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東福寺 塔頭 その3 



東福寺 塔頭 (とうふくじ たっちゅう)その3  2009/11/28訪問

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東福寺 退耕庵 山門内

 天龍寺、妙心寺(1)、大徳寺相国寺そして南禅寺などともに東福寺の塔頭の歴史については、なかなか調べることが困難である。「古寺巡礼 京都 18 東福寺」(淡交社 1977年刊)には、東福寺の塔頭について比較的詳細な説明が記されている。これに従って、東福寺 塔頭東福寺 塔頭 その2を補っておく。
■01 万寿寺

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東福寺 万寿寺 2008年12月22日撮影

 万寿寺は九条通を隔て、東福寺の境内の最北端に位置する。「京城山万寿禅寺記」によれば、21歳の若さで亡くなった皇女郁芳門院内親王の菩提を弔うため、白河上皇が永長元年(1096)六条内裏の中に建立された六条御堂がはじまりとされている。寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会では、六条内裏を以下のように説明している。
     拾芥抄に云、北は六条坊門、南は六条通、西は東洞院、東は高倉なり。白河院承保二年新宮を造給ふ、六条内裏これなり、又六条院ともいふ。皇女郁芳門院も住せ給ふ所なり、皇女薨じ給ふ後寺となして六条御堂と号す。

 六条坊門小路は現在の五条通となるため、これに従うと六条内裏は現在の下京区塗師屋町あたりとなる。また財団法人京都市埋蔵文化財研究所による平安京左京六条四坊三町(旧万寿禅寺)跡現地説明会が2007年に行なわれている。この資料に添付された調査位置図によって六条内裏の位置が分かる。 なお万寿寺の名が通りに残る万寿寺通は、「京都の地名由来辞典」(東京堂出版 2005年刊)によると「京町鑑」を出典として、万寿寺通と柳馬場通が交わる西側に万寿寺があったとしている。

 正嘉年間(1257~9)に十地上人覚空とその弟子慈一房湛照(宝覚禅師)により、浄土教を修する寺となったが、東福寺の聖一国師と親しくその教えを受けるに及び禅宗となしている。弘長元年(1261)に万寿禅寺と改め、東福寺第2世の東山湛照を開山に迎えて開堂の儀を行なったと伝わる。亀山上皇は、嘉元3年(1305)円爾弁円が開堂した博多の崇福寺より、南浦紹明を京に招き万寿寺の住持としている。これらの例を除くと万寿寺の住持は十地上人の門弟たちによって占められている。
 室町時代 当初は十刹の第4位であったが、後に五山に昇格し、更に京都五山の第5位に数えられ、足利家の庇護も厚く寺運も興隆して行った。往時の規模については明らかではないが、虎関師錬の絲桜を詠んだ詩文から境内に多くの桜花のあったことが知られている。

 永享6年(1434)の市中大火に罹災し、寺運は次第に衰微していった。天正年間(1573~92)に、万寿寺の開山である東山湛照の退隠所として創建された三聖寺の地に移転する。先の都林泉名勝図会の続きとして以下のように記されている。

 弘長年中、聖一国師の徒弟湛昭、六条ノ御堂を革ため て禅刹となす、万寿寺これなり。其後万寿寺焼失しぬれば、東福寺の塔頭三聖寺の内に遷す

 三聖寺も北条時宗の祈願所となった名刹であり、鎌倉時代には禅宗式の大伽藍を持つ有力寺院であった。元中元年(1384)出火により諸堂を焼失するが、第3代将軍足利義満により再建されている。江戸時代の頃は万寿寺と三聖寺の二寺が両立し寺観を誇っていたが、明治6年(1873)に三聖寺が廃寺となり、万寿寺のみが残った。そして明治19年(1886)には万寿寺が東福寺の塔頭となり、愛染堂は東福寺本坊境内に、仁王門は東福寺北門を入った北側に移築された。いずれも三聖寺の建物であった。本尊阿弥陀坐像やニ天門安置の金剛力士ニ体は京都国立博物館に寄託されている。昭和10年(1935)には京都市電と東山通、九条通の開通により境内が分断され、万寿寺は東福寺の飛び地のような位置に置かれることとなった。

■02 勝林寺

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東福寺 勝林寺 2008年12月22日撮影

 天文19年(1550)東福寺205世高岳令松を開基とする。東福寺の毘沙門天とよばれ、本堂には藤原時代の毘沙門天立像を安置する。像高160センチ、左手に宝塔、右手に三叉戟を持った忿怒相の仏像は、九条道家の光明峰寺建立以前の作とされている。その後、久しく東福寺仏殿の天井内にひそかに安置されていたが、江戸時代に海蔵院の独秀令岱和尚によって発見され、勝林院の本尊として祀られた。他に大日如来坐像(鎌倉)、聖観音立像(鎌倉)、不動明王立像(鎌倉)等があり、いずれも東福寺建立以前、この付近にあった廃寺の遺仏を移したものと伝える。

