徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

京都の名庭巡り その2



京都の名庭巡り その2

font-size:larger   記事へのlink → 

画像

font-size:larger   記事へのlink → 

画像

font-size:larger   記事へのlink → 

画像

font-size:larger   記事へのlink → 

画像

 ★★★★☆は4つの庭園に絞りました。★★★★の上位4ないし5にさらに☆を加えることも可能だと思いますが、あえて違いを作りました。

 修学院離宮庭園は、後水尾上皇の指示で造営された離宮だけに、上皇個人というよりは王朝文化の美意識の到達点を示す庭となっています。明らかに桂離宮とは異なった力強さがこの庭を支配しています。下御茶屋、中御茶屋、上御茶屋の3か所の庭園から構成され、面積は実に54万平方メートルに及ぶ巨大な庭園です。洛北の農地の中に茶屋を点在させているため、その規模の大きさに圧倒されることはあまりありません。同じ王朝文化の華として作られたヴェルサイユ宮殿の小トリアノン宮殿などと比較するとその狙い目の違いが明らかになります。上御茶屋には豊かな水を湛えた浴龍池があります。この池が人工のものであることは説明を受けるまでは気づかないでしょう。本来ならば、このような高台に大きな池は存在しないものです。人工的に堰き止めておかなければ、低い農地に流れ去ってしまいます。そのようなことを可能にするため巨大な土木工事を施したものの、ダムの構造物を大刈込で自然の中に溶け込ませています。あくまでも権威を表現するのではなく自然の中で時を過ごすことを目的に作られています。なお、3つの茶屋を結ぶために作られた松並木は明治時代に入ってからなされた最大の改悪です。本来の田園風景を著しく損なっています。

 天龍寺は室町幕府初代将軍・足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために夢窓疎石を開山として建立した寺院です。そのため天龍寺庭園は西芳寺と同じく疎石の作庭です。丁度良い大きさの亀山を背にして曹源池を中心とした池泉回遊式庭園です。天龍寺は何度も大きな火災に遭ってきましたが、その度に復興してきました。しかし元治元年(1864)禁門の変の後の薩摩藩兵の焼き討ちと、その後の廃仏毀釈の打撃は大きく、多くの堂宇は明治以降の再建となっています。その中で天龍寺庭園が創建当初の面影を示すものとして残ったことは不幸中の幸いです。京都で事前に申請しないで常時拝観できる庭園としては、庭園の構成から維持管理までを含めた点で最も素晴らしい庭だと思います。

 鹿苑寺と龍安寺は、いずれも世界遺産に登録されている有名な寺院なので、それ程説明の必要がないと思います。ただ鹿苑寺は庭園を鑑賞する人より金閣寺をバックに記念撮影したいと思う人が多いことに失望します。折角拝観料をお納めしたのだから、すぐに売店に行くのではなく、もう少し鏡湖池の石組や竜門滝も鑑賞しましょう。
 また、縁側の先端に腰を下ろして鑑賞している人をこの頃多く見かけます。何となく庭と会話している気持ちになるのでしょうか?龍安寺でもいつも綺麗に一列並んでいます。その場所は他の拝観者の邪魔になるだけではなく、庭の鑑賞に適した位置でないと思います。ひとつひとつの石組の表情は分かりますが、全ての石の構成美を把握するためには、もう少し方丈中央に引かなければなりません。最初に庭の全体構成を把握した後にディテールに移ればこの庭の良さがもう少し伝わると思います。
 私は庭を見ている時はなるべく拝観の栞を読まないようにしています。また団体客に対する説明も聞かないようにしています。折角本物を目の前にしているのだから、それに集中すべきです。分からない事があれば事前に調べておくか、家に帰ってから調べ再び次の訪問の時に確認すればよいという考えです。もちろん何度も京都まで新幹線で行くこともできないため事前調査が重要になってきます。
 龍安寺の石庭で石の数を数える人が増えてきました。どうも全部の石を一度に見える場所がないという説明が蔓延したためだと思います。まあ色々な角度から庭を鑑賞することは悪いことではないと思いますが、龍安寺での思い出が石の数を数えただけというのでは、あまりにも寂しいと思います。

font-size:larger   記事へのlink → 

画像

font-size:larger   記事へのlink → 

画像

font-size:larger   記事へのlink → 

画像

font-size:larger   記事へのlink → 

画像

font-size:larger   記事へのlink →             対面所庭園の写真がないため滴翠園の飛雲閣

画像

font-size:larger   記事へのlink → 

画像

font-size:larger   記事へのlink → 

画像

font-size:larger   記事へのlink → 

画像

font-size:larger   記事へのlink → 

画像

font-size:larger   記事へのlink → 

画像

font-size:larger   記事へのlink → 

画像

font-size:larger   記事へのlink → 

画像

font-size:larger   記事へのlink → 

画像
画像

 ★★★★の上位、仙洞御所は後水尾法皇、醍醐寺三宝院は豊臣秀吉、二条城は徳川家光、慈照寺は足利義政、本派本願寺は本願寺教団と時の権力者あるいは財力を蓄えた人々が関係している庭です。また円通寺も元は後水尾法皇の離宮候補地であったこと、南禅寺金地院は崇伝の権勢の絶頂期の作品、京都御所も天皇の庭とすれば、これらも同じグループに含まれるかもしれません。★★★★より上位の庭や上記のグループに含まれる庭々を見てゆくと、いずれも名庭と呼ばれるものを作るには、ある程度の資金力が必要であるという結論に至ってしまいます。

 曼殊院は良尚入道親王によって洛北一乗寺村に建立されています。同じ王朝文化を継承した桂離宮や修学院離宮などと比較しても、その素晴らしさが見えてきます。良尚入道親王は桂離宮を造営した八条宮智仁親王の子として生まれています。八条宮家は智忠親王が継ぎ、現在の桂離宮を完成させていますが、兄弟である良尚入道親王も、桂離宮ほどの大規模な造営ができなくても、その美意識によって見事な作品に仕上げています。これは小堀遠州の大徳寺孤蓬庵、大徳寺本坊方丈庭園、南禅寺本坊方丈庭園にも共通して言えることですが、ぶれる事のない美意識で作られた作品は、たとえ小作品といえども光り輝くものに成り得るということです。資金力云々とは正反対の結論もまた真であるということでしょう。

 さて★★★★の最後尾に近代庭園を1つ選んでおきました。松尾神社庭園は、重森三玲の最晩年の作品になります。大きく上古之庭、曲水之庭そして蓬莱之庭の3つの庭から構成されています。曲水之庭は建物に囲まれて少し窮屈な感じを与えますが、その先に広がる上古之庭は笹を敷き詰めた斜面に古代の磐座を模して創られています。その景色は2000年以上前からこの地にあったかのように感じられます。現代的な造形性だけではなく、日本庭園の持つ精神性の高さを示す類まれな作品となっている。重森三玲の辿り着いた近代庭園の頂点に、現代の作庭家達の作品が達しない状況を実に残念に感じます。

「京都の名庭巡り その2」 の記事

「京都の名庭巡り その2」 に関連する記事

「京都の名庭巡り その2」 周辺のスポット

    

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

 

サイト ナビゲーション

過去の記事

投稿カレンダー

2013年1月
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031  

カテゴリー