聖護院・岡崎の町並み
聖護院・岡崎の町並み(しょうごいん・おかざきのまちなみ) 2008年05月17日訪問
熊野神社から聖護院にかけては聖護院の森と呼ばれていた。平安神宮の北側に市立錦林小学校がある。錦林は「きんりん」と読み、紅葉の頃は錦の織物の様に美しいことから名付けられている。ちなみに錦林の名を持つ小学校は現在3校あり、岡崎入江町、鹿ヶ谷宮ノ前町、吉田上阿達町とかなり広域に渡っている。また市バスの錦林車庫前は浄土寺真如町にある。これらより、錦林という地名が吉田山と真如堂・金戒光明寺の周辺の森に使用されていることが分かる。
日文研に収蔵されている慶応4年(1868)に作られた古地図・大成京細見繪圖を見ても、鴨川を越えた丸太町通から北側は距離感もない、いわゆる周辺部と言う表現となっている。加州ヤシキ、彦根ヤシキという藩邸の北側に木々に囲まれた聖護院が描かれ、その周りは田畑となっている。岡竒村と書かれた部分には民家の屋根がすこし見え、その奥に若王子と描かれている。当時の聖護院・岡崎の印象がこのような空間認識から良く分かる。
また明治12年(1879)に作られた京都府区組分細図には、東丸太丁の突き当たり熊野神社が描かれ、その奥に聖護院、下岡崎、そして若王子と連なり、その間は畦道が描かれている。そして熊野神社の北側には明治5年(1872)に開場された京都牧畜場が見える。明治天皇は、明治10年(1877)に行われた関西行幸の際に訪れている。荒神橋の東詰に建つ京都大学東南アジア研究センタ-に石碑が残されている。この地は、文久4年(1864)に会津藩の城東調練場になり、藩兵の洋式調練が行われている。鳥羽伏見の戦の後は軍務官の調練場となり、官軍の東征に従う在京40藩諸藩兵の洋式調練が行われる。慶応4年(1868)5月25日には初めての政府主催の楠公祭がこの河東操練場で行われる。建武3年(1336)のこの日、楠木正成は湊川の戦いで足利尊氏軍に破れて自害している。そして7月10日・11日には鳥羽伏見の戦以来の官軍戦歿者を祀っている。京都での招魂社の歴史については霊山墓地の項で触れているので、ご興味のある方はご参照ください。 この地はその後に牧畜場となり、明治13年(1880)には民間に払い下げられている。当時の牧畜場の姿は、京都 北山アーカイブスの旧一号書庫写真資料の中で見ることが出来る。 幕末の頃、熊野神社の南側に越前松平屋敷が、左京税務署、京都市武道センター、旧武徳殿には彦根井伊屋敷が、そして市立錦林小学校の地に土佐山内屋敷があった。
手元にあった「京都時代MAP幕末・維新編」(2003年 新創社)を見ると、当時の熊野神社が現在より南側に広かったことが分る。熊野神社の項でも触れたように、碁盤の目状の道路が敷かれ、明治45年(1912)と昭和2年(1927)の2度にわたり、市電軌道敷設により社域をせばめられたというのは、このことであったのだろう。ところで、この熊野神社の南側には梅林があった。花洛名勝図会には梅林茶店という説明があり、数株の梅樹を庭に植えた茶屋が西鳥居前の参道の左右にあったことが記されている。さらに梅と共に萩も植えられていたため、初春は清香が四方に香り、秋日は萩の花を楽しむことができたと言われている。花洛名勝図会には梅林茶店の図会も残されている。先の京都府区組分細図にも、東丸太丁の入口である鴨川に面して鳥居が描かれているので、ここから参道となっていたのであろう。「京都時代MAP幕末・維新編」に描かれている梅林は参道の南にあった茶屋で、現在の京都大学熊野寮のあたりであろう。
hiropi1700さんの書かれている 京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内(http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1700/20640279.html : リンク先が無くなりました ) では、熊野神社の社域が狭くなっていく経過が記されている。 まず明治26年(1893)丸太町通の縦断工事により、境内南側の約三分の一が失われる。次に明治45年(1912)から大正2年(1913)にかけて行われた市電丸太町線の工事により、再び社域の南側を失う。そして昭和2年(1927)市電東山線により今度は境内の東側の東大路通が拡張される。これによって明治維新直後に比べて約三分の一の面積まで縮小している。
さて聖護院と言えば、聖護院大根と八ツ橋を思い浮かべる。
文政年間(1818~1829)尾張国から金戒光明寺に大根が奉納され、聖護院の農家がその大根を貰い受けている。元々は長大根だったが、長年育てている間に丸型の品種が育成されるようになった。これが聖護院大根の始まりと言われている。甘くて苦味が少なく煮くずれしにくいのが特徴。森と畑に囲まれたこの地を良く現している名産品である。
八ツ橋は上新粉、砂糖、肉桂・シナモンの粉末を混ぜた生地を薄く焼き上げた堅焼きせんべいの一種。形は箏あるいは橋を模し、長軸方向が湾曲した長方形をしている。焼かずに蒸しあげたものを生八ツ橋と呼ぶ。
本家西尾八ッ橋は、橋に杜若の包装紙を使っていたように、伊勢物語の「かきつばた」の舞台となった三河国八ツ橋の故事に因んでいる。これに対して、聖護院八ツ橋総本店は近世筝曲の開祖と呼ばれる八橋検校に由来している。寛文3年(1663)頃から八橋検校は京都に移住し、貞享2年(1685)亡くなり、金戒光明寺の塔頭・常光院に葬られている。本家西尾八ッ橋も聖護院八ツ橋総本店もおよそ300年の歴史を持っている老舗である。本家西尾八ッ橋は聖護院の森に八ッ橋屋梅林茶店を開き、元禄2年(1689)より八ツ橋を販売している。聖護院八ツ橋総本店も同じ元禄2年(1689)黒谷参道の聖護院の森の茶店で販売を始めている。
熊野神社には八ツ橋発祥地の石碑と共に西尾為治の銅像が建つ。
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