■03 盛光院

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東福寺 盛光院 2008年12月22日撮影

 東福寺境内北端に位置する。文永年中(1264~75)聖一国師の法弟直翁智侃が開創に係わる。智侃は足利宗家第4代当主足利泰氏の子として寛元3年(1245)に生まれている。臨済、顕密二教を学び、建長寺の蘭渓道隆に師事している。その後思い立ったように宋に渡り、諸老に謁し引証を求める。帰国後東福寺の円爾弁円の法を嗣ぎ、博多の承天寺の住持を経て、徳治元年(1306)豊後に万寿寺の中興開山となる。その後、東福寺に戻り第10世となる。元亨2年(1322)寂す。78歳。諡号は仏印禅師。
 盛光院はもともと東福寺境内成就宮の北にあり、現在も盛光院山の名が残る。

■04 海蔵院

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東福寺 海蔵院 2008年12月22日撮影
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東福寺 海蔵院 庭園 2008年12月22日撮影

 鎌倉末期の仏教史家であり、また五山文学の先駆者として知られる東福寺第15世虎関師錬の退隠所。また昭和27年(1952)より社会事業として養護老人ホーム洛東園を開いている。
 虎関師錬は弘安元年(1278)藤原左金吾校尉の子として京に生まれている。弘安8年(1285)8歳で東福寺第2世東山湛照に師事して参禅する。同10年(1287)比叡山にて受戒。正応4年(1291)湛照の入寂後、南禅寺の規庵祖円や円覚寺の桃渓徳悟らについて修行する。この間、菅原在輔や六条有房から儒学を学び、該博な知識を得る。その後、円覚寺の無為昭元や建長寺の約翁徳倹の会下に入る一方、仁和寺醍醐寺で密教も学んでいる。徳治3年(1307)建長寺の渡来僧一山一寧を訪れた時、本朝の名僧の事績について尋ねられ、満足に応えられなかったことを契機として、元亨2年(1322)に白河済北庵で元亨釈書を著し後醍醐天皇に上呈している。元亨釈書は中国の高僧伝と同じく30巻から成り、伝、資治表、志の三部編成となっている。建武5年(1338)東福寺住持を退き暦応2年(1339)南禅寺住持となったが、同4年(1341)に辞して東福寺海蔵院に退く。康永元年(1342)後村上天皇から国師号を賜る。貞和2年(1346)近衛基嗣の寄進により城北柏野に楞伽寺を興すが、同年に海蔵院にて寂す。享年69。

 近世初頭は近衛家の香華院となり、近衛前久(龍山公)・信尹(三貘院)の墓もあった。後水尾天皇第二皇女昭子内親王が近衛尚嗣の室となり、薨後に海蔵院に葬られた。そのため墓は宮内庁の管理するところとなり、近衛家一族の墓は大徳寺総見院の西側の近衛家廟所へ移された。この時に虎関師錬の墓も整理されたと推測される。
■05 霊源院

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東福寺 霊源院 2008年12月22日撮影

 観応年間(1350~51)在先希譲が、師であり後醍醐天皇の皇子龍泉令淬を開山に請うて開創する。
天正15年(1582年)本能寺の変において、三河の武将水野忠重を追手から匿ったことより、水野家とのは親密な関係が築かれる。豊臣秀吉主催の北野花見の際には、水野家の茶屋に屏風を貸すなどの便宜を図る一方、水野家も厚く恩義を感じ、忠重以降断絶となる5代の間、代々の分骨墓を霊源院に建立し、霊源院への報恩を家訓とし、寄進を続ける。

■06 龍眠庵

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東福寺 龍眠庵 2008年12月22日撮影

 正平10年(1355)檀渓心涼の開創に係わる。心涼は因幡の人で、虎関師錬の室に参禅する。伊勢に正法寺を創建した後、東福寺に帰山し、龍眠庵に隠退する。応安7年(1374)寂。

