聖護院門跡
本山修験宗総本山 聖護院門跡(しょうごいんもんぜき) 2008年05月17日訪問
熊野神社の境内を出て、東山丸太町の交差点を東側に渡り、丸太町通の一本北側の道、金戒光明寺へと続く春日上通を東に100メートルも進まぬうちに、築地塀に囲まれた大きな地所が現れる。ここが聖護院門跡である。
聖護院の創建は、熊野神社の項で既に触れたように、寛治4年(1090)増誉大僧正が白河上皇から熊野三山検校を任命されると同時に賜った聖体護持の2字を取った聖護院である。
増誉大僧正は長元5年(1032)に大納言藤原経輔の子として京に生まれている。その後、6歳で園城寺(三井寺)の乗延に師事し、行円の下で得度、そして延久元年(1069)行観から灌頂を受け、密教の阿遮梨となった天台宗の僧である。顕教や密教、大峰山や葛城山での山岳修行を行い修験道までを併せ学んだと伝えられている。
承保元年(1074)朝廷より権少僧都に任じられ、白河上皇に仕え健康安穏を祈る護持僧となる。翌承保2年(1075)には、法印大和尚位に叙せられている。そして応徳3年(1086)長年護持僧を務めたことへの報いとして、権大僧都に任じられている。さらに寛治元年(1087)には、堀川天皇の護持僧となっている。
そして寛治四年(1090)、白河上皇の熊野山行幸に際し、増誉は先達に任じられる。無事にこの勤めを果たしたことによって、初めて設けられた熊野三山検校に補任される。そして増誉は、円珍が岩倉の長谷に創建したとされている常光寺を下賜され、「天皇をお守りする」という意味の聖体護持の寺として聖護院と改名する。
増誉はこの後も引き続いて重用され、寛治8年(1094)四天王寺の別当職、永長元年(1096)に権僧正に昇格、承徳2年(1098)広隆寺の別当職、康和2年(1100)に園城寺の長吏、同4年(1102)に正僧正となり法成寺の執印に補任されている。そして特筆すべきこととして、同5年正月堀河天皇の妃茨子が急死した時、宮中で祈祷し一時的に蘇生させたという験力を現している。
長治2年(1105)74歳の時、天台宗の最高位たる天台座主職に任じられるが、比叡山延暦寺の反対にあい、翌日辞職している。同年朝廷は増誉に大僧正位と輦車の許しを授けている。内裏の中への乗り入れが厳禁であるところを乗り物によって入ることが許されている。このように、およそ僧位僧階の最高位に上り詰めた増誉は、この後も尊勝寺などの十三大寺の別当職に任じられ、永久4年(1116)85歳で遷化する。
増誉がこれほどまで出世できた理由は、最初に触れたように権大納言・藤原経輔の子であり、藤原道長の兄道隆の曾孫にあたる出自であったからとも言える。藤原北家本流は道長の子孫によって継承されるが、増誉もまた藤原北家道隆流に属する名門貴族出身であったからこそ、藤原氏の力を背景に僧侶としては歴史上稀に見るほど出世栄達を極めることができた。
初代門主・増誉の遷化から約100年経ち、後白河上皇の時代となった建仁2年(1202)上皇の皇子・静恵法親王が宮門跡として聖護院に入寺され、第4代門主となっている。
もともと親王は熊野に所領を持っていたため、聖護院と熊野の関係はさらに密なものとなる。静恵法親王は長寛2年(1164)後白河上皇の第8皇子として生まれる。天台宗聖護院の3代門主・覚忠の門に入り、建久2年(1191)親王宣下を受ける。同3年(1192)浄妙寺別当、同7年(1196)園城寺の長吏に任じられる。そして建仁2年(1202)宮門跡として聖護院に入寺、第4代門主となるが翌3年(1203)40歳の若さで亡くなる。
聖護院は明治維新までの37代門主のうち、25代は皇室より、そして12代は摂家より門跡となられるという皇室との結びつきの強い寺院となっていく。それと共に、熊野の修験組織をまとめ上げ、熊野三山検校として修験道の重要寺院としての位置づけを確固たるものとしている。
聖護院もまた応仁の乱(応仁元年(1467)~文明9年(1477))で兵火を受け焼失すると、常光寺の旧地でもある岩倉の長谷へ移る。文明13年(1481)日野富子と不和になった足利義政は、聖護院に入寺するため本格的な堂舎の整備を行うが、同19年(1487)に焼失する。豊臣秀吉は院地を洛中 烏丸上立売烏丸上立売御所八幡町に移し造営するが、元和6年(1620)火災に見舞われ焼失する。一度は再建されたが延宝3年(1675)再び火災に類焼する。そして延宝4年(1676)後水尾天皇の皇子・道寛法親王の時に現在地に戻る。
江戸時代後期には、天明8年(1788)には団栗焼けと呼ばれている天明の大火、安政元年(1854)の内裏炎上に際し、光格天皇と孝明天皇が一時期仮宮として使用していたため、聖護院旧仮皇居として国の史跡に指定されている。現在でも聖護院の門前に碑が建つ。当時の聖護院門跡は光格天皇と同母弟の盈仁法親王であり、当院と皇室は深い関係であった。ちなみに天明の大火の後に、裏松固禅の大内裏図考證に基づいき古式に則った御所が再建され、現在の我々の見る京都御所の姿となる。
明治元年(1868)の神仏分離令に続き、明治5年(1872)には修験道廃止令が発布され、天台寺門宗に所属することになったが、第二次世界大戦後の昭和21年(1946)修験宗を設立して天台寺門宗から独立している。
この記事へのコメントはありません。