京都御苑 凝華洞跡 その5
京都御苑 凝華洞跡(きょうとぎょえん ぎょうかどうあと)その5 2010年1月17日訪問
京都御苑 凝華洞跡 その4では甲子戦争前夜の薩摩藩の動向について見て来た。既に薩摩にとって幕府の存在は無きも同然であり、朝廷を守護することこそが大義であり行動原則でもあった。このあたりが幕府と対立構造の上に存在意義を求めた長州藩とは思考自体が異なっていたと云ってもよいだろう。この項では朝議が長州藩討伐に決する過程から甲子戦争の開戦となった福原越後軍の交戦状況までを見ていく。
「朝彦親王日記」(「日本史籍協会叢書 朝彦親王日記 一」(東京大学出版会 1929年発行 1982年覆刻))は、甲子戦争が避けられることができなくなった7月15日から突然始まっている。緒言にあるように原本は宮家火災の際に焼失しており、日本史籍協会叢書は帝室臨時編集局及維新史料編纂会にあった副本の内、維新史料編纂会所蔵本を元に作成されている。これを見ると7月15日に参内している。これは山階宮を勅使として、福原越後を勧修寺門跡の里坊に召し京都から退去することを命令するということであったが、実際には実行に移されなかった。翌16日には来客が多かったようだ。先ず「御牧入来之事」とある。徳田武氏は「朝彦親王伝 維新史を動かした皇魁」(勉誠出版 2011年刊)で真木和泉が最後の交渉のために中川宮邸を訪れたとしている。果たして事実だろうか?これだけ警備の厳しい中、真木が中川宮邸を訪問できたとは考え難い。続いて「大島吉之助入来之事」とある。大島吉之助とは西郷吉之助であり後の西郷隆盛である。西郷は宮の長州討伐に対する決意を確認するために訪れたのであろう。その後、「薩藩両人有間藩両人土藩一人入来」は長人入京の件について御勇断を迫るものであったが、明日(17日)に一橋慶喜公に伺った後に二条関白、議奏・伝奏にへ申し聞かせると回答している。朝廷は既に幕府に武力行使委任しているため、宮が直接返答できるものではなかった。しかし薩摩藩は宮から一橋慶喜に対して武力行使の圧力をかけるように仕向けたのでもある。さらに「以井上大和従 公申越シ儀」とは、慶喜が老中を使いとして伏見に勅使を送る件を実行しないことに同意して欲しいというお願いである。これは前日の山階宮の勅使の続きでもある。親王は同意し署名している。「入夜内府公ヨリ関白殿之書面被廻」とあるのは、先程の勅使派遣の中止を求める署名に対する二条関白から見合わせの旨の返書であり、山階宮へ廻している。
7月17日早朝、宮は前日の勅使派遣中止について近衛内大臣に書を送っている。近衛内大臣も返書を送っている。そして未刻(午後2時)に参内し、二条関白、徳大寺右大臣、中務卿幟仁親王、有栖川宮熾仁親王、山階宮、近衛内大臣と会し、夕刻より一橋慶喜を交えて長人入京問題について協議する。その後、二条関白と共に二度にわたり主上に面会し、「今日ニモ変事難計旨申入」ている。宮が退朝したのは18日の巳刻(午前10時)であった。
少し時間を遡り長州側の動きを見てみよう。幕府側の追討の意志が固まりつつあることを察知し、7月17日石清水八幡宮社畔の益田右衛門介の営所で会議を開催している。その内容については、馬屋原二郎演述の「元治甲子禁門事変実歴談」(防長学友会 1913年刊)に、南貞助の談話として詳しく記されている。 会合は午後2時か3時頃より始まり、諸手の大将格が集まり凡そ20名位であった。開口一番来嶋は進軍の準備が整っているかと一座に問い掛けたが、誰からも回答がなかった。来嶋は怒気を含み、今や闕下に迫り君側の姦を除かんとするに当り進撃を躊躇するとは何たる事かと続けた。久坂は、素より干戈を以て清側の手段を採るべき覚悟はあるものの時期尚到来せざると答え、元来君冤を雪かんとは嘆願に嘆願を兼ねることであり、我より手を出し戦闘を開始することは素志にあらずと主張している。