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京都御苑 凝華洞跡 その4



京都御苑 凝華洞跡(きょうとぎょえん ぎょうかどうあと)その4 2010年1月17日訪問

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京都御苑 凝華洞跡 建礼門側からの眺め

 京都御苑 凝華洞跡 その3では元治元年(1864)7月17日までの緊迫した状況を書いてきた。この項では薩摩藩の動向について見て行く。
 朝廷内の動きは既に書いてきたように、長州藩を同情する者、あるいは武力衝突回避を望む者が下級公家を中心に増えてきた。これに対して諸藩はどのように捉えていただろうか?まず京都守護職の会津藩と京都所司代の桑名藩は長州藩討伐すべしとの強硬論派であった。これは八月十八日以降の政治情勢を継続し、なおかつ京都の治安を維持する役割を担っている立場の上からは当然の発言であろう。
 次に重要なのは薩摩藩の動向である。一年前の八月十八日の政変では会津藩と連携し長州藩を蹴落としている。その時には京にいなかった西郷隆盛が、今回は京における薩摩の中心人物となっている。西郷は文久2年(1862)春の島津久光の率兵上京に際して、重要な命令違反を犯したため、6月に徳之島、そして7月に沖永良部に流されている。この罪が赦され島を出たのは元治元年(1864)2月22日のことであった。同月28日には上之国の自宅に戻っているが、遠島生活により足腰が立たなくなっていた。それでも京都に入ったのは3月14日のことである。この後、大阪に移動することがあったものの、甲子戦争までの4ヶ月間、西郷は京都の政局の中心にあった。
 西郷は当初、長州藩兵の京都集結を長州藩と会津藩の私闘と捉えていた。6月25日に国許の大久保利通に送った書簡(「西郷隆盛全集 第一巻」(大和書房 1976年刊) 85)には下記の様に記している。

此の度の戦争は全く長・会の私闘に御座候間、無名の軍を動かし候場合にこれなく、誠に御遺策の通り禁闕御守護一筋に相守り候外余念なき事に御座候間、左様御含み下さるべく候。いずれ長人の儀、内には外夷の襲来を待ち、外には出軍の次第、実に死地に陥り候窮闘と申すものに御座候えば、定めて破れ立ち候儀かと相考え候。

 「御遺策の通り」とは、島津久光の同年4月18日の退京時の指示である。八月十八日の政変の時の様な薩会関係でなくなっていることが分かる。ただし後半部分から西郷は決して長州に同情している訳でもない事が明白である。この6月25日とは福原越後が伏見に到着した日であり、今後長州藩の圧力が高まってゆく最初の時期でもある。幕府は薩摩藩留守居に淀への出兵を命じているが、これを上記のような理由より拒否している。この西郷の発言には福原越後が池田屋事件の抗議を行う為に上京したという考えがあるようだが、恐らくこのような考えは当時としては一般的なものであり、長会の私闘と見なす諸藩も多かった。
 ところが同月27日の大久保への以下の書簡(「西郷隆盛全集 第一巻」(大和書房 1976年刊) 87)で方針が改められる。

先便申し上げ越し候通り、禁闕御守護丈の処一筋に相勤むべき賦に申し上げ置き候処、今日に到り候処長州暴横相顕われ、有栖川宮並びに正親町等を相かたらい、朝廷を八月十八日巳前に打ち替え、我意を働くのを趣意と相見得申し候次第に御座候得共。いずれ勅命を以て征討の旨相下り候得ば、長と相戦わず候て相叶わさる時機もこれあるべしと決心致し居り候に付き、蒸気船の儀は大阪へ相滞り候ては懸念は勿論の事に御座候間、早々御差返し相成り候方然るべき事と吟味いたし居り候処、既に今日は九門御差固め相成り、長州勢伏見より押し来り候段相聞得、大騒動の事に御座候間、早速援兵御差し出し相成り候処、蒸気船を以て表通り御問い越し相成り候に付き、荒増大意迄申し上げ候間左様御心得下さるべく候。

 このように西郷も、八月十八日の政変以前の政治状況に戻すという長州藩の魂胆が分かり、ついに長州と会津の私闘と見なすことができなくなっている。このような状況は会津と共に薩摩も葬り去らねば出来得ないものであり、自藩にも累が及ぶことが分かったためでもある。薩摩に関わる事には大義も必要ないのかと云わざるを得ないが、それでも西郷はこの時点で新たな長州藩主導のクーデター計画の全貌を見通している。そして西郷は6月末の時点で、長州征討止む無しという判断を下している。
 この6月27日とは、「天下之禍変目睫ニ差迫候ニ付テハ回天之大猛断ヲ以撻伐膺之御大典速不被為挙候ハテハ三千年来宇内ニ卓立タル神州モ髯虜被髪之域ト相成可申ハ秦鏡ヲ以照シ見ルカ如ク不堪杞憂草莽螻蟻之微臣共非分ヲ忘却不暇憚忌諱石清水八幡祠前ニ産籠仕血誠ヲ縷述シ奉奏言候」から始まる建白書が書かれた6月24日よりは少し後の事である。この文面が西郷の決断に与えた影響は大きいものだったかもしれない。またこの日は朝議があり、病身であった松平容保も凝華洞を仮寓として朝議に出席している。

