京都御苑 凝華洞跡 その3
京都御苑 凝華洞跡(きょうとぎょえん ぎょうかどうあと)その3 2010年1月17日訪問
京都御苑 凝華洞跡 その2では元治元年(1864)春から福原、国司、益田三家老の出陣までを書いてきた。この項では甲子戦争の開戦に至る経緯を見ていく。
長州藩の世論が進発へ傾いて行ったことについて、元よりの賛成派であった来嶋又兵衛や池田屋事件といった突発的な衝突を除けば、京都で政情を観てきた久坂玄瑞の意見陳述が最終段階での後押しとなったと云ってもよいだろう。もともと長州藩は根来上総や井原主計の雪冤運動と共に、世子が率兵して上京するという2つの方向で、朝廷政治においての自らの立場の回復を探っていたことは明らかである。
八月十八日の政変以降、久坂玄瑞は3回京都と山口の間を往復している。最初が政変直後の文久3年(1863)9月23日の帰藩で、11月8日に井原主計に従い雪冤運動の支援を行うため上国に戻っている。次が元治元年(1864)3月19日に上京の延期を述べるために帰国している。参預会議が崩壊しつつあるものの、将軍を始め薩摩、越前、宇和島などの列藩の首脳が京に集結していた。この時期に国司信濃が武装して上京することは否であると説き、末家家老を京都に召すことで議論は決している。同月25日には末家家老上京を請う書と藩主陳情の親書を携え上京の途についた。この時、来嶋又兵衛以下12人の遊撃・干城の二隊の隊士が同行している。
そして最後となったのが5月16日の出京であった。4月11日に伊達宗城、18日には島津久光、翌19日に松平春嶽が退京している。そして上洛中の将軍・徳川家茂も5月2日に参内、暇乞いを行い、7日に大阪城に入っている。将軍が大阪湾を出て江戸へ海路で向かったのは5月16日の事であったが、その前より将軍東帰の情報は久坂の許に入っていた。久坂玄瑞はここに至り武備上京の機会が訪れたと考え、国許で出兵を説くための帰国でもあった。5月27日、久坂は山口に戻る。藩論は進発に固まり6月4日に世子の率兵上京の命が下りる。久坂は真木和泉と共に総官となり忠勇・集義・八幡・義勇・宣徳・尚義の諸隊300余名を統帥し、6月16日に三田尻を出航している。これが久坂にとって最後の上京となる。
同月21日に大阪に到着し大阪藩邸に入り、24日未明には淀川を遡り前島村(高槻市前島)に上陸し山崎に入っている。忠勇隊を天王山、集義一隊・八幡二隊を離宮八幡、宣徳・尚義の諸隊を大念寺、義勇隊を観音寺に配置し天王山及び寶寺を中軍の本陣に定め力士隊に守らせている。
久坂玄瑞は6月24日付で真木和泉、中村圓太、寺島忠三郎、入江九一連署の哀願書を作成し、これを淀藩主・稲葉正邦に託し天覧に達することを望んだ。この「天下之禍変目睫ニ差迫候ニ付テハ回天之大猛断ヲ以撻伐膺之御大典速不被為挙候ハテハ三千年来宇内ニ卓立タル神州モ髯虜被髪之域ト相成可申ハ秦鏡ヲ以照シ見ルカ如ク不堪杞憂草莽螻蟻之微臣共非分ヲ忘却不暇憚忌諱石清水八幡祠前ニ産籠仕血誠ヲ縷述シ奉奏言候」から始まる書は「孝明天皇紀 第五」(平安神宮 1969年刊)の6月27日の条、あるいは「野史台 維新史料叢書 五 上書3」(東京大学出版会 1974年刊)に真木保臣中村圓太入江九一久坂義助寺島忠三郎建白(元治元年六月二十四日)として所収されている。ここでは、草莽微臣として濱忠太郎=真木和泉、松野三平=久坂玄瑞、野唯人=中村圓太、牛敷春三郎=寺島忠三郎という変名を用いている。稲葉正邦は一橋慶喜の旅館を訪れこれを示し、一橋は中川宮及び議奏伝奏の両役に諮り朝議を開いている。公卿諸官は長州藩に対して寛大な処置を行うことで天下の大乱を回避すべしとしたが、中川宮と会津桑名両藩は、後日大害を招くこととなるので断然たる処分を主張した。しかし一橋慶喜、稲葉正邦、二条関白は、一掃するのではなく説諭し幕府の信義を天下に示すべしとし、これに決している。