その上で世子の到着を待ち進撃すべきか否かを決すべしとした。来嶋は、世子の来着を待ちその上で進撃を中止すれば臣子の義に於いて忍ぶべからざる所なりと云い、来着前の進撃を主張した。再び久坂は、現在の兵力で京に進撃しても後援がないこと、未だ進撃の準備が万全でないこと、さらに必勝の計画がないことを挙げ暫く戦機の熟するを待つべきと云った。来嶋は久坂を指差し卑怯者、医者坊主と罵り、諸君が身命を惜しみ躊躇するならばここに留まれ、自分の一手でも君側の姦を攘除するといい席を立った。寺島や入江は憤慨していたものの終始沈黙していた。しかし真木和泉やその他の浪士が来嶋に賛同したため進撃に決した。ここで馬屋原は南に、真木がこの会議で「形は尊氏に似るも心は楠公なり」と云う言葉を使ったかを確認している。南の記憶では京の長州藩邸では聞いたが、この会議ではこの言葉を聞いていないと答えているのが興味深い。
「元治甲子禁門事変実歴談」には入江九一の弟・野村靖が太田市之進から聞いた話を追懐録として掲載している。会議の内容は大同小異であるが、最終的に久坂は真木に意見を求めたところ、真木は「来嶋君に同意を表す」と述べたことで進撃が決したとしている。また会議終了後の帰路、永訣の期とし久坂は太田、入江と水杯を献酬し相別れたとしている。このように7月17日の会議は年長者の来嶋又兵衛の発案に真木和泉が同意したことで進撃に決した訳である。久坂玄瑞等はこれに抗したものの最終的には同意せざるを得なかった。天王山は18日七つ時(午後4時)、天龍寺は九つ時(午前0時)そして伏見は四つ時(午後10時)というの進撃の手筈も定まった。
進撃の準備と共に「元治元子七月」の日付で、益田右衛門介、福原越後、国司信濃連署の上書を始め複数の書面を用意している。「孝明天皇紀 第五」(平安神宮 1969年刊)には「官武通紀」(「続日本史籍叢書 官武通紀 二」(東京大学出版会 1913年発行 1976年覆刻))の「松平大膳大夫家老益田右衛門介等ヨリ松平肥後守九門外ヘ斥退天誅ヲ受候様被仰付度品々ニ付指出候願書并家来共嘆願書写」として掲載している。ここでは「何卒肥後守義早々九門内御逐払洛外へ成トモ引退尋常天誅ヲ請候様被仰付」とあるように、既に敵を会津藩に絞り込んでいることが分かる。これは「官武通紀 二」の巻四から巻六までの闕下騒擾始末ではなく巻九の長州始末一の第廿二に掲載されている。なお、「官武通紀」と「防長回天史」(「修訂 防長回天史 第四編上 五」(マツノ書店 1994年覆刻))には幕府に提出したもの以外に、三家老連署で諸藩に投じた別の書も残されている。その宛先は津和野、小田原、宮津、浜田、膳所、水口であった。
三家老連署に続いて別紙願書として差出人が長州浪士 濱忠太郎 入江九一の書がある。「官武通紀」の注には「防長回天史ニヨルニ、此書ハ諸藩邸ニ投ジタルモノナリ」とあり、入江九一の署名にも「回天史入江九一ノ名ナシ」としている。確かに石清水八幡宮での会議以降に、この書が記されたならば好んで入江九一が署名することはないだろうし久坂玄瑞の変名も見当たらない。「防長回天史」では上記の通り「元治元甲子年七月十八日」付の書面は、長門国浪士 濱忠太郎名になっているが、これとは別に、「元治元子七月」付で、濱忠太郎、入江九一連署で作成された幕府への上書も存在している。
さらに別紙として長州浪士中名義の書も用意されている。こちらは前のニ書より具体的な罪状を挙げ糾弾している。「尤甚敷に至候ては、去月五日の夜遂に兵勢を繰出し、藩邸を取囲み、且旅宿等に押入、多人数殺害縛収、所在家財衣服等迄盗取」とあるのは池田屋事件のことである。
