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京都御苑 土御門殿



京都御苑 土御門殿(きょうとぎょえん つちみかどどの) 2010年1月17日訪問

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京都御苑 土御門殿
正面に京都御所の建春門 左手は大宮御所の築地

 京都御苑の縣井染殿井祐ノ井の三井と白雲神社宗像神社厳島神社の三神社を書く上で、染殿や小一条院などの平安時代の摂家、清華家の邸宅が現在の御苑の敷地内にあったことについて書いてきた。これ以外にも御苑内には土御門殿や枇杷殿の邸宅跡を示す案内板が設置されている。
 土御門殿は源雅信が築いた邸宅で、娘の倫子と従三位左京大夫藤原道長が結婚する際に住まわせ、雅信の死後は道長に継承された邸宅である。この土御門殿は、鳥羽天皇、崇徳天皇、近衛天皇の里内裏となった土御門内裏、光厳天皇の里内裏で以後北朝天皇の内裏とされ京都御所の原形となった土御門東洞院殿、さらには具平親王およびその子孫である村上源氏の邸宅であった土御門殿と区別するために、京極殿あるいは上東門第と称する事もある。いずれにしても大内裏の上東門に連なる土御門大路に面して建てられた邸宅が複数存在していたために、このような煩雑な事態となっている。
 平安京の左京一条四坊十六町に位置し、現在の大宮御所北側部分に該当する。もともと1町の敷地であったが、道長の時代に拡張され、南北2町の敷地となっている。すなわち土御門北・近衛南・東京極西・富小路東の地となった。ちなみに道長は東京極大路のさらに東側に寛仁4年(1020)より阿弥陀堂の建設を行っている。これが藤原北家の氏寺・法成寺の始まりである。平安建都1200年を記念して制作された1000分の1の平安京の模型(現在は京都市生涯学習総合センター 京都アスニーにて展示)において土御門殿と法成寺の姿を見ることができる。この模型の作成の契機となった「甦る平安京」展に合わせて出版された「よみがえる平安京」(村井康彦編集 淡交社 1995年刊)において確認することが出来る。これら2つの敷地の合計が凡そ6町に及ぶなど、当時の都に於いて道長の権勢が抜きん出ていたことが分かる。

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京都御苑 土御門殿

 土御門殿を建設し婿に当る道長に邸宅を贈った源雅信は、宇多天皇の皇子である敦実親王の三男として延喜20年(920)に生まれている。つまり宇多源氏の祖となっている。皇族が臣下の籍に降り源氏姓を名乗ったことより、源氏二十一流とも謂われている。嵯峨源氏や清和源氏など武家として繁栄した流派が多い中、宇多源氏は庭田家、綾小路家、五辻家、大原家、慈光寺家などの公家華族として繁栄した他にも武家も多数出ている。雅信の四男・扶義の子孫からは佐々木氏が生まれ、近江国を本貫として繁栄している。その嫡流は六角氏や京極氏に分流している。
 雅信は承平6年(936)臣籍に降下して従四位下が与えられている。天慶元年(938)に侍従となり、天暦5年(951)には参議に任ぜられている。円融天皇が安和2年(969)に即位するとその信任を得て急速な昇進を遂げている。天禄元年(970)中納言、同3年(972)大納言となり、貞元2年(977)に右大臣、同3年(978)には左大臣となっている。正暦2年(991)に弟の重信が右大臣に就任すると、雅信が薨去する正暦4年(993)まで兄弟で左右大臣を務めている。さらに没後には、正一位が追贈されている。このような雅信の昇進には雅信の実直な性格以外にも、円融天皇の藤原氏に対する牽制の意図があったことは明らかである。すなわち雅信を用いることで、藤原頼忠と兼家を押さえ込み、自らの親政へと導く意思があったと考えられる。
 藤原道長は雅信の政治的に対立関係にある道兼の三男であり、既に兄の道隆や道兼らがいる以上は出世の望みは薄いと見られていた。道長から倫子への求婚に対して雅信が消極的であったのにはそのような背景があった。それにも拘らず倫子の生母で正室の穆子の計らいで、永延元年(987)道長を婿に迎えている。この結婚がもたらしたものは、藤原兼家と源雅信の政治的緊張緩和、そして円融天皇の信任を受け朝廷の中心的地位にいる雅信が有した土御門邸をはじめとする財産が道長の政治的そして経済的な基盤形成につながったことである。しかし一番重要なことは、倫子の長女・彰子が一条天皇、次女の妍子が三条天皇、そして四女の威子の後一条天皇の中宮となり、さらに六女の嬉子も後朱雀天皇の東宮妃となったことであろう。三代に亘る外戚関係を道長が得たことこそが後の繁栄の基となっている。

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京都御苑 土御門殿
清和院門 このあたりは土御門殿の内側だったと考えられる

 「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 初版第4刷1993年刊)は、源雅信が婿の藤原道長に贈ったとしているのに対して、太田静六著「寝殿造の研究」(吉川弘文館 1987年刊)と「平安京提要」(角川書店 1994年刊)では、この地には雅信の弟である右大臣源重信の邸宅があったとし、倫子の叔父にあたった関係で道長が引き継ぐこととなったと推測している。さらに南側の一条四坊十五町が土御門殿に加えられたのは長徳2~3年(996~7)の頃だとされている。これは道長の姉の東三条院藤原詮子の御所(里邸)として使用したためでもある。東三条殿は正暦元年(990)の兼家の死後、本院を詮子に南院は後を継いで関白となった嫡男道隆に継承されている。しかし長徳元年(995)に道隆も没すると、東三条院詮子が全てを所有することとなる。
 詮子に続き道長の長女・彰子が里邸として使用し、寛弘5年(1008)に敦成親王(後の後一条天皇)、翌6年(1009)に敦良親王(後の後朱雀天皇)を出産している。なお後に彰子が女院となる際、土御門殿の別名の上東門第にちなんで上東門院と称している。長和5年(1016)7月20日、第1期土御門殿は火災により焼失している。道長の絶頂期に重なったため、2年後の寛仁2年(1018)には豪華絢爛を極めた邸宅が完成している。万寿2年(1025)には道長の六女嬉子が里邸として後冷泉天皇を生み、後一条、後朱雀、後冷泉ら三代の天皇の里内裏となっている。
 万寿4年(1028)の道長の死後、第2期土御門殿は立続け2回の火災に見舞われている。長元4年(1031)12月3日と長久元年(1040)9月9日に焼失している。それぞれ第3期と第4期の土御門殿が再建されているが、天喜2年(1054)12月8日に第4期土御門殿も焼失している。

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京都御苑 土御門殿
仙洞御所北池 2008年5月13日撮影

「京都御苑 土御門殿」 の地図





京都御苑 土御門殿 のMarker List

No.名称緯度経度
 京都御苑 土御門殿 35.0244135.7646
  京都御苑 土御門殿 35.0225135.7661

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