京都御所 その2
京都御所(きょうとごしょ) 2008/05/13訪問
京都御所の主だった建物については、その1で記したので、参観順路に従いそれ以外のことを含めて見て行く。参観者は清所門から中に入り、そのまま南に進んだところにある参観者休所で、事前のビデオを見て開始時刻を待つ。
参観者休所を出ると右手に宣秋門が現れる。この門は5月15日に行われる葵祭りの際、御所から出発する隊列が通る順路となっていることで有名である。もともと宮家、摂家その他の公卿が参内する時に用いられた門であることから公卿門とも呼ばれている。また檜皮葺き、切妻屋根に四脚門で破風屋根は載っていないが唐御門ともよばれる。この門を親王、摂政関白あるいは老齢の大臣でも牛車で通るためには牛車の宣旨、手車の宣旨を天皇より授からねばならなかった。
宣秋門の先には、左手に御車寄がある。宣秋門から入ってきた公卿たちのうち昇殿を許された親王、摂家、堂上、蔵人などが正式な参内の場合にのみ使用する。檜皮葺きで、こちらは唐破風の屋根となっている。
摂家は鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った近衛家、九条家、二条家、一条家、鷹司家の5家。大納言、右大臣、左大臣を経て摂政、関白そして太政大臣に昇任できた。5摂家が確立すると摂政と関白の職は独占され、他の者が任じられることがなかった。唯一の例外は豊臣秀吉と秀次である。
堂上とは清涼殿南廂にある殿上間に昇殿出来る資格が世襲された公家。江戸時代末に137家あった。 蔵人は天皇の秘書的役割を果たす官職。もともと書籍や御物の管理、また機密文書の取り扱いや訴訟を扱ってきた。その後、訴訟には関与しなくなるが、詔勅、上奏の伝達や、警護、事務、雑務等殿上におけるあらゆる事を取り仕切るようになる。平安時代中期になると内豎所・御匣殿・進物所・大歌所・楽所・作物所・御書所・一本御書所・内御書所・画所など所といわれる天皇家の家政機関一切をも取り扱うようになる。
御車寄は緒大夫の間や清涼殿、小御所へつながっている。先ほどの宣秋門とともに近年補修が行われたようで、箔の押された金物も輝きを保ち優美さを備えた建物となっている。
御車寄に続いて緒大夫の間が現れる。正式な用向きで参内した時の控えの場所として建てられた建物で、東の清涼殿側から、最も格の高い公卿の間、諸侯 所司代の殿上人の間、それ以外の者の控えの緒大夫の間の三室が南を正面に並べられている。現在はそれぞれの部屋の障壁画によって、虎の間、鶴の間、桜の間と呼ばれている。緒大夫の間の南側は新御車寄の背面となっている。
新御車寄は大正4年(1915)の大正御大礼のために建設された建物。天皇・皇后のみが使用される。
新御車寄の南側は開けており、紫宸殿の回廊が見える。回廊の南には承明門、西に月華門、東に日華門の3つの門があるが、それ以外にも回廊には潜戸が明けられている。これらは順路順に右掖門、永安門、長楽門、左掖門と呼ばれているらしい。回廊には葵祭を控えて、装束の準備が行われていた。
建礼門を背にして承明門越しに見る紫宸殿の大きさは想像以上のものであり、国家の権力を強く感じさせる。既にその1で触れたように、現在私たちが見る紫宸殿は江戸時代の技術による江戸時代のデザインである。具体的には屋根は高く急勾配であり、壁の高さも床のレベルも平安時代の寝殿造と比較しても高めに作られている。広い南庭を巡る回廊と合わせると、高さを抑え、水平方向に伸びた大らかな建築群となっていたのだろう。
回廊の東側には建春門と春興殿が見える。建礼門が天皇が使用する門であるとすると、建春門は勅使の出入りに用いられた。しかし明治以降は皇后や皇太子の御門とされている。建礼門と同じく檜皮葺き、切妻屋根に角柱を用いた四脚門だが、唐破風となっているため華やかさがある。
三種の神器のひとつ神鏡を奉安する賢所は、平安京創建の頃は温明殿にあったが、鎌倉時代に武具などを置いた春興殿に移された。もとは紫宸殿の南東、日華門の南に建てられ、現在の位置とは異なる。京都大学附属図書館に所蔵されている安政造営内裏図では現在の春興殿の場所には賢所と同義の内侍所と記されている。東京に都が遷されると賢所も皇居内に遷された。現在の建物は、大正御大礼の際に新たに賢所遷御の所として建てられたものである。総檜造りの入母屋屋根 銅版葺。内部は外陣、内陣、内々陣の三室よりなり、内陣は天皇が御拝されるところであり、内々陣に神鏡が奉安される。
