次弟である北条朝時を祖とする名越家は得宗家に対抗心が強く、名越光時らは不満を募らせていた。
そして寛元4年(1246)3月、病を得た北条経時は、弟の時頼に執権職を譲り、閏4月に23歳の若さで死亡する。名越光時は経時の死を好機と見て、出家した藤原頼経や側近の後藤基綱、千葉秀胤、三善康持ら反執権派御家人と連携し、執権北条時頼打倒を画策する。しかし時頼方が機先を制したため、光時らは陰謀の発覚を悟り、弟時幸とともに出家し降伏している。この後、、名越時幸は自害、名越光時も所領を没収され伊豆国へ配流、評定衆の後藤基綱、千葉秀胤、三善康持らも罷免されている。そして同年7月に頼経も鎌倉を追放され、京都六波羅の若松殿に移った。鎌倉幕府内における時頼の権力が確立された。この一連の騒動を寛元の乱あるいは宮騒動とよぶ。
この鎌倉での騒動に加え、道家は後嵯峨院と後深草天皇を排して雅成親王を皇位に就けようとしていたとする風説が流される。雅成親王は後鳥羽天皇の皇子で、承久の乱後但馬に流されていたが、延応元年(1239)の後鳥羽上皇の死後に、幕府より赦免が出され、寛元2年(1244)には生母の修明門院と一緒に京都で暮らしていたようだ。これを道家が支援していたとされている。
これらにより、道家は関東申次の職を、子の一条実経も摂政を罷免させられている。これにより道家の政治的立場が完全に失われたばかりか、摂関家としての九条家の衰退にもつながって行った。幕府の意向により、道家の関東申次は西園寺公経の子の実氏に渡され、摂政も近衛兼経に代わっている。そして院評定衆が後嵯峨院のもとに設置されている。鎌倉幕府の評定衆に倣って西園寺実氏ら5人の評定衆が任命されている。訴訟や政治問題などの処理が行われるとともに、院評定が院政の中枢機関として活動するようになる。また院評定衆の補任は幕府の専断となり、院からの高い独立性も保障されていた。このような事件がもととなり、後嵯峨院政は完全に鎌倉幕府の管理下に置かれ、治天の君の任命も幕府に委ねる事となり、両統迭立の混乱から南北朝を引き起こす遠因を作り出すこととなった。
建長3年(1251)に孫で鎌倉幕府第5代将軍藤原頼嗣と足利氏を中心とした幕府転覆計画が発覚し、それに道家が関係しているという嫌疑が再びかかる。幕府は後嵯峨上皇の皇子宗尊親王を第6代将軍とすることに決定。建長4年(1252)頼嗣は14歳で将軍職を解任され、母大宮殿とともに京へ追放されている。これにより3代続いた摂家将軍は終わり、宮将軍が始まる。道家はその中で翌年の建長4年(1252)に死去する。享年60。
寛元の乱により失脚した寛元4年(1246)から晩年の6年間は鎌倉幕府側に謀議が露見し、時頼からの追及を受け、憔悴しきっていたとされている。
東福寺の伽藍整備に19年という長い時間を要したことも、この九条道家の後半生の暗転に影響されていたと思われる。
「東福寺 その6」 の地図
東福寺 その6 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | ▼ 東福寺 北門 | 34.9798 | 135.7709 |
02 | 東福寺 中門 | 34.9765 | 135.7711 |
03 | 東福寺 南門 | 34.9753 | 135.7711 |
04 | ▼ 東福寺 月下門 | 34.9776 | 135.773 |
05 | ▼ 東福寺 日下門 | 34.9765 | 135.7728 |
06 | ▼ 東福寺 六波羅門 | 34.9753 | 135.7732 |
07 | ▼ 東福寺 勅使門 | 34.9752 | 135.7734 |
08 | ▼ 東福寺 臥雲橋 | 34.9774 | 135.7728 |
09 | ▼ 東福寺 通天橋 | 34.9772 | 135.7736 |
10 | ▼ 東福寺 偃月橋 | 34.9769 | 135.7747 |
11 | ▼ 東福寺 三門 | 34.9757 | 135.7737 |
12 | ▼ 東福寺 本堂 | 34.9763 | 135.7737 |
13 | ▼ 東福寺 方丈 | 34.977 | 135.774 |
14 | ▼ 東福寺 庫裏 | 34.9767 | 135.7744 |
15 | ▼ 東福寺 東司 | 34.9756 | 135.7729 |
16 | ▼ 東福寺 経蔵 | 34.9767 | 135.7732 |
17 | ▼ 東福寺 禅堂 | 34.9761 | 135.7731 |
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