拾翠亭
拾翠亭(しゅうすいてい) 2008年05月17日訪問
金戒光明寺の高麗門を潜り、丸太町通へと出る。岡崎神社前停留所から京都市営バス204号に乗車し、丸太町通を西に進む。5つ目の停留所・裁判所前で下車し、堺町御門より京都行苑へと入る。門を潜るとすぐ左手に九条邸跡に残る九条池が見え、池に架かる高倉橋の向岸にある建物がこれから訪問する拾翠亭である。
九条家は、近衛家・二条家・一条家・鷹司家と共に5家ある摂関家のひとつである。この藤原氏嫡流で公家の家格の頂点となったのは鎌倉時代からである。そして摂関家にあるものは、大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。
平安時代末期、藤原忠通の嫡男である基実が急死する。その子基通がまだ幼少であったことから、弟の基房が永万2年(1166)関白となっている。これにより摂関家として近衛流と松殿流が分立する。さらに平安末期の戦乱により近衛基房・松殿基通ともに失脚し、基房の弟である兼実が関白となったことで、九条流摂関家が成立する。
この3流のうち松殿流は松殿師家が摂政になって以降は摂政・関白を輩出することなく何度も断絶を繰り返して没落している。その結果摂関家として近衛・九条の両流が残る。この基実、基房、兼実の世代の3代後に近衛流摂関家からは、兼平により鷹司家が成立。さらに九条流摂関家からは、道家の子実経および良実により、それぞれ一条家と二条家が分流し、五摂家体制が確立する。
この体制が成立すると摂政・関白にはこの5家の者のみが任じられ、摂政関白職を独占している。
天正13年(1585)羽柴秀吉は近衛前久の猶子となり、藤原朝臣秀吉(近衛秀吉)として関白就任を果たしている。翌年には豊臣姓に改姓し、豊臣朝臣秀吉として関白に残留している。これにより秀吉は豊臣氏を新たな摂関家とし、養子の豊臣秀次を「豊臣朝臣秀次」として関白としている。しかし秀次以降は再び五摂家が摂関の座を独占するようになっている。
慶応元年(1864)の段階で近衛家2862.8石、九条・一条両家が2044石、二条家1708.8石、鷹司家は1500石の家領・家禄が与えられ、他の堂上家よりも経済的にかなり厚遇されていたことが分かる。
孝明天皇は安政5年(1858)40年にわたって朝政を主導してきた前関白鷹司政通の内覧職権を停止している。内覧とは、天皇に奉る文書や、天皇が裁可する文書など一切を先に見ることできる権限である。当初、政通は開国論に立って日米和親条約締結派であったが、若手公卿の批判を受けると一転して攘夷派となる。これが幕府の怒りに触れ、落飾、出家に追い込まれている。鷹司政通の後を継いだ関白九条尚忠も幕府との協調路線を推進し、日米修好通商条約の勅許許可を求めている。同年、幕府協調路線に反発する88人の公卿たちの抗議活動により条約勅許はならなかった。いわゆる廷臣八十八卿列参事件である。更に尚忠が勅許を認めようとしていたことを知った孝明天皇は立腹し、尚忠に対しても内覧職権を停止している。この後、九条尚忠に対する内覧停止は1ヶ月後に解除している。
九条尚忠は復職後も幕府との協調路線を推進し、公武合体運動の一環である和宮降嫁を積極的に推し進めたため尊皇攘夷派から糾弾され、文久2年(1862)6月に関白を辞職、8月には出家し謹慎している。この九条尚忠の後に関白職に就いたのは、薩摩藩と関係が深い近衛忠煕であったが、尊王攘夷派の台頭により職を辞し、文久3年(1863)には鷹司輔煕に関白職は移っている。同年に起きた八月十八日の政変以降は、三条らの帰京運動を行ったため長州派と見做され、同年12月には島津久光の建言により輔煕は関白を免ぜられている。そして二条斉敬が関白職に就いている。慶応3年(1867)12月9日の王政復古の大号令により、天皇親政が宣言され摂関は廃止される。これに伴い二条斉敬が最後の関白、人臣としては最後の摂政となる。
このようにわずか幕末の10年間に、関白職は鷹司政通・九条尚忠・近衛忠熙・鷹司輔熙・二条斉敬と五摂家の中を巡っている。
日文研に所蔵されている幕末の文久3年(1863)に刊行された内裏圖には五摂家が御所の周りに配置されている状況が分かる。九条殿と鷹司殿は堺町御門を挟んで並ぶ。この二家の敷地は非常に大きく、北側は現在の下立売御門あたりまであったと思われる。一条殿は御所の西北にある乾門の南にあり、近衛殿は二条殿の東北、そして二条殿は京都御苑の外側、現在の同志社女子高校のあたりにあったと思われる。
拾翠亭と九条池は、九条殿の広大な敷地の南に建てられたものであろう。拾翠亭は安永7年(1778)頃に茶室として建てられた二階建ての数奇屋風書院造の建築である。1階には池に面する東側に広縁が設けられ、2階も東山の眺望を得るような構成となっている。
ここは3月から12月までの金曜日と土曜日のみが公開日となっている。閑院宮邸、仙洞御所、京都御所そして京都御所を見学した日には公開されていないため、この日に改めて訪れている。
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