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光明寺 一時は長州藩の屯所となった
2009年12月9日撮影

 諸藩の動きはどのようなものであったか?長州藩は上記の6月24日の建白書を始めとして何通もの書を多くの藩に回送させている。その影響からか薩摩藩と同様に「長会の私闘」という見方もあったが、表立った行動は少なかった。幕府は福原越後が伏見に入って以来、諸藩に守口を下記の様に定めた。

伏見
 一ノ先  戸田采女正氏彬 病気に付重臣名代 大垣藩
 二ノ先  井伊掃部頭直憲          彦根藩
  但シ掃部頭は禁闕を守るべし且桃山は井伊家にて只今より取布べし
 二ノ見  松平肥後守容保          会津藩
      松平越中守定敬          桑名藩
  但し職柄に付方面の諸軍を令し進退を司るべし
伏見長州屋敷へ入る
      蒔田相模守廣孝 京見廻組々頭   備中浅尾藩
 監事   御目付 某
  但二ノ見に在りて諸軍に令を伝ふべし
 遊兵   有馬遠江守道純          越前丸岡藩
      小笠原大膳太夫忠幹        小倉藩
  但伏見勝利の後戸田小笠原有馬の三手地形を爰に備へ其余山崎の奇兵たるべし
 八幡   松平伯耆守宗秀          丹波宮津藩
  但事発せざる前に付八幡山取布事肝要也
山崎
 先手   柳沢甲斐守保中          郡山藩
 二ノ見  藤堂和泉守高猷          津藩
  但し藤堂は八幡も心得べし
 東寺   一橋中納言慶喜
 本陣警護 会津藩
 監軍   御目付 某
 奇兵   細川越中守慶順          久留米藩
天龍寺
 右一ノ先 島津修理太夫茂久         薩摩藩
 右二ノ先 本多主膳正康穰          近江膳所藩
 右二ノ見 松平越前守茂昭          越前藩
 左一ノ先 大久保加賀守忠禮         小田原藩
 左二ノ見 松平壱岐守勝成          豫州松山藩
 洞ヶ峠  九鬼大隅守隆都          丹波綾部藩
      織田山城守信氏          丹波柏原藩
 坂本   栃木近江守綱張          丹波福知山藩
 伏見土州屋敷
 山内土佐守豊範          土佐藩
  市中廻り 市橋下総守長和          近江仁正寺藩
  長州対州屋敷押
       前田筑前守慶寧 名代重役    加賀世子
  監事   御目付 某
   但二ノ見に在りて方面の諸軍へ令を伝ふべし
  遊兵  青山因幡守忠敬          丹波篠山藩
  締り役  前田筑前守慶寧 名代重役    加賀世子
   但三條辺に在りて機に応じ応援すべし
  豊後橋  間部卍治            越前鯖江藩
       小出伊勢守英尚         丹波園部藩
   但宇治橋も心得べし
  老ヶ坂  松平豊前守信篤         丹波亀山藩
  下加茂  仙石讃岐守久利         丹波仙石藩
  上加茂  池田相模守慶徳         因幡藩
  鷹ヶ峰  池田備前守茂政         備前藩
  上加茂より川側手前
       尾州勢
宮門
  中立売門                 築前藩
  蛤門                   会津藩
  蛤門内南                 藤堂藩
  清和院門                 加賀藩
  下立売門                 仙台藩
  堺町門                  越前藩
  寺町門                  肥後藩
  石薬師門                 阿波藩
  今出川門                 久留米藩
  乾門                   薩摩藩
宮門外
  南門前                  水戸藩
  其東                   尾張家老 渡辺飛騨守
  公家門前                 会津藩
  台所門前                 桑名藩
  日門前                  尾州藩
  其南                   紀州藩
  其北                   小田原藩
  猿ヶ辻                  岡藩
  朔平門前                 彦根藩

 これは、「元治甲子禁門事変実歴談」(馬屋原二郎 防長学友会 1913年刊)や「京都守護職始末 旧会津藩老臣の手記2」(山川浩 東洋文庫60 平凡社 1966年刊)などに記されている。

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天龍寺 長州藩国司信濃軍の屯所
2009年12月9日撮影

