京都御苑 中立売御門
京都御苑 中立売御門(きょうとぎょえん なかだちうりごもん) 2010年1月17日訪問
京都御苑 凝華洞跡 その5では朝議が長州藩討伐に決するまでの過程と甲子戦争の開戦となった福原越後軍の伏見街道での交戦状況を見てきた。福原軍は長州藩正規兵が主力であるため、開戦前から戦闘能力に疑問が持たれていた。そのため天龍寺に駐屯していた太田市之進、松本鼎三、阿武彦助等を急遽福原軍の梃入れとして加えている。その不安は見事に的中し、伏見から進撃を始めた福原軍はついに洛中に入ることもできずに包囲され消耗し、そして京外に追い落とされている。主将の福原越後は緒戦で狙撃に遭い、伏見へ下がるだけに留まらず、早々に山崎を経由して大坂に下っている。主将がこれでは軍の士気が上がることもなかっただろう。
ここでは中立売御門、下立売御門、蛤御門そして清水谷家の椋の項を使用して、嵯峨より進撃した国司信濃と来嶋又兵衛等の奮戦を書いて行く。
京都御苑 凝華洞跡 その3でも触れたように、天龍寺に長州兵が屯集したのは、元治元年(1864)6月26日の夜の事であった。先ず、京都の長州藩邸に潜伏していた長州藩士及び諸藩士約100名が脱走し天龍寺に籠っている。馬場文英は「元治夢物語-幕末同時代史」(岩波書店 2008年刊)で以下のように記している。
河原町の邸に在る長藩士達、「京師に在ては恐れ有」とて邸内を脱し、嵯峨天龍寺に赴、此処より山崎・伏見に応じ、尚も歎願せんと催しける。
6月16日夜四つ刻(午後10時)遊撃軍を率いて三田尻を発った来嶋又兵衛は、19日に備前鞆港を経て21日の夜あるいは22日早朝に大阪に到着している。ここより陸行して22日には伏見に入っている。そして上記の浪士達の藩邸脱出劇を受け、「嵯峨天龍寺に屯集せし藩士の輩、若疎暴の振舞をなさば、天朝へ恐れあり、極めて鎮静すべし」と福原越後に告げ、340~50名の兵士を率いて伏見を出ている。先の「元治夢物語」には横大路より鳥羽街道を登り、七条より桂村に出て松尾社を詣でた後に天龍寺に入ったとある。ただし三原清尭の「来嶋又兵衛傳」(来嶋又兵衛翁顕彰会 1963年刊)では、武装した遊撃軍と力士隊を率いて27日の朝に伏見を発ち、竹田街道から桂川東岸を行軍している。鐘や太鼓は軍令で禁じられていたが町の角々で鬨の声をあげるなど、かなり強引な示威行動に出ている。天龍寺に入ったのは五つ刻(午後8時)で、第一方丈を本陣とし、塔頭6院を脇陣、嵐山の三軒屋及び法輪寺を下陣に定めている。来嶋を始めとした遊撃軍の行軍道筋については若干の相違が見られる。既に天龍寺 その6で紹介したように、長州兵に押し寄せられた天龍寺側の記録としては寿寧院月航住職の日単がある。この日単については、「古寺巡礼 京都 天龍寺」(淡交社 1976年刊)に掲載されている。
維時元治元年六月二十八日昧爽、長州人凡千人突然入込ミ、第一方丈ヲ以テ本陣トナシ。軍師森鬼太郎来嶋又兵衛之ニ居シ大庫裏ヲ以テ炊事場トナス。大将国司信濃妙智院ニ居シ、副将児玉小民部真乗院に居ス。(下嵯峨村福田理兵衛ナル者衆兵ノ入込ト共ニ米薪或ハ行灯蚊帳篝火用ノジン松牛車ヲ以テ運搬ス
6月26日の夜に脱走した京都長州藩邸の浪士達を鎮静するという口実で、翌27日夕方に天龍寺に入ってきた来嶋等を、月航住職は28日に現われたと記したのであろう。なおこの時点で国司信濃はまだ天龍寺には入っていない。国司は第三発として6月24日に500余名を率いて山口を進発、大阪着が7月7日、翌日淀川を上り9日に山崎着。そのため天龍寺に入ったのは7月11日であった。また国司隊の一部、児玉小民部の率いる遊撃軍200余名は出発が遅れたため、京に到着したのは7月15日であった。天龍寺にとっては6月28日から7月中旬にかけて続々と兵士が増えて行ったように感じたのであろう。