順路では紫宸殿の東側に建つ宣陽殿と春興殿の間を抜けて、小御所の南面を見ながら、清涼殿の方向に左折する。紫宸殿から小御所、御学問所をつなぐ渡り廊下の下を潜ると清涼殿とその東庭が現れる。今回の参観では紫宸殿を間近で見ることが出来ず、建物の構造が良く分からなかったが、清涼殿は軒下まで近寄ることができた。身舎の東側の弘廂と呼ばれる空間に2列の柱が立ち、軒先の高さで柱は梁でつながれている。身舎と弘廂の間に外壁が入るため、弘廂は外部空間となっている。庇の部分には軒天井が張られていないため、屋根の架構が見える。このような構造で、これだけの規模の建物を見ることができ、素直に勉強になった。
清涼殿の東庭には紫宸殿の北面が接している。南面の威厳に満ちた顔とは異なり、これが紫宸殿?というような印象を与える。
再び回廊を潜り、小御所の東面に出ると目の前に御池庭が広がる。この御池庭もさらにその奥にある御内庭も作庭時期を確定することが出来ていないようだ。長崎大学付属図書館に所蔵されている古写真に付けられたキャプションによると
「御池庭は延宝年間(1673~81)に造られた回遊式の庭園」
とあるが、その出典は書かれていない。徳川家康が行った慶長16年(1611)か元和5年(1619)の徳川和子入内の際に女御御殿建立、あるいは寛永19年(1642)新造内裏建立のいずれかの時期には御池庭が造られていたのではないかと思われる。
参観時に渡されるパンフレットに掲載されている京都御所の略図を見ても分かるように、現在の御池庭は大きな池に南北に3つの島が浮かぶ。「京の名庭散歩」の名庭34号 御池庭と蹴鞠の庭(江戸時代の庭)(http://www003.upp.so-net.ne.jp/hata0913/niwa-4.htm : リンク先が無くなりました )にはさらに拡大した図面が載っているのでそちらを参照していただく方が分かり易い。中央の島は蓬莱島。そして南北の中島には2本づつ橋が架けられている。南島に架けられた橋は欅橋と呼ばれている。池の西側には洲浜が作られている。建物規模に負けないゆったりとした印象を与える庭となっている。同じ御所でも仙洞御所の南池とも異なり、自然的な景観を作り出すのではなく、建物にあわせた庭を作ったようにも見える。
御学問所の先には築地塀があり、その潜戸を抜けると御常御殿と御内庭が広がる。参観範囲が限定されているため、御内庭の奥まで見ることが出来なかったが、眺望の開けた池はなく、御池庭に注ぎ込む鑓水の流れを下流から上流に遡って見て行く形式になっている。
ここから帰路に入る。御常御殿の囲みを出て、御常御殿と御学問所の間を抜けると大きな庭に出る。ここには池などはなく樹木が美しく植えられている。この中を西に進むと正面に塀が現れる。この塀の外に出ると最初の参観者休所に再び戻る。
「京都御所 その2」 の地図
京都御所 その2 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | ▼ 京都御所 紫宸殿 | 35.0241 | 135.7621 |
02 | ▼ 京都御所 清涼殿 | 35.0243 | 135.7617 |
03 | ▼ 京都御所 承明門 | 35.0235 | 135.7621 |
04 | ▼ 京都御所 月華門 | 35.0238 | 135.7617 |
05 | 京都御所 日華門 | 35.0238 | 135.7625 |
06 | ▼ 京都御所 小御所 | 35.0245 | 135.7625 |
07 | ▼ 京都御所 御学問所 | 35.0249 | 135.7625 |
08 | 京都御所 蹴鞠の庭 | 35.0247 | 135.7625 |
09 | ▼ 京都御所 御池庭 | 35.0247 | 135.763 |
10 | ▼ 京都御所 御常御殿 | 35.0253 | 135.7628 |
11 | ▼ 京都御所 御内庭 | 35.0253 | 135.7631 |
12 | ▼ 京都御所 建礼門 | 35.0232 | 135.7621 |
13 | ▼ 京都御所 宣秋門 | 35.0246 | 135.761 |
14 | ▼ 京都御所 清所門 | 35.0258 | 135.761 |
15 | ▼ 京都御所 皇后門 | 35.027 | 135.761 |
16 | ▼ 京都御所 朔平門 | 35.0272 | 135.7624 |
17 | ▼ 京都御所 猿ヶ辻 | 35.0272 | 135.7636 |
18 | ▼ 京都御所 建春門 | 35.0236 | 135.7636 |
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