朝廷への哀願書と共に在京の諸藩宛に上達の労を御長居する依頼書を送っている。これには長門宰相家来 濱忠太郎 入江九一という署名が入っている。濱を名乗る真木和泉は久留米藩水天宮の祠官であり、長州藩士ではない。先ず備前、津和野、対州の三藩と謀り、十余藩の留守居役が会し長州藩のために働きがけを行うことを決している。各藩が幕府に奉った書には、毛利家の忠誠を諒としその過失を赦すことが国内の分裂を防ぐことにつながるという旨が記されていた。
また児島百之助、河島小太郎名でも「孝明天皇紀」の6月27日の条に収録されている「癸丑以来無勿体モ十余年之久敷九重之内日夜被為悩宸襟候」から始まる書を在京諸藩邸に送っている。児島と河島は「私共河原町屋敷相詰罷在候処此度国元之者石清水へ参籠別書之趣嘆願仕候由承知仕候然処別書旨趣ニ於テ在京之者ト雖モ元ヨリ同論同意之儀」と述べているので、あくまでも在京長州藩士として京での政情を理解した上での書としている。引用文中の別書とは「癸丑以来」である。
会津藩側の「七年史」(「続日本史籍協会叢書 七年史 二」(東京大学出版会 1904年発行 1978年覆刻))によれば児島は久坂、河島は入江とし、その回覧先を紀州、尾州、水戸、対州、肥前、筑前、米沢、松山、阿州、越前、備前、芸州、因州、南部、津和野、福山としている。ただし「近世日本国民史」(「元治甲子禁門の変」(時事通信社出版局 1962年刊))で蘇峰は筆者を久坂と入江に特定せず、そのような在京者が存在した可能性も示している。何れにしても長州藩は、ただ武力によって恐怖を与えるのではなく、朝廷そして諸藩に対して自らの正当性を訴え、自らの大義を明らかにしようとした。つまり山崎、伏見、嵯峨に単に軍勢を配備しただけではなく、京都政局の裏側では多数派工作を怠っていなかったことが分かる。
「七年史」の6月27日の条によれば、当時松平容保は病床にあり、清和院門からの参内が赦されていた。勅命により御花畑が御貸し渡しとなったため、容保はこの夜より凝華洞を仮寓としている。中山忠能、正親町三条實愛、飛鳥井雅典、柳原光愛は容保が乗鞍のまま宮門に入り御花畑を拝借したことを糾弾したが、二条関白は取り合わなかった。このように七卿の都落ち以降でも、朝廷内に長州藩同情者が存在していた。
この27日に先の児島百之助、河島小太郎名の願書が勧修寺経理より提出されたため、評定が行われた。松平容保は討伐を主張したが、正親町三条實愛の毛利父子一人を召し叡慮を諭し、悔悟すれば勅勘を免じてもよいという意見が大勢を占め、評定が決するかに見えた。夜に入り一橋慶喜が参内し、速やかに兵を引き払うことが第一であり、朝議で父子の召喚を決すれば、慶喜、容保共に辞表を出すと主張した。朝議は決せず中川宮は勅書を賜れた。勅書には四項目あり、簡潔に書くならば、八月十八日以降の勅は自らの意思であること、大和行幸は延引したこと、十八日の政変は守護職に申付けたことであり私情で行われたものでないこと、そして長州人入京は宜しからずとあった。蘇峰は「近世日本国民史」で「此の如く至尊の思召が、全く一橋・会津と御一致あらせらるゝに於ては、如何に在朝の公卿中に、長州同情者ありとても、到底手を著くる余地は無かったものと察せらるゝ」と纏めている。