福田理兵衛とは下嵯峨村の庄屋、総年寄、村吏を勤める人物で、長州藩の支援者として有名な在野の勤皇家でもあった。文久2年(1862)末、天龍寺の用達であった理兵衛は長州藩士の楢原善兵衛より同寺の借用を依頼されている。翌文久3年(1863)1月、寺の借用について長州藩側の交渉役として天龍寺山内24ヶ寺、清凉寺ほか民家30戸を借入している。そして天龍寺に長州旅館の門標を掲げている。以後、長州藩の御用達となり一切の経理をまかされ、経済面で莫大な支援を行なっている。 文久3年2月3日、世子毛利定広が寺町二条の妙満寺から天龍寺へ移った際も理兵衛は隣村まで出迎えに行き、謁見を賜っている。また岩国藩主吉川経幹が代理で天龍寺に訪れた時にも、全て長州藩世子毛利定広に準じて待遇している。既にこの頃には、天龍寺を宿舎として使用する永代借用の契約を長州藩は結んでいるが、その交渉を纏めたのも理兵衛であった。天龍寺を藩主並びにその代理人の旅館となった際には、料理の供給、資金調達の斡旋から、出立時に残された道具類の保管まで命じられていた。すなわち福田理兵衛が長州藩と天龍寺の関係を深めたとも言える。この長州藩と天龍寺との関係があったことからこそ、甲子戦争において長州藩兵が天龍寺に屯集することとなった。そして嵯峨から山崎に至る京都の西側に布陣することで京の人々と御所に対して強力な威圧感を与えることとなった。さらに親長州派の公家や在京の諸藩に対して自らの正当性を訴える文書を送るなど、決して武力による無言の圧力だけではなかった。
長州藩兵は山内の塔頭だけでなく、境内、池畔、表門から裏門そして間道や亀山の頂にも兵が陣取るようになる。さらに数日すると総門前の石橋の脇に木砲2門を据え、門戸を閉ざし寺僧といえども出入りを改めるようになっていく。さらに総門内に1門、中門と弘源寺の間に2門、大方丈の裏の池畔から亀山に向けて1門、そして三軒屋東手の藪の中から渡月橋を狙う2門、亀山の頂から安堵橋方向(太秦)に向けて2門を設置している。さらに3日から5日経つと兵の数は増え、北は清凉寺本堂から広沢要行院から南は法輪寺及び松尾大社までに至り、夜間の篝火が数千箇所に及び、幾万の軍勢が駐屯している様に見えたとしている。
7月10日より警備は更に厳重になり、南は芹川橋より北は大門町石橋まで竹柵を巡らせ、要所要所に関門を設けている。芹川橋とは芹川の大堰川に注ぎこむ場所、現在の三条通に架かる橋のことであろう。また北の大門町石橋は嵯峨釈迦堂大門町の地名の残るあたりだろうか。いずれにしても当時の天龍寺は広大な寺域であったことから臨川寺から清凉寺までの芹川沿いに竹柵を設け、防衛ラインを築かなければならなかった。そしてこの日、総門前の金剛院へ本山事務所を移している。金剛院は造路の北の角に天龍寺の境外塔頭として現存している。そして14日には寺僧全て総門の外へ立ち退くように迫られる。15日の法要の後、祖塔を守護する僧1名と小僧2名を塔所に残し、総門外に退去している。この日より門外に出ることも門内に入ることもできず、「不自由極マル」とある。
7月19日丑の刻(午前2時頃)本陣にて法螺貝が吹かれ、兵が法堂前に整列を始める。そして一隊毎に本陣内に入り、すぐに戻り元の場所で整列する。これを繰り返した後に、本陣内に太鼓三声が轟き、京に向かって出陣した。これが午前3時頃のことだったようだ。午前6時には福田理兵衛が陣営の返謝として金300円を持参している。毛利家が朝敵となっても寺門に災いが降りかからないように、長州軍の幕を取り除き、寺門の幕を張り、高張提灯等も取り替えた上で、境内の清掃も行なっている。長州軍の大砲は既に境内にはなく、総門前の木砲2門のみが残っていたようだ。
国司軍の進撃について、末松謙澄著の「防長回天史」(「修訂 防長回天史 第四編上 五」(マツノ書店 1994年覆刻))では以下の様に簡潔に記している。
嵯峨方面に在りては十八日夜半国司信濃兵八百余を率ゐて天龍寺を発し途北野を経一条戻橋に至り軍を分て一と為し一は来嶋又兵衛をして率ゐて蛤門に向はしめ一は中村九郎と共に自ら之を率ゐて中立売門に向ふ
また、中原邦平の「忠正公勤王事蹟」(防長史談会 1911年刊)には以下のようにある。
嵯峨の一手と云ふものは、十九日の午前二時頃(昔しの八ッ時であります)天龍寺から繰り出しましたが、何処を通ったか、其の時居った人に聞いても、アノ時は何処から這入ったか知らぬが、北野天神の松が見えたから、アノ方から這入ったらうと云ふことで、其の道筋は能く分りませぬが、来島が蛤御門に向ひ、国司が中立売に向ひました。