再び、7月18日の夜に話しを戻す。諸藩に投じられた長州側の書面を携え有栖川宮父子が戌の刻(午後8時)に参内している。また中山忠能、大炊御門家信、正親町実徳、橋本実麗等も同様に投書を懐に入れ集まっている。議奏の正親町三条実愛、柳原光愛、六條有容、広橋光成、阿野公誠、久世通煕そして伝奏の坊城俊克、飛鳥井雅典、野宮定功が召されて対応にあたった。中山は松平容保を凝華洞より追い出すこと請い、橋本は宮門の衛士に命じて容保の参内を阻止しようとした。
異変を察した中川宮は京都守護職・松平容保に急報し、子の刻(午前0時)に参内している。宮が参内すると、有栖川宮父子を中心とした親長州派が会津藩追放の勅命を降ろそうとしていた。町田明広氏は「禁門の変における薩摩藩の動向」において、長州藩と鳥取藩(因州)が中心となり岡山藩(備前)と加賀藩と通じたクーデターと捉えている。その計画とは有栖川宮幟仁親王が中心となり、親長州派の延臣が数十人参内し時勢の切迫を奉聞し長州藩に対して寛典な処置を求め、長州藩もまた哀訴を申し立てる。鷹司輔熙等の幽居中の延臣及び諸侯に書面を送付する。そして因州、備前、加賀の兵が四門を守衛させ、中川宮の参内を停止した上で、会津追討の勅命を降し開戦に及ぶという筋書きであった。 中川宮から通報を受けた容保は一橋慶喜と二条関白に報せを送っている。慶喜には伝奏からも至急参内の命が入り従うもの僅か2・3人で参内している。ただし「徳川慶喜公伝」(「東洋文庫 徳川慶喜公伝 3」(平凡社 1967年刊))では触れられていないが、「朝彦親王日記」によれば慶喜は何故か遅刻している。到着した慶喜は長州藩の上書を読み、開戦が必至であることを理解した。この時伏見を進撃した福原軍と交戦状態に入った報せが早馬で届けられ、大小の砲音が遠雷のように聞こえ始めた。この時御召により御前に参り、「速に誅伐すべし」の勅語を賜っている。これにて長州討伐の勅命「長州脱藩士等挙動頗差迫、既開兵端之由相聞、速総督以下在京諸藩兵士等、尽力征討、弥可輝朝権事」が慶喜以下在京諸藩主に対して降される。
長州討伐の勅命が降る原因となった開戦は、伏見を子の刻(午前0時)に出発した福原軍の斥候が藤森神社あたりに差し掛かった際に生じている。福原軍は伏見長州藩邸を出て京橋を渡り伏見街道に入り、そのまま北上してきたと考えられる。伏見方面の幕府軍は、その陣触によれば「一ノ先 大垣藩、二ノ先 彦根藩、二ノ見 会津藩・桑名藩、遊兵 越前丸岡藩・小倉藩」となっている。「元治甲子禁門事変実歴談」(馬屋原二郎 防長学友会 1913年刊)では、大垣兵と遭遇し長州藩の斥候・乃木初太郎が討死している。中原邦平の「忠正公勤王事蹟」(防長史談会 1911年刊)も同じく大垣兵が藤森神社で攻撃を仕掛けたとしている。藤森には小原主計と高岡三郎兵衛が150~60名を率い、数か所に大篝火を焚き、畳を盾とした第一陣を築いていた。乃木は斥候中に大垣軍と接触し大砲の流弾を胸部に受けて即死している。
各史料共に入京に失敗した福原軍の記述は余り多くない。その中では馬場文英の「元治夢物語-幕末同時代史」(岩波書店 2008年刊)が比較的良く纏まっている。馬場は文政4年(1821)京に生まれ、天保の末年(1843頃)には京攝の間を漂白し、江戸を訪れ世間に起こる事変を筆記してきた。嘉永5年(1852)京に戻り黒田家御用達の馬場家を継ぎ、公文私書・建言論策・戯作落書までを謄写して三万葉を超える蔵書となった。甲子戦争後に黒田家家臣・中村哲蔵に変事の顛末について問われたので、4日間をかけて8月27日に元治物語を纏め中村に贈っている。どのような経緯からか幕府の知るところとなり、慶応元年(1865)5月に京都所司代に呼び出され六角獄舎に囚われる。凡そ十ヶ月間に筑波、大和、但馬等の義挙に関わった者を始め、国事関係の志士と同居している。釈放後には五卿を訪ね三田尻にも赴いている。維新後に夢一文字を加え京の書肆より元治夢物語として発刊された。
