清水寺
北法相宗総本山 音羽山 清水寺(きよみずでら) 2008年05月16日訪問 清水寺 子安塔から眺めた本堂 7日目は東山を廻ることとしている。最初に清水寺に入り、ここから産寧坂・二年坂を歩き、建仁寺、高台寺、そして円山公園を超えて知恩院、青蓮院を拝観した後に、小川治兵衛が作庭した並河靖之七宝記念館を見学する。ここは月曜日と木曜日は休館日となっているの。南禅寺を拝観した月曜日には閉まっていたので、本日の予定に組み入れた。見学後、市営バスで東大路通を南下し七条に出る。智積院、蓮華王院、豊国神社を拝観後、豊国廟に向かう、相変わらずの詰め込みすぎの予定である。七条から順に北へ上っていけば好いよう… ►続きを読む
洛東の町並み その3 木屋町通 3
洛東の町並み(らくとうのまちなみ) その3 木屋町通 3 2008/05/15訪問 高瀬川 元立誠小学校前から南側を眺める 高瀬川沿いの木屋町通を二条通から四条通に向かって歩く。 北は二条通から南は七条通まで続く全長約2.2キロメートルの南北路。江戸初期、豪商の角倉了以が開削し周辺を造成したのがこの地の繁栄の始まりとなっている。高瀬川から運ばれる木材や薪などの木を扱う店が多かったことが通りの名前の由来である。 佐久間象山の寓居跡を過ぎ、さらに南に下ると武市瑞山先生寓居跡と吉村寅太郎寓居址の碑が並ぶ。 武市瑞山先生寓居跡 現在は金茶寮 昔は丹虎 武市半平太は土佐藩の郷士・武市… ►続きを読む
洛東の町並み その2 木屋町通 2
洛東の町並み(らくとうのまちなみ) その2 木屋町通 2 2008/05/15訪問 高瀬川の西岸にある大村益次郎卿遭難碑と象山先生遭難碑 高瀬川沿いの木屋町通を二条通から四条通に向かって歩く。 北は二条通から南は七条通まで続く全長約2.2キロメートルの南北路。江戸初期、豪商の角倉了以が開削し周辺を造成したのがこの地の繁栄の始まりとなっている。高瀬川から運ばれる木材や薪などの木を扱う店が多かったことが通りの名前の由来である。 高瀬川一之舟入 奥に押小路通沿いの建物の背面が見える 2005年8月16日撮影 押小路通の街並み 北条別邸 逍遥遊 何の碑か? 一之舟入の南… ►続きを読む
洛東の町並み 木屋町通
洛東の町並み(らくとうのまちなみ) その1 木屋町通 2008/05/15訪問 高瀬川一之舟入 2005年8月16日撮影 高瀬川沿いの木屋町通を二条通から四条通に向かって歩く。 北は二条通から南は七条通まで続く全長約2.2キロメートルの南北路。江戸初期、豪商の角倉了以が開削し周辺を造成したのがこの地の繁栄の始まりとなっている。高瀬川から運ばれる木材や薪などの木を扱う店が多かったことが通りの名前の由来である。 木屋町通は二条通から始まる。このあたりは先斗町や三条あたりの喧騒とした雰囲気はない。 ホテルフジタ京都 鴨川側の外観 2005年8月16日撮影 二条通の北側、鴨川沿… ►続きを読む
善導寺
浄土宗知恩院派 真光明院 善導寺(ぜんどうじ) 2008/05/15訪問 善導寺 ビルの間の竜宮門 木屋町通と二条通が交差する北側に善導寺の竜宮門が見える。浄土宗知恩院派・真光明院善導寺。永禄年間(1558~1569)筑後の善導寺の憎・然誉清善和尚によって六角堂附近に創立されたが、天明8年(1788)の天明の大火で焼失する。第4世旭誉のときに、長谷川重兵衛の寄進によってこの地に移る。江戸時代末期までは摂政院、宝昌院、清香院の3塔頭を有する大寺であったが、現在は廃絶し残っていない。境内には嵯峨釈迦堂の本尊を模した釈迦三尊石仏がある。高さ1メートルほどの自然石に三尊の立像を半肉彫りにしたも… ►続きを読む
ホテルフジタ京都