 西郷が大久保利通に7月4日に送った書簡(「西郷隆盛全集 第一巻」(大和書房 1976年刊) 89)に以下のような各藩と朝廷の様子が記されている。

因州は一向相助け候筋と相見得、備前は些と扣え居り候姿に御座候。其の外の藩は少々ずつ面々見込みと相聞かれ申し候。堂上方の処長州一味の方多く、込り入りたる事に御座候。尹宮も此の節は余程御はまりに相成り、是丈は大幸の事に御座候。

 「御はまり」は心を据えて物事に当るという鹿児島の方言である。また7月9日のやはり大久保への書簡(「西郷隆盛全集 第一巻」(大和書房 1976年刊) 90)でも下記のように記している。

朝廷より御達しの筋奉ぜず候わでは、違勅の名を蒙り候儀に御座候得ば、決して説得致すべき筋もこれなく、別に余論これなく候間、御断りに及ぶべしとの事にて、一向打ち合わせ申さず、因州は長州荷担の巨魁に候得ば、決して取り込みの策も計り難く、当分は、
朝廷遵奉の筋一図に立て込み、少しも動かず候処、外よりは動静計られず、双方より望を掛け、味方に引き入るべしとの事にて、幕府の方よりは十人位にても守衛を出しさえ呉れ候えば、諸藩振りはまり申すべく候に付き、何卒して人数を繰り出し呉るるべきとの訳に御座候得共、初度の挙動容易ならざる義にて、勢いに乗り俄に人数共繰り出し申すべき事態にてはこれなく、拠なく兵を動かし候ものにてこれなく候わでは相済まず、勿論筋合いを慎かにいたす処肝要の儀と存じ奉り候に付き、些も動揺致さず、英気を養い居り候事に御座候。

 繰り返すが、この書簡は7月9日付けであり、幕府に盲目的に追随することなく朝廷の守護に尽くすことに薩摩藩の方針は決していた。つまり朝廷において長州藩追討の勅が出るまでは、薩摩藩は待機状態にあった。そして西郷の国許に対する援兵願いが聞き入れられ、薩摩兵400余人が二本松藩邸に入ったのは7月12日のことであり、これを以って薩摩藩も開戦の準備が整う。

 開戦直前、在京諸藩の重役が三本木に会し長州問題を協議したという話しがある。「七年史」(「続日本史籍協会叢書 七年史 ニ」(東京大学出版会 1904年発行 1978年覆刻))では「當時、在京諸藩の重役等」という表現に留めているので正確な日付が分からない。町田明広氏は「禁門の変における薩摩藩の動向」において7月16日とし、その根拠としているところは「七年史」であり、前後の関係より類推したと思われる。この会合には薩摩藩からは小松帯刀・西郷吉之助・吉井幸輔・海江田武次・奈良原喜左衛門・藤井良節等が参加している。「七年史」に従うと、西郷は二条関白より、「大炊御門以下の言採用すべきにあらす、其方、諸藩と共に、戮力説諭すべし」と命せられ、「長藩の是非曲直は、暫く措て諭ぜざるも、越後等、数多の兵を率ゐ来りて、強請を為すに至りては、断じて赦すべからず、諸君若し意見を異にせらるれば、弊藩特りこれに当らんも辞せざるなり」と主張している。長州藩征討は薩摩藩一藩であっても実行すると断言したことにより諸藩の動向は定まったと云ってもよいだろう。 「大炊御門以下の言」とは、7月12日に提出された大炊御門家信、中山忠能以下56人の上書及び15日に出された橋本實麗、西園寺公望、交野時万、清閑寺豊房、櫛笥隆韶、園基祥、飛鳥井雅望、綾小路有良、豊岡健資、坊城俊政、万里小路通房が連署し、毛利父子の入京を請う書を指す。これ等が朝議において却下されるのが7月15日頃だと考えられるので、三本木会議が実際に行われたとしたら16日であったとしても不自然ではないだろう。「朝彦親王日記」(「日本史籍協会叢書 朝彦親王日記 一」(東京大学出版会 1929年発行 1982年覆刻))には、同じく16日に西郷吉之助は中川宮邸を訪れていることが分かる。西郷は朝議の動向を確認した上で諸藩の重役に向かい演説を行ったとも考えられる。

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天龍寺 甲子戦争で一山全焼となる
2009年12月9日撮影

「京都御苑 凝華洞跡 その4」 の地図





京都御苑 凝華洞跡 その4 のMarker List

No.名称緯度経度
 京都御苑 凝華洞跡 35.0213135.7624
  安政度 御所 35.0246135.7627
  堺町通ライン 17.508167.8815
01  京都御苑 堺町御門 35.0177135.7631
02  京都御苑 九条邸跡 35.018135.7615
03  京都御苑 鷹司邸址 35.0185135.7631
04  京都御苑 賀陽宮邸 35.0199135.7611

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