アーカイブ:2010年 2月
拾翠亭
拾翠亭(しゅうすいてい) 2008年05月17日訪問 拾翠亭 金戒光明寺の高麗門を潜り、丸太町通へと出る。岡崎神社前停留所から京都市営バス204号に乗車し、丸太町通を西に進む。5つ目の停留所・裁判所前で下車し、堺町御門より京都行苑へと入る。門を潜るとすぐ左手に九条邸跡に残る九条池が見え、池に架かる高倉橋の向岸にある建物がこれから訪問する拾翠亭である。 拾翠亭 入口 拾翠亭 拾翠亭 九条家は、近衛家・二条家・一条家・鷹司家と共に5家ある摂関家のひとつである。この藤原氏嫡流で公家の家格の頂点となったのは鎌倉時代からである。そして摂関家にあるものは、大納言・右大臣・左大臣… ►続きを読む
会津藩殉難者墓地
会津藩殉難者墓地(あいづはんじゅんなんしゃぼち) 2008年05月17日訪問 会津藩殉難者墓地 真如堂から金戒光明寺の境内につながる道の左側に会津藩殉難者墓地がある。 安政7年(1860)大老・井伊直弼が桜田門外で水戸藩浪士達によって暗殺され、安政の大獄で弾圧されてきた松平春嶽ら開明派の人々が復権してくる。その中で、兄・斉彬の死後、藩主となった島津茂久を補佐する立場となった国父の島津久光は、文久2年(1862)公武合体運動推進のため兵を率いて上京する。斉彬の遺志であった朝廷と幕府と雄藩の政治的提携を継ぐための行動であったと考えられている。久光の働きかけにより幕政改革を要求するため勅使を… ►続きを読む
金戒光明寺
金戒光明寺(こんかいこうみょうじ) 2008年05月17日訪問 金戒光明寺 文殊塔 真正極楽寺の本堂の裏を南に歩いていくと、いつの間にか金戒光明寺の境内に入っていく。 浄土宗総本山の金戒光明寺の山号は紫雲山。浄土宗の開祖・法然は、知恩院、安楽寺そして法然院で触れたように、長承2年(1133)に現在の岡山県にあたる美作国久米南条稲岡庄、押領使(律令制の令外官の一つ。警察・軍事的官職)・漆間時国の長子として生れている。幼名を勢至丸と言い、9歳の時父が源内武者貞明の夜襲を受け不意討ちに倒れている。その後比叡山に登り、源光上人に師事するが、15歳の頃に同じ比叡山の皇円の下で得度し、比叡山黒谷の… ►続きを読む
真正極楽寺 (真如堂)
天台宗鈴聲山 真正極楽寺 (しんしょうごくらくじ) 2008年05月17日訪問 真如堂 本堂 吉田神社の末社・斎場所大元宮から宗忠神社に向って坂道を下る途中で、大きな屋根と三重塔が正面に見えてくる。これが真如堂の堂宇である。宗忠神社の石段を下り、神樂岡東陵を左手に見ながら進むと、真如堂の朱塗りの総門が参道の奥に現れる。 真如堂 総門 真如堂 参道 一般に呼ばれている真如堂は本堂の名称で、正式な寺号は真正極楽寺。天台宗の寺院で山号は鈴聲山、本尊は阿弥陀如来、開基は戒算である。 永観2年(984)比叡山の僧である戒算が比叡山常行堂の本尊阿弥陀如来を一条天皇生母である東三条院… ►続きを読む
神樂岡東陵
神樂岡東陵 (かぐらがおかのひがしのみささぎ) 2008年05月17日訪問 神樂岡東陵 宗忠神社の参道を下り、真如堂に向けて東に進む途中に、神樂岡東陵が民家の中にある。神樂岡東陵には陽成天皇が祀られている。 陽成天皇は、貞観10年(869)清和天皇の第一皇子・貞明親王として生まれている。母は権中納言藤原長良の娘で女御藤原高子である。藤原高子については岡崎神社の項でも触れたように、元慶2年(878)岡崎の地に清和天皇の護願寺として東光寺を建立している。東天王社はその鎮守社として祀られたとも言われている。 生後3ヶ月で立太子となり、貞観18年(876)9歳で清和天皇から譲位され帝位に就く。… ►続きを読む