ホテルフジタ京都(ほてるふじたきょうと) 2008/05/15訪問 ホテルフジタ京都 鴨川側の外観 撮影2005/08/16 鴨川にかかる二条大橋の西詰めに吉村順三設計による昭和45年(1970)竣工のホテルフジタ京都が建つ。こちらのホテルには一度予約を入れたことがあったが、三宮で阪神大震災に遭い、神戸から京都へ移動することができず、泣く泣くキャンセルの電話を入れた思い出がある。残念ながら今回もこちらに宿泊する予定を組むことができなかった。またいつか機会があれば一度訪れてみたいと思う。ホテルフジタ京都の敷地の北端に、藤田伝三郎の別邸 夷川邸が残されている。 藤田伝三郎は明治期の関西… ►続きを読む
島津創業記念資料館
島津創業記念資料館(しまづそうぎょうきねんしりょうかん) 2008/05/15訪問 島津創業記念資料館 善導寺の斜め前には国登録有形文化財の島津創業記念資料館が建つ。建物は明治27年(1894)竣工の北棟と明治21年(1888)竣工の南棟から構成される。 島津製作所の創設者である初代島津源蔵は天保10年(1839)に京都の醒ヶ井魚棚、現在の堀川六条付近で仏具師であった島津清兵衛の次男として生まれる。源蔵は万延元年(1860)21歳で木屋町二条に出店している。この時、家業の仏具師ではなく鍛冶工であったようだ。この地は高瀬川の終着点に近く、重要な流通拠点であった。京都府は殖産興業のため明… ►続きを読む
高瀬川源流庭苑
高瀬川源流庭苑(たかせがわげんりゅうていえん) 2008/05/15訪問 高瀬川源流庭苑 門の中ににある山縣有朋第二無鄰菴跡の碑 島津製作所の前には、現在は「がんこ 高瀬川二条苑」となっているが、かつてここには山縣有朋の第二無鄰菴があった。無鄰菴の項でも書いたように、山縣は普請道楽で造園好きとしても知られ、生涯で無鄰菴という名の邸宅を三つも造っている。 最初の無鄰菴は長州下関の草庵であった。閑静な場所に建てられ、隣家がない様から無鄰菴と名付けられた。 2番目は慶長16年(1611)、豪商・角倉了以によって作られた木屋町二条の鴨川近くの邸宅跡を明治24年(1891)に購入し、第二無鄰菴と… ►続きを読む
吉村寅太郎寓居址
吉村寅太郎寓居址(よしむらとらたろうぐうきょのあと) 2008/05/15訪問 吉村寅太郎寓居址の碑 木屋町通三条上るの武市瑞山先生寓居跡の碑が建つ金茶寮の南側隣地に、吉村寅太郎寓居址の碑がある。1階部分が道路から少しセットバックし、前庭のように設えられている中に置かれているため、少し見づらい状況になっている。また何故だか分からないが、狸の焼き物も置かれている。 この碑も含めて「吉村寅太郎」と書かれたものを多く見てきた。しかし自ら虎太郎という文字を多用していたと言われているので、ここでは虎太郎という表記を使う。 吉村虎太郎は天保8年(1837)土佐国高岡郡芳生野村(現在の高知県高岡郡… ►続きを読む
武市瑞山先生寓居跡
武市瑞山先生寓居跡(たけちずいざんせんせいぐうきょのあと) 2008/05/15訪問 武市瑞山先生寓居跡 木屋町通三条上るにある京料理・金茶寮の門前には、ちりめん洋服発祥の地 の碑とともに武市瑞山先生寓居跡の碑が建っている。先斗町通は三条通で終わっているため、木屋町通の東側にあるこの金茶寮は鴨川に面し、納涼床を売り物としている。この店のHP(https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/na081.html : リンク先が無くなりました )には、この地に武市半平太が在洛中に滞在していた料亭・四国屋丹虎があり、その… ►続きを読む
桂小五郎・幾松寓居跡