「元治夢物語」によると大垣藩の隊長・小原仁兵衛は隊を200人ずつ2つに分け、それぞれを2町(218m)ばかり隔てて配置させていた。長州藩の先鋒が大垣軍の藤森の第一陣に仕掛けたものの応戦しなかったため、そのまま直違橋(京都市伏見区深草直違橋北1丁目 伏水第四橋のあたり)渡り始めている。このタイミングで大垣藩は大砲を打ち出した。福原軍が大砲小銃で反撃を加えると大垣藩の先鋒は大砲を打ち捨てて逃げ出した。福原軍はさらに前進し次ぎの陣の灯りを目掛けて大砲を打ち込んだ。この第二陣は小原仁兵衛が街道の東側に兵を集め民家の畳を盾にした。そして街道の西側には二尺ばかり高くした提灯を置いた。そのため距離を誤って砲撃を加えたので大垣藩は被害を受けずに、ただ福原軍が近づくのを待ち構えた。福原軍は大垣藩の第二陣も逃げ出したと考え警戒心なく近づいていった。丁度、陣所の前を行過ぎる時に福原軍の中央部に向かって大砲を打ち掛け、小銃を隙間なく打ち出したところ福原軍は大崩となった。敗走したと見えた第一陣も再び戦列に戻り鉄砲を打ち掛け、豊後橋(現在の観月橋)守衛の小浜藩も音を聞きつけ、その後部から福原軍に攻撃を仕掛けている。四方から攻撃された福原軍は窮地に陥り、隊長の福原越後も狙撃に遭い、負傷して墨染に下がって行った。さらに竹田街道を守衛していた会津藩、桑名藩そして新選組までもが福原軍殲滅に加わっている。後陣の中村九郎兵衛が墨染で踏ん張ったため福原軍の総崩れは避けられたものの、新見弾蔵等7・8人の若い藩士がこの地で討死している。大垣藩も戦いに疲れ、深追いはせずに陣所に引き上げて行った。程なくして夜が明け渡っていった。墨染まで下がった福原越後は、既に馬上にあることも耐え難くなり、辺りの民家で駕籠を調達し伏見の藩邸へ引き返そうとするが、既に彦根兵によって火が放たれていたため山崎まで退いている。「忠正公勤王事蹟」では、福原軍は萩の士族を主体としているから弱いので、勇将を一人遣して呉れて云うことで、開戦前に嵯峨より太田市之進を送る事となった。しかし太田は一人行っても弱兵ばかりでは仕方がないと辞退している。それではと云うことで、松本鼎三、阿武彦助等20人ばかりを引き連れていったと記されている。進撃以前から福原軍は不安を抱えていたことが分かる。
この頃、京地から砲声がしきりに聞こえるようになる。国司隊の御所突入が始まった頃であろう。中村九郎兵衛は兵300名を集め、再び京への突入を図る。藩邸を出て竹田街道を目指し、伏見城外堀に架かる丹波橋のあたりまで進む。しかし彦根・小浜・大垣・会津等が守りを固めている様を見て、ここを突破して京地で戦闘することは不可能と考え、鳥羽街道に変更するも彦根藩に追撃されさらに西の横大路村まで逃れている。ここから山崎を目指した事は、「防長回天史」(「修訂 防長回天史 第四編上 五」(マツノ書店 1994年覆刻))の記述と一致する。
「元治夢物語」の編者である徳田武氏は解説の中で、小原仁兵衛門が二尺高い提灯を掲げたという戦術に対しては疑問を呈している。「甲子雑録」(「日本史籍叢書 甲子雑録 二」(東京大学出版会 1917年発行 1984年覆刻))では「戸田家用意ニ提灯篝火等打消し人数を山の手へ隠し長州勢押来候道筋え押太鼓之者計差出し道の傍ニて為打候処右太鼓を敵方より的ニ致し砲発し玉薬多分費候比合見計一度ニ打立候付暫時ニ切崩し首九級を討取内一人ハ新見弾正(新見弾蔵?)一人ハ福原越後家臣と有之」とあることから提灯の灯を消して太鼓の音で相手を撹乱したことが分かる。当日、馬場は伏見まで見物に出かけているとは考えられないので、恐らく何処かの史料を元にして記述したのであろう。
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