宗忠神社
宗忠神社(むねただじんじゃ) 2008年05月17日訪問 宗忠神社 吉田神社の末社・大元宮から境外末社・竹中稲荷社へつながる道を進み吉田山の東麓を下って行く。竹中稲荷社の鳥居が始まる右手前に宗忠神社へとつながる道が現れる。この道は宗忠神社の境内へ脇から入る口で、正式な参道は吉田山の東麓を下ったところから始まる。 宗忠神社は黒住教の神社で、創建が文久2年(1862)と新しく、祭神として教祖である黒住宗忠を祀る。旧社格では県社。 本殿は流造で、明治45年(1912)に改築されている。奥の北社祭神は天照大御神、南社祭神は黒住宗忠が祀られている。北社は二条家から移されている。拝殿は昭和12年(… ►続きを読む
吉田神社
吉田神社(よしだじんじゃ) 2008年05月17日訪問 吉田神社 斎場所大元宮 緑寿庵清水のある鞠小路通をそのまま南に下ると、東一条通との交差点で東一条通に入り東へ進む。京都大学の本部構内と吉田南構内の間を進むと、正面に吉田神社の赤い鳥居が現れる。ここより長い参道が始まる。 吉田神社 一の鳥居 吉田神社 参道の燈籠 吉田神社 二の鳥居 砂利が敷かれた参道を東に歩いていくと二の鳥居と共に石段が現れる。ここから吉田山の中に入っていくこととなる。この鳥居の左脇には末社の祖霊社と今宮社が並ぶ。 祖霊社は吉田神社太元講社員、すなわち吉田一族の祖霊を祭神として祀り、創設は明治1… ►続きを読む
緑寿庵清水
緑寿庵清水(りょくじゅあんしみず) 2008年05月17日訪問 緑寿庵清水 男性客に入り難い店かもしれない 白沙村荘を後にして、次の吉田神社へと向かうため今出川通を西に進む。本来は東大路通との交差点である百万遍を南に下るべきだが、お土産を買うために緑寿庵清水へ寄り道する。角にある思文閣本社を目印として、東大路通の一本西側の鞠小路通を南に入る。すぐに道が二股に分かれる角が現れる。緑寿庵清水はその角の先にある。 緑寿庵清水 鞠小路通の入口にある思文閣 緑寿庵清水 角の建物から緑寿庵清水 子供の頃食べたコンペイトウは着色剤で濃く色付けされた、とても甘いお菓子であった。一度に何個… ►続きを読む
白沙村荘 橋本関雪記念館 その2
白沙村荘 橋本関雪記念館 その2(はくさそんそう) 2008年05月17日訪問 白沙村荘 倚翠亭より問魚亭を眺める 今出川通に面した北門を潜ると、供待と呼ばれる待合の脇に不許葷酒入山門の碑が立つ。庭園に入ると木々の中に静御前の供養塔との言い伝えもある国東塔が現れる。総高さは750センチメートルと国内に現存する中で最大のものであり、個人が所有する大きさとは思えない。関雪が大正時代の初期に大分の別府に訪れたときに購入したものである。そのまま進むとかつての主屋で現在は和食を供する瑞米山とその前に広がる庭へ続く中門が現れる。この建物は後で説明する存古楼と同じく大正5年(1916)に建てられてい… ►続きを読む
白沙村荘 橋本関雪記念館