桂小五郎・幾松寓居跡(かつらこごろう・いくまつぐうきょあと) 2008/05/15訪問 桂小五郎・幾松寓居跡 三条小橋から木屋町通を北に進むと大村益次郎卿遭難碑と象山先生遭難碑が高瀬川の西岸に建つ。丁度2つの碑の正面に料亭旅館幾松があり、その門前に桂小五郎・幾松寓居跡の碑がある。 弘化3年(1846)新陰流剣術内藤作兵衛の道場に入門し、剣術を学ぶ。嘉永元年(1848)元服して和田小五郎から大組士桂小五郎となる。これ以降、剣術修行に人一倍精を出し、腕を上げ、実力を認められ始める。 小五郎は嘉永2年(1849)吉田松陰に出会い、兵学を学んでいる。この時期、松陰は長州沿岸の防備視察を行って… ►続きを読む
大村益次郎卿遭難碑
大村益次郎卿遭難碑(おおむらますじろうきょうそうなんひ) 2008/05/15訪問 大村益次郎卿遭難碑 三条小橋の東橋詰の「佐久間象山・大村益次郎遭難碑北へ約一町」の道標に従い、木屋町通を進むと象山先生遭難碑の左脇に大村益次郎卿遭難碑が建つ。木屋町通から高瀬川を隔てた対岸、すなわち高瀬川の西岸の高台にある。高瀬川沿いには桜の木が植えられているので、桜の開花時期から新緑の季節に訪れると碑が隠れていて見えないかもしれない。前から象山先生遭難碑も含めて碑の近くに出る経路がないか対岸から探してみているが、どうも通行の許されるものは、無いらいしい。そのためこの2つの碑は木屋町通の歩道から眺めるも… ►続きを読む
象山先生遭難碑
象山先生遭難碑(しょうざんせんせいそうなんひ) 2008/05/15訪問 象山先生遭難碑 三条小橋の東橋詰に、「佐久間象山・大村益次郎遭難碑北へ約一町」の道標が建つ。三条通と木屋町通の交差部分にあるため、多くの人の目に触れるものとなっている。私が初めてこの碑を見たのはかなり昔のことになるが、道標としてはかなり立派なものであったためか、この場所で暗殺が行われたと思い込んでいた。この碑は昭和10年(1935)老舗料亭・新三浦の白井凌三が建てている。御池通の先にある「象山先生遭難碑」が大正4年(1915)、その脇にある「大村益次郎卿遭難碑」が昭和9年(1934)に建立されている。年代的には、… ►続きを読む
池田屋騒動址
池田屋騒動址(いけだやそうどうのあと) 2008/05/15訪問 池田屋騒動址 三条通が高瀬川に交わる三条小橋から西に4軒目(空地があるので実質的には5軒目となる)、明治屋京都ビルディングの東隣の店先に池田屋騒動址の碑が建つ。訪問したときも店は閉じられ、管理地の看板が出ていた。確か以前訪れた時はパチンコ屋だったような記憶が残っている。碑のほかにも三条小橋商店街振興組合の設置した説明板が建てられていた。ここは現在、「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」となっていると聞く。なお店内には映画などの階段落ちのシーンで知られる7メートルの大階段とともに、東映の監修で当時の池田屋旅館の帳場が再現されている… ►続きを読む
本間精一郎遭難地
本間精一郎遭難地(ほんませいいちろうそうなんのち) 2008/05/15訪問 本間精一郎遭難地 四条通から高瀬川の流れを見ながら木屋町通を北に入る。三本目の橋が紙屋橋と呼ばれているように、高瀬川の西側は紙屋町、東側は下樵木町となっている。現在、紙屋橋の正面にはガレージと小さな木戸がある。その北側の小野という表札のかかる町家の脇に本間精一郎遭難地と書かれた碑が建つ。 本間精一郎は天保5年(1834)越後国三島郡寺泊で酢・醤油の醸造を営む「かくほん」という屋号の豪商の長男として生まれる。嘉永6年(1853)6月ペリーが4隻の軍艦を従えて浦賀に来航したのは、精一郎が20歳の時であった。 郷里… ►続きを読む