深夜の行軍であったことも含め、土地勘のない長州兵にはどこを通過したか分からなかったのであろう。国司軍の天龍寺から御所までの進軍経路は明らかになっていない。幕府側の史料では、中立売御門、蛤御門、下立売御門前に現れたところから始まるのは当然のことであろう。上記のような長州側の史料においても明確な経路を示していないが、「防長回天史」のように一条戻橋で軍を分けたとする説と「尊攘堂叢書二」(「日本史籍協会叢書 尊攘堂書類雑記」(東京大学出版会 1918年発行 1972年覆刻))に「七月十八日ノ夜京師ニ向ヒ帷子衢ニ至リ兵ヲ三隊ニ分チ国司信濃一隊ヲ率ヰテ中立売門ニ彼(来嶋又兵衛)ハ児玉小民部ト共ニ一隊を率ヰテ蛤門に至リ一隊ヲ伏兵トス」とあるように、帷子ノ辻で軍を分けた説があるようだ。三原清尭の「来嶋又兵衛傳」(来嶋又兵衛翁顕彰会 1963年刊)は「防長回天史」の一条戻橋で兵を分けた説を採用し、堀山久夫の「国司信濃親相伝」(マツノ書店 1995年刊)では、帷子ノ辻で二隊に分かれ、さらに出水で来嶋又兵衛と児玉小民部が分かれたとしている。特に堀山は、長州藩の手組として夜九ツ時(午前0時)天龍寺を出発して嵯峨街道を進み帷子が辻で二手に分かれたと定めていたため、当日も手組に従って行動したと推測している。嵯峨街道とは下嵯峨村に至る下嵯峨街道のことであろう。堀山の記述は先行する三原清尭の「来嶋又兵衛伝」を引用することが多いにもかかわらず、あえて帷子ノ辻説を採用している。
上記の通り国司軍が、帷子ノ辻かあるいは一条戻橋で隊を割ったかは明らかでない。しかし天龍寺を出て帷子ノ辻を経たのならば、現在の新丸太町通の一本南側にあたる愛宕道か、さらに南の下嵯峨街道すなわち現在の三条通を東に進んだと考えられる。右京区嵯峨野嵯峨ノ段町の甲塚橋東詰に三条通・六条・伏見【道標】が建つ。この道標は文政7年(1824)建立なので、元治元年にも存在していた考えられる。この地で右に曲がると三条通に出、そのまま直進すると北野天満宮へと続くので、兵を二隊に分けるならば帷子ノ辻ほど南に下った場所ではなく、この地が適していたように考えられる。右へ進んだ隊は帷子ノ辻を経由して太子道から洛中に入り、そのまま下立売通あるいは一本北の出水通を東に進んだのだろう。また甲塚橋を直進した隊は常盤を経て雙ケ岡の西あるいは東側で北に折れ、一条通に入り北野天満宮を横目にそのまま東に進む。堀川の一条戻橋を渡り、小川町通で一本南の中立売通に入ったと考えられる。 馬場文英の「元治夢物語」では以下のように記している。
扨、帷子が辻より二手に分て進む所に来嶋又兵衛・児玉小民部は、「下立売御門より進むべし」とて道を急ぎ走向ふ。又、国司信濃は、「北へ廻り、中立売御門の方よりすすまん」と此手へ走向ふたり。
「京都御苑 中立売御門」 の地図
京都御苑 中立売御門 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
▼ 京都御苑 中立売御門 | 35.025 | 135.7596 | |
▼ 京都御苑 凝華洞跡 | 35.0213 | 135.7624 | |
01 | ▼ 京都御苑 今出川御門 | 35.0289 | 135.7623 |
02 | ▼ 京都御苑 乾御門 | 35.0274 | 135.7596 |
03 | ▼ 京都御苑 蛤御門 | 35.0231 | 135.7595 |
04 | ▼ 京都御苑 下立売御門 | 35.0194 | 135.7595 |
05 | ▼ 京都御苑 堺町御門 | 35.0177 | 135.7631 |
06 | ▼ 京都御苑 寺町御門 | 35.0199 | 135.7669 |
07 | ▼ 京都御苑 清和院御門 | 35.0232 | 135.7668 |
08 | ▼ 京都御苑 石薬師御門 | 35.0277 | 135.7667 |
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