白沙村荘 橋本関雪記念館 その1(はくさそんそう) 2008年05月17日訪問 白沙村荘 芙蓉池と存古楼 慈照寺から白沙村荘へは、銀閣寺橋を渡り、今出川通を西に進む。程なくバス停・銀閣寺前が現れ、その脇に白沙村荘の入口がある。 白沙村荘は日本画家の橋本関雪が、大正5年(1916)に南禅寺からこの地に制作の場を移したことに始まる。この時から、亡くなる昭和20年(1945)までのおよそ30年間にわたり、約1万平米の敷地にアトリエから住居、そして庭園が作られている。関雪はこの30年間の間に、何回も敷地を買い増しながら庭園と建物群を拡張させている。自らの感性に従い設計し、心血を注ぎ造り上げたと… ►続きを読む
慈照寺 その3
臨済宗相国寺派東山 慈照寺 その3(じしょうじ) 2008年05月17日訪問 慈照寺 銀閣 慈照寺 その1で造営者である第8代将軍足利義政についてと、慈照寺が建てられた土地の意味、そして義政が東山殿で実現しようと考えていたことについて書いてきた。そして慈照寺 その2では、慈照寺造営にあたり行ってきた掠奪の一端を見ることで、義政の東山殿にかける執念を知ることができた。そして掠奪で完成した理想の庭園が、義政の死後掠奪の対象となり、衰退していく様を見てきた。この項では、その後の慈照寺がどのように再興され、現在私達の見るものとなったかについて触れていく。 慈照寺 銀閣、方丈、東求堂 吉田山… ►続きを読む
慈照寺 その2
臨済宗相国寺派東山 慈照寺 その2(じしょうじ) 2008年05月17日訪問 慈照寺 錦鏡池と東求堂 法然院から再び哲学の道に戻り北に向かう。銀閣寺道に架かる銀閣寺橋で熊野若王子神社から始まった哲学の道が終わる。そして、この橋の傍らに哲学の道という碑が置かれている。西から来た今出川通は鹿ケ谷通と交わり、銀閣寺橋から東側は両側に土産物屋が並ぶ銀閣寺の参道となる。この参道を150メートルくらい進むと慈照寺の総門に達する。 慈照寺 東求堂 慈照寺 洗月泉 一般に銀閣寺と呼ばれることも多いが、臨済宗相国寺派萬年山 相国寺の山外塔頭で山号は東山、寺号は慈照寺である。これは北山 鹿苑… ►続きを読む
慈照寺
臨済宗相国寺派東山 慈照寺 その1(じしょうじ) 2008年05月17日訪問 慈照寺 銀閣寺垣の参道 法然院から再び哲学の道に戻り北に向かう。銀閣寺道に架かる銀閣寺橋で熊野若王子神社から始まった哲学の道が終わる。そして、この橋の傍らに哲学の道という碑が置かれている。西から来た今出川通は鹿ケ谷通と交わり、銀閣寺橋から東側は両側に土産物屋が並ぶ銀閣寺の参道となる。この参道を150メートルくらい進むと慈照寺の総門に達する。 一般に銀閣寺と呼ばれることも多いが、臨済宗相国寺派萬年山 相国寺の山外塔頭で山号は東山、寺号は慈照寺である。これは北山 鹿苑寺と同じ関係である。 慈照寺 銀閣寺橋 哲… ►続きを読む
法然院
浄土宗捨世派善気山 法然院萬無教寺(ほうねんいん) 2008年05月17日訪問 法然院 白砂壇と山門 霊鑑寺から再び安楽寺の前を通り北に進むと、圓光大師御舊跡と記された碑が左側に建つ石段とその先に鬱蒼とした木々が現れる。石段の上には2本の門柱とそれから連なる柵が両側に見える。門柱には横木が渡されていないし扉もないので、門とは言えないのかもしれないが、ここから先が境内であることを示している。 圓光大師は元禄10年(1697)東山天皇より賜った大師号であり、500年遠忌の行なわれた正徳元年(1711)以降、50年ごとに時の天皇より諡号を賜られる習わしとなっている。ちなみに一番近いところでは… ►続きを読む
霊鑑寺門跡