一保堂茶舗
一保堂茶舗(いっぽどうさほ) 2008/05/15訪問 一保堂茶舗 寺町通の店構え 京都御苑から寺町通を南に下ると、夷川通の先に一保堂茶舗の大きな建物が現れる。言わずと知れた日本茶の専門店である。まず贈答品でお茶となれば最初に思いつく店でもある。 一保堂が扱うお茶は、いわゆる京銘茶と呼ばれるものである。特に木津川、宇治川両水系の気候で栽培され、宇治発祥の宇治製法でつくられたお茶を中心としているため、穏やかな香りと上品な甘み、まろやかな味わいを特徴としている。お茶は自然の産物であるため、同じ産地でも年毎に異なる気候により茶葉の風味も変わる。そのため吟味して仕入れた茶葉でも1年を通して味が… ►続きを読む
瑞泉寺
浄土宗西山禅林寺派 瑞泉寺(ずいせんじ) 2008/05/15訪問 瑞泉寺 秀次の墓所 三条通から木屋町通に入った所に瑞泉寺がある。木屋町三条の歓楽街の真ん中にある寺院であるが、境内は嘘の様に静寂である。 瑞泉寺 関白の墓所とは思えないほど小さな山門 瑞泉寺 提灯には政権担当者の紋章である五七桐 天正14年(1586)豊臣秀吉は奈良の東大寺に倣い大仏建立を開始した。文禄4年(1595)には、ほぼ大仏殿方広寺が完成し高さ6丈(約18メートル)の木製金漆塗座像が安置された。しかし翌慶長元年(1596)畿内を襲った大地震のため大仏は大破、そして秀吉も慶長3年(1598)に死去す… ►続きを読む
高瀬川
高瀬川(たかせがわ) 2008/05/15訪問 高瀬川 一之舟入 高瀬川は慶長19年(1614)に、京都の中心部と伏見を結ぶために角倉了以・素庵父子が開削した運河である。高瀬川の名前は、輸送に使われた平底の舟を高瀬舟と呼んでいたことから付けられたものであり,角倉川ともいわれていた。 角倉家は室町幕府に仕える医者の家系であったが、了以の祖父・宗忠が商人の手腕を発揮し、帯を独占的に販売する組合である帯座の座頭職を手に入れ、その資金をもとに現在の金融業である土倉業を営むようになった。その後、次男の宗桂は土倉業を引き継ぐ傍ら、天文年間に2度も明に渡り、中国の先進医術を学んでいる。 角倉了以は天… ►続きを読む
原了郭
原了郭(はらりょうかく) 2008/05/15訪問 原了郭 既に店を閉めた後 2008年5月12日撮影 四条大橋を渡り、八坂神社に向う四条通の北側、有名な一力茶屋の斜め向かいに原了郭の店舗がある。それほど間口の広くないビルの1階の片隅に入った店舗であるため、四条通を探しながら歩いても通り過ぎてしまうことがある。ビル名称が祇園了郭ビルとあるので、自社ビルなのかもしれない。実際に何回か四条通を東西に行き来した記憶がある。またこの店は木曜定休日なので、時々定休日に訪れ、店を見つけることが出来なかったのかもしれない。今回も訪問日が木曜日だったので、お土産は四条河原町の京都高島屋の地下売場で購入… ►続きを読む
三嶋亭
三嶋亭(みしまてい) 2008/05/15訪問 三嶋亭 葵祭を堺町御門の前で見終えた後、富小路を南に下り三条通に出る。12時少し前に三条通と寺町通の角にある三嶋亭に入る。現在は寺町通と三条通のアーケードに囲まれているため、建物は壁面しか見ることが出来ないが、明治の名残りをとどめるガス燈がこの店の歴史を語っている。 三嶋亭 玄関の横には肉の販売店もある 三嶋亭 左へも店舗は続く 江戸時代まで肉食はタブーとされていたが、幕末となると長崎などから徐々に流入していた。そのような時代に三嶋亭の初代三嶌兼吉は妻と共に長崎で牛鍋を学んだ後、明治6年(1874)現在の寺町通三条角で三嶋亭… ►続きを読む