須賀神社
須賀神社(すがじんじゃ) 2008年05月17日訪問
積善院の道路を挟んで南側に須賀神社がある。
祭神は素戔嗚尊、櫛稲田比売命を主神に久那斗神、八衢比古神、八衢比売神を加え、五柱を祀る。
貞観11年(869)現在の平安神宮内にある西天王塚辺りに、西天王社として創建されたのが始まり。現在の岡崎神社である東天王社と一対をなしていた。その後、平安時代末期の永治元年(1141)美福門院が白河の地に建てた歓喜光院の鎮守として創祀された。
美福門院は永久5年(1117)藤原長実の子・藤原得子として生まれている。類まれな美貌の持ち主と言われ、長承3年(1134)頃には鳥羽上皇に召され、大いに寵愛されている。叡子・暲子(後の八条院)の両内親王を生んだ後、保延5年(1139)皇子躰仁親王を出産。同年のうちに鳥羽院は躰仁親王を崇徳天皇の皇太弟とし、永治元年(1141)崇徳天皇に譲位を迫り、近衛天皇を即位させている。得子も久安5年(1149)に美福門院の院号を宣下され、鳥羽法皇の先立の中宮璋子(待賢門院)を凌ぐ権勢を持つようになる。
病弱であった近衛天皇は久寿2年(1155)に夭折してしまう。美福門院には崇徳上皇の第一皇子の重仁親王と上皇の弟・雅仁親王の第一皇子・守仁王を幼い頃から養子として養育してきた。守仁王は既に仁和寺の覚性法親王の元で出家することが決まっていたため、重仁親王が即位するものだと思われていた。
近衛天皇の死が崇徳上皇や藤原忠実・頼長父子の呪詛によるものとの噂を聞いた鳥羽法皇と美福門院は、雅仁親王を後白河天皇として即位させてしまう。法皇の意図は守仁王(二条天皇)を擁立する事にあり、その後守仁王と法皇と美福門院の末娘姝子内親王との縁談も決められた。
皇位継承から排除された崇徳上皇と、美福門院によって鳥羽法皇から遠ざけられた頼長とその父忠実が結びつき、保元元年(1156)鳥羽院の崩後まもなく、保元の乱が勃発する。美福門院はすでに落飾していたが、平清盛兄弟をも招致し、後白河天皇方の最終的な勝利へ導いた。
保元の乱以後、後白河天皇側近・藤原信西と協議により、後白河天皇に譲位させ、守仁親王の即位を実現させた。しかし二条天皇の即位は信西派・二条天皇親政派・後白河院政派の形成と対立を呼び起こし、平治の乱が勃発する原因となった。
積善院の項で、崇徳上皇側から見た保元の乱とその後の流罪から御霊伝説へ、蓮華王院の項では、平治の乱の後の法住寺殿の成立について書いてきた。保元から平治の間に起きた2つの乱は、鳥羽上皇と崇徳上皇の親子間の不仲、親政と院政の拮抗、院近臣達の暗闘、そして美福門院が守仁王を天皇に即位させようと望んだことにあったとも言える。酷ではあるが、美福門院のささやかな望みもまた院政の崩壊を早め、武士の時代を迎えることに最終的にはつながって行ったとも言えるだろう。
美福門院の建立した歓喜光院は元弘年間(1331~1333)に兵火にかかり消失、再建したものの応仁元年(1467)再び兵火に遇い廃寺となっている。最初の元弘年間の兵火は、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動である元弘の変によるものであろう。元弘3年(1333)足利尊氏は佐々木道誉や赤松則村らと呼応して六波羅探題を攻め落とし、京都を制圧する。光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇を捕えている。須賀神社は、その兵火を避けて元弘2年(1332)真如堂の北側 吉田神楽岡に遷座している。延元元年(1336)に社殿を造営し、慶安元年(1648)吉田大元宮西下へ社殿を造営し遷座している。そして大正13年(1924)旧御旅所の氏子の地である現在地に社殿を造営して再び遷座する。
崇徳上皇を排除した美福門院は歓喜光院を建立し、その鎮守社を須賀神社とした。その須賀神社の道路の向かいにある積善院に、粟田宮にあった崇徳院地蔵が移される。元々別の地にあったものが、およそ800年後に道路の北と南に別れて建ち並ぶ。
なお昭和39年(1964)に交通神社を併祀している。
2月2日と3日の節分祭には、烏帽子水干姿で顔を覆った懸想文売りが、梅の枝に文を付けた懸想文を社頭で授与する。昔の農民は字が書ける人が少なかったので懸想文などは代筆が必要だった。それを御所に仕えるお公家さんが代行した。旧暦の2月は、支払いなどで一番お金のいる時期であったので、代筆業がいつしか懸想文売りにと変化していったのであろう。この懸想文を鏡台やタンスに入れると、容姿端麗になり良縁が舞い込み、衣装も増えると言われている。2日は縁結びの神に因み、翁と媼姿の追儺招福の豆まきが行われる。
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