上記のように主上の一橋慶喜、松平容保に対する信頼が篤いため、朝廷内での表立った長州支援はできなかったものの、京にある諸藩の長州に対する同情、あるいは内戦を回避しようという想いは高まっていたことは間違いない。さらに朝廷より討伐令が出ない限り開戦はなく、一会桑も直ちに討伐令を請求できない状況にあることを長州側は知っていた。少なくとも世子と五卿が国元から進発して合流するまで、この状況を一日でも長く伸ばすことが優位につながると理解していた、そのため言論戦を持続した。7月朔日にも、福原越後は勧修寺家と京都所司代に書を送っている。元々、福原越後は関東に赴き幕府に対して陳情するために山口を出たことになっている。しかし伏見に留まっている理由を述べている。さらに福原軍の入京を願い出ている。これらは聞き入れられる見込みがないことを頼んでいるに過ぎない。また同日に幕府に対して天龍寺駐屯の釈明も行っている。つまり福原軍から来嶋又兵衛等が天龍寺に移ったのは、その前日に京藩邸から脱走した者どもを鎮静するための目的であるとしている。これらの福原の釈明は決して哀願ではなく、武力を伴った脅しでもあった。
一橋慶喜は29日に目付・羽太庄左衛門を伏見に送り、福原越後に勅命の趣を伝え、山崎・嵯峨に屯集している兵を諭し速やかに退去するように求めている。福原は真木和泉や入江九一を伏見に招き協議を行ったが、真木等は勅命を信ぜず幕吏の作文と見なした。更に慶喜は7月3日に大目付・永井尚志と目付・戸川忠愛を伏見に遣り朝命を以って福原越後を召したが、福原は病を理由に1日延期し、使者を山崎に送り真木、久坂等と応接の打ち合わせを行った。翌4日、福原は伏見奉行所に赴き、永井より論書を受けている。
また6日には一橋慶喜の意を受けた因州・芸州・筑前・備前・対州・津和野の6藩士が福原越後を訪ね、7月8日を以っての撤兵を申し入れている。さらに翌7日に対州・因州・芸州の留守居役を伏見に送り、12日を期して撤兵することを通告している。福原は真木、来嶋、久坂等と協議し、一旦は山崎の兵を大阪まで下げ世子及び五卿の着阪を待つとした。しかし真木と来嶋の反対により、粟生光明寺の兵を山崎に合流させることに留まった。
国司・福原等は、さらに退去の命が奉じ難き所以を陳じ、陳情書2通、長防士民嘆願書を稲葉正邦に呈している。この2通の陳情書は、いずれも「孝明天皇紀」に掲載されている。1通は「去秋以来三条殿以下宰相父子奉蒙勅勘大凡一个年於国方恐慎被罷在候有様何分ニモ難忍痛歎」から始まるもので、7月8日付で濱忠太郎 松野三平 野唯人 牛敷春三郎 入江九一の連署である。「去年八月以来押来候衷情ニ候ヘハ三条殿以下并宰相父子心事相達候迄ハ無幾度歎願申上一人タリトモ生還仕候心得更ニ無之候」とは不退転の意気込みが現われている。
いま1通は「草莽卑賤之倍臣威厳ヲ不奉憚近畿之地迄推参仕歎願申上候処兵器ヲ携候テ不穏之趣於長州ハ勤王之志情深厚候処齟齬仕候間早々可令帰国ト之御事重々奉恐入候」から始まるもので、前文より長文となっている。これもまた草莽微臣 濱忠太郎 松野三平 野唯人 牛敷春三郎 入江九一の連署である。先ず京都近郊まで出張した所以を述べ、毛利父子及び三条公以下の五卿の勅勘宥免を望んでいる。またペリー来航以来の開国の弊害を挙げ、毛利父子及び三条公以下がいかに攘夷を行ってきたかを訴え、文久3年8月18日以降の国是変更を憂えている。その上で池田屋事件を例に挙げ自衛のための武装の正当性を訴えている。これは哀訴でも嘆願でもなく自らの行動の正当性を訴えるものとなっている。