■07 退耕庵

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東福寺 退耕庵

 東福寺第43世性海霊見が貞和2年(1346)に創建した塔頭。性海霊見は信濃の人。興国4年(1343)元に渡り、10年余り研学する。帰朝後、虎関師錬に師事し、その法を嗣ぐ。第2代将軍足利義詮に招かれて三聖寺の住持となり、ついで東福寺、天龍寺南禅寺などの住持を務める。第3代将軍足利義満や第4代将軍足利義持の帰依を受ける。晩年に退耕庵で隠退する。応永3年(1396)寂。俗姓は橘。号は不還子、昨夢など。著作に「性海霊見遺稿」「石屏拾遺」。 旧地は現在より東へ200メートル離れた海蔵院の東にあったが、後世に現在の地に移ったとされている。応仁の乱に罹災し、慶長4年(1599)11世住持安国寺恵瓊によって再興される。
 現在の書院は旧本堂といわれ、堂内の一部を利用してつくられた四畳半台目の茶室昨夢軒は、豊臣秀吉の没後、石田三成や小早川秀秋・宇喜田秀家および恵瓊が会合し、関ケ原の戦いの謀議をおこなったと伝わる。
茶室に面した南庭は苔地に覆われた枯山水庭園、北庭は池泉観賞式の庭園となっている。慶長の再興の時に作庭されたと推測される。長く荒廃してきた庭を昭和40年(1965)に修復している。
 山門内右手にある地蔵堂には小町玉章地蔵と称する像高2メートルに及ぶ地蔵菩薩坐像を安置する。もとは東山渋谷越にあった小町寺の旧像であったが、明治8年(1875)に退耕庵に移されている。
 また鳥羽伏見の戦では長州藩士の屯所になったことより、戦死者のうち48名が退耕庵に葬られた。

■08 同聚院

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東福寺 同聚院
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東福寺 同聚院 不動明王堂

 室町時代中期の文安年間(1444~48)文渓元作がその師で東福寺第129世琴江令薫を推して開山として創建した塔頭。定朝の父・康尚の作といわれる本尊・不動明王坐像は、寛弘3年(1006)藤原道長が旧法性寺に建立した五大堂の中尊と伝わる。他の四明王は散逸したにも拘らず、本尊のみが残ったことより、火除けの像として古来より崇敬されている。 十万不動と称し、毎年2月2日に「十万」(十の下に万を書いた1字の漢字)の字を書いた護符が授与される。「十万」とは「土の力」という意味より土地を守護すると考えられてきた。また一説には常に十万の眷属をした従えたことより十と万を一字にしたものとも言われている。

■09 霊雲院(

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東福寺 霊雲院
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東福寺 霊雲院 九山八海の庭

 霊雲院は明徳元年(1390)に、天龍寺第64世、南禅寺第96世、東福寺第80世に歴任した岐陽方秀が開いた隠退所で当初は不二庵とよばれていた。方秀は広く経書に通じ、第4代将軍足利義持の帰依を受けている。 霊雲院第7世湘雪守沅は肥後熊本の人で、時の藩主細川忠利(細川ガラシャの子)と親交があった。湘雪が霊雲院へ移られる時に忠利は500石の禄を送ろうとしたが、「出家の後、禄の貴きは参禅の邪気なり。庭上の貴石を賜れば寺宝とすべし」と辞退した。そこで細川家では、遺愛石と銘じた石を須弥台と石船とともに寄贈した。 古来無双の名石とたたえられ、かつては林羅山や石川丈山・冷泉為景・芝山持豊等、多くの文人・歌人が詠じ、歌を賦し、あるいは文を寄せた。書院庭園は長く荒廃してきたが、昭和45年(1970)重森三玲によって九山八海の庭として復元されている。また書院の西から茶室観月亭に至る庭も重森三玲の作庭で臥雲の庭とよばれている。寺号霊雲を主題にした創造的な枯山水庭園である。渓谷に流れる川の流れと、山腹に湧く雲を白砂や鞍馬砂で表現している。
 西郷隆盛と清水寺の僧月照が密議を交わした寺、日露戦争中のロシア人捕虜収容所という歴史の側面も持っている。

■10 一華院

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東福寺 一華院

 東漸が開創に係わるが、開基は明らかになっていない。中世に廃絶していた期間が長く、文化5年(1808)に霊雲院の天瑞によって再興された。

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東福寺 退耕庵 戊辰役殉難士菩提所

「東福寺 塔頭 その3 」 の地図





東福寺 塔頭 その3  のMarker List

No.名称緯度経度
01  東福寺 万寿寺 34.9811135.7711
02  東福寺 勝林寺 34.98135.7737
03  東福寺 盛光院 34.9802135.7724
04  東福寺 海蔵院 34.9796135.7731
05  東福寺 霊源院 34.9797135.7724
06  東福寺 龍眠庵 34.9774135.7748
07  東福寺 退耕庵 34.9795135.7717
08  東福寺 同聚院 34.9785135.7724
09  東福寺 霊雲院 34.9783135.7717
10  東福寺 一華院 34.9779135.7726

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