積善院
積善院(せきぜんいん) 2008年05月17日訪問
聖護院門跡の東隣には、五大力尊の赤い幟が立つ積善院がある。五大力とは、不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王の五つの明王の総称である。毎年2月23日には五大力尊法要が行われている。
積善院は聖護院の塔頭寺院で鎌倉時代初期の創建と伝わる。聖護院門跡が支配していた本山派山伏の統括事務を代行する院家で栴ノ坊(なぎのぼう)と呼ばれていた。元々は熊野神社の西北、現在の京都大学医学部付属病院のあたりにあった。
凖提堂は江戸時代に建立された準提観音を本尊とする寺院で、熊野神社の東南にあった。
明治の初めに積善院と凖提堂の2つの寺院が合併し、大正3年(1914)に建物を現在地に移転している。そのため元の準提堂を本堂として準提堂の本尊だった準提観音と積善院の本尊だった不動明王を合祀し、本堂の西にある積善院本堂には、役の行者像や阿弥陀如来像を祀っている。
境内には元は聖護院の森の西北にあった崇徳院地蔵が祀られている。この地蔵は人食い地蔵とも呼ばれている。「すとくいん」が訛って「ひとくい」になったとも言われているが、あまりにも生々しい名である。
崇徳天皇は元永2年(1119)に鳥羽天皇の第一皇子として生まれ、5歳で皇位に就く。父から疎まれ、永治2年(1142)院政を封印される形で異母弟である近衛天皇に譲位することとなる。さらに病弱であった近衛天皇が没すると、鳥羽天皇の第四皇子である後白河天皇に皇位は移る。保元元年(1156)7月2日鳥羽上皇が崩御すると崇徳上皇と後白河天皇の軋轢はさらに拡大する。同年7月9日夜、崇徳上皇は白河北殿に移り、藤原頼長とともに平忠正、平家弘、源為義ら武士を召集し、武力を以って天皇方を討とうとした。いわゆる保元の乱の始まりであった。天皇方は東三条殿に本陣を置き、後白河天皇は高松殿にあった。兵力的には圧倒的に天皇方が有利であった。後白河天皇を守る平清盛・源義朝・源義康らは7月11日未明、白河殿へ奇襲攻撃をかけ崇徳上皇方を敗走させた。頼長は矢傷により6日後に死亡、忠正・家弘・為義は捕縛の後に処刑、崇徳上皇は仁和寺に入って髪を下ろし、後白河天皇の下に出頭したものの許されず、讃岐国に流刑に処された。「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と恨みを残し長寛2年(1164)讃岐で崩御する。
崇徳上皇の死後、勝者である二条天皇、近衛基実らが若くして他界し、都でも安元3年(1177)に太郎焼亡、そして治承3年(1179)には次郎焼亡の2度の大火や養和の飢饉(養和元年(1181))が起こる。そして平家の都落ちの後、木曾義仲による暴虐と凶事が連続する。そして治承・寿永の乱(源平の戦い)を経て鎌倉幕府が成立する。
治承元年(1177)中宮平徳子の懐妊に伴い怨霊の鎮魂によって安産祈願すべく、崇徳の諡号が定められる。同日に藤原頼長にも従一位太政大臣を追贈される。寿永2年(1183)保元の乱の古戦場である春日河原に崇徳天皇廟が設置される。
そして鎌倉3代将軍・源実朝の暗殺後に起こる将軍継嗣問題に端を発し、後鳥羽上皇と執権・北条義時の緊張は高まる。後鳥羽上皇は討幕の意志を固め、順徳天皇も承久3年(1221)に懐成親王に譲位し、これに従う。土御門上皇や摂政近衛家実や多くの公卿達も反対の中、朝廷と幕府の対決は不可避の情勢となり、承久3年(1221)上皇の挙兵によって承久の乱が始まる。乱はほぼ2ヶ月で平定され、後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島に配流される。後鳥羽上皇の子孫の皇位継承は認めないという方針により、順徳天皇から譲位を受けた仲恭天皇は廃され、後鳥羽上皇の兄の子に当たる後堀河天皇に皇位は移された。承久の乱の後、朝廷は幕府に完全に従属することとなる。これらを崇徳の祟りが起こったと恐れ、御霊信仰に結びついていった。
中京区姉小路通釜座東入ル北側に高松神明社がある。この地は醍醐天皇の皇子・源高明の邸宅であったが、高明の娘で藤原道長の妻となった明子が伝領し高松殿と称された。その後、嘉保2年(1095)白河上皇の院御所となる。その所有者は院近臣の藤原顕季であった。康和5年(1103)鳥羽天皇の誕生とともに、祝儀が当殿で挙行され、鳥羽上皇の院御所ともなる。久寿2年(1155)後白河法皇はこの地で位につき、以後里内裏となる。そして保元の乱で、天皇方の拠点となり平清盛や源義朝が参集する。高松神明社の前には高松殿の跡を示すこの石標が残されている。 左京区丸太町通東大路西入南側の京都大学熊野寮内には白河法皇が造営した御所・白河北殿跡の石碑がある。南本御所に対して北殿や北新御所と称されている。その後は上西門院の御所となるが,保元元年(1156)に崇徳上皇方の拠点となる。平清盛らの軍勢の攻撃によって焼失する。現在の熊野神社の南西に位置する。保元の乱の古戦場である春日河原に建てられた崇徳天皇廟は後の時代には粟田宮と呼ばれているが、これは建久3年(1241)以降、廟が粟田宮にあったことから名付けられている。ただし粟田宮は当初の廟と同一のものかは分からない。春日河原に建てられた崇徳天皇廟は、崇徳院地蔵があったと現在の京都大学医学部付属病院の敷地に建てられたと考えられている。そして崇徳院地蔵は明治に入って積善院に移された。このあたりの崇徳天皇廟については、平安京探偵団の崇徳院の怨霊のゆくえに詳しくし記されているのでご参考に。
境内に残されているもう一つの石碑は、昭和27年(1952)に豊竹山城少椽らの発起によって建てられた「お俊伝兵衛恋情塚」である。浄瑠璃「近頃河原達引」のモデルとなった釜座三条の呉服商 井筒屋伝兵衛と先斗町近江屋の遊女 お俊の聖護院の森での心中に関わるものである。この心中事件が何時頃のことであったかについてHPなどでいろいろ書かれているが、聖護院の公式HPでは享保19年(1734)11月16日としている。
幕府は享保7年(1723)に心中物の上演を禁じているが、お俊と庄兵衛の心中事件は、様々な媒体で流布される。外題の達引とはもめごとや喧嘩のことであり、「この間の四条河原の喧嘩」という意味となる。
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