最後の1通は長防両国之士民が差出人で「孝明天皇紀」にはないが、「近世日本国民史」に掲載されている。「乍恐長門周防両国之士民一同奉歎願候」から始まる嘆願書の形式をとっているものの、こちらも哀訴ではなく幕府の失政を攻撃する書となっている。この3通は10日に因州邸に依頼し、因州、芸州、桑名、福山、二本松、肥後、富山、大聖寺、佐土原、岡、大洲、宇都宮、新谷、筑前、対州、備前、津和野等の諸藩へ回送している。これは長州藩の正当性を理解し、支援に加わること期待したものであっただろう。この宣伝戦において長州藩は幕府側と比べ、明らかに勝っていたといってもよいだろう。
このようなやり取りが行われている中で、国司信濃と児玉小民部が兵800を率いて、7月8日に兵庫着、児玉は兵の一部を分かち尼崎から上陸し、夜を徹して嵯峨に入る。国司は大阪に至り、一泊して9日に山崎に到着し福原越後と会見している。益田右衛門介も兵600を率いて6日に長州を発ち13日に大阪に入り、淀川を遡って山崎に向かった。一方薩摩藩も兵400余人を7月12日に入京させている。双方ともに7月15日頃には一応の戦力が整いつつあった。そして山口より世子・毛利定廣と三条実美を始めとする五卿が上京の途についたのは7月13日であった。ただしその行程は思う通りにはならなかった。
7月15日、橋本實麗、西園寺公望、交野時万、清閑寺豊房、櫛笥隆韶、園基祥、飛鳥井雅望、綾小路有良、豊岡健資、坊城俊政、万里小路通房が連署し、毛利父子の入京を請う書を提出している。既に7月5日には、大炊御門家信、庭田重胤、石山基文、石山基正、五辻安仲の上書、同9日に北小路従光、石山基文、植松雅言、高辻修長、五条為栄、平松時厚、石山基正、風見公紀、五辻安仲の建言、そして12日に再び大炊御門家信、中山忠能以下56人の上書が提出されている。この7月15日の橋本實麗、西園寺公望等の上書は、12日の大炊御門家信の一部を引用するように繰り返しているが、以下のように佐久間修理(象山)暗殺の件にも触れている。
且又巷説には候へ共、佐久間修理と申す者、此頃被斬戮候始末、實に切歯之至に候
佐久間象山は、会津藩と通じ鳳輦を彦根城に移すという策を建言したために暗殺されたという噂が広まっているためである。いずれも長州藩に同情的な公家は特に下級な者も多く、普段ならば朝議に影響を与えることができない者たちの発言でもある。このように日を追うにつれて朝廷内でも長州藩同情派の声が大きくなってきた。そして7月17日には事態が切迫したことを受けて、再び大炊御門家信等58人連署して長州藩のために寛大な処分を請う書を提出している。
7月13日、一橋慶喜は京都長州藩邸留守居役の乃美織江を召し因州と対州の藩士と共に福原越後等の大阪退去を諭す。さらに16日には大目付永井尚志と目付戸田忠愛を伏見に送り、福原越後を伏見奉行所に召し、17日を以って退去するように諭さすが、その日福原は病と称して出頭せず、翌17日に奉行所に出でている。
一橋慶喜は最終段階まで、長州藩が自らの意思で退京するように働きかけてきた。慶喜は長州藩が入京を諦めることはないと確信していただろう。しかし朝議において長州藩討伐が決しない限り、武力行使が難しいこと、その期が熟することを待つ中で考えられる工作を行ったという証拠作りとも云える。そのような一橋慶喜の姿は、最も強硬派の会津藩には武力討伐に踏み切れず優柔不断と見えただろう。甲子戦争が終結した後から顧みると、戦端は長州側から切り落とされたことが事実として残り、慶喜は最後まで解決への努力を払ったということになる。
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