臨済宗南禅寺派円成山 霊鑑寺門跡(れいかんじもんぜき) 2008年05月17日訪問 霊鑑寺門跡 安楽寺の山門の下に続く美しい石段を後にして、南に100メートルも下らないうちに、霊鑑寺門跡の大きな石段が現れる。石段の右手には後水尾天皇創建谷の御所霊鑑寺門跡の碑が建つ。 霊鑑寺は臨済宗南禅寺派の門跡尼寺で山号は円成山。谷の御所の他にも鹿ヶ谷比丘尼御所とも呼ばれる。 霊鑑寺については資料も少なく、不明なことも多かった。特にその創設と如意寺との関係については、京の通称寺 の 169谷の御所・鹿ヶ谷の妙見さん(http://tuusyou.hp.infoseek.co.jp/t169.html… ►続きを読む
安楽寺
浄土宗住蓮山 安楽寺(あんらくじ) 2008年05月17日訪問 安楽寺 緩やかな勾配の石段が美しい 櫻本陵から哲学の道に戻り、一本北側の道を東に入ると、法然院、安楽寺そして霊鑑寺をつなぐ道に出る。この道を南に下ると、程なくして道沿いに植えられた大樹と石段とその上に建つ萱葺きの山門が現れる。 鎌倉時代の始め、浄土宗の開祖・法然上人には住蓮房と安楽房遵西の弟子がいた。2人は鹿ケ谷草庵を結び、恵心僧都源信作の座像の阿弥陀如来を本尊として、六時礼讃の念仏会を行っていた。六時礼讃とは、浄土教における法要のひとつであり、中国の僧善導の「往生礼讃偈」に基づいて1日を日没、初夜、中夜、後夜、晨朝、日中… ►続きを読む
櫻本陵
櫻本陵(さくらもとのみささぎ) 2008年05月17日訪問 櫻本陵 大豊神社から再び哲学の道に戻り、北に向かい進む。地図の上では、南側から霊鑑寺、安楽寺、法然院が並ぶあたりは、大文字山の裾野であり、その西側は既に宅地化されている。安楽寺の前に東西50メートル南北100メートル位の大きな緑地が残っている。ここが冷泉天皇の櫻本陵である。哲学の道からよーじや銀閣寺店で東に入り、真直ぐ進むと正面に現れる。 冷泉天皇は天暦4年(950)村上天皇の第2皇子として生まれる。第1皇子の広平親王を押しのけて生後間もなく立太子となる。これは時の権力者である藤原実頼・師輔兄弟の力が働いていたと考えられている… ►続きを読む
大豊神社
大豊神社(おおとよじんじゃ) 2008年05月17日訪問 大豊神社 熊野若王子神社から哲学の道を北に向って歩き始める。疎水分線の東側に白い塀で囲まれた宗諄女王墓が現れる。 宗諄女王墓 宗諄女王は文化13年(1817)伏見宮貞敬親王の第10王女として生まれている。文政2年(1819)光格天皇の養女となり、霊鑑寺を相続して文政6年(1823)入寺する。得度して法名を宗諄、道号を法山とする。慶応4年(1868)紫衣を勅許されるまでになるものの、明治6年(1873)には伏見宮へ復帰する。そして明治13年(1880)再び尼になり、明治15年(1882)権大教正に補される。明治24年(18… ►続きを読む
熊野若王子神社
熊野若王子神社(くまのにゃくおうじじんじゃ) 2008年05月17日訪問 熊野若王子神社 本殿 疎水分線にかかる若王子橋を東に渡ると、細い水路が東西に走る。熊野若王子神社の境内はこの水路の北側にあり、2本の石橋が架かる。境内に入る石段の右手に御神木である梛の大木がある。梛の木は、古来より紀州熊野三山詣、伊勢神宮参拝などの折、ミソギの木として用いられた珍しい樹木である。樹齢についての記録はないが、400年以上と推測されている。なお梛の大木の傍らに架かる石橋は明暦2年(1656)7月吉良家よりの寄進とされている。この西側の鬱蒼とした木々の中の石橋を渡り境内に入る。 熊野若王子神社 境内… ►続きを読む