京都御苑 凝華洞跡 その2
京都御苑 凝華洞跡(きょうとぎょえん ぎょうかどうあと)その2 2010年1月17日訪問
京都御苑 凝華洞跡では、文久3年(1863)の八月十八日の政変以降の政治体制の変化と長州藩の活動、特に雪冤運動について見て行った。時間軸では文久3年8月から元治元年(1864)3月頃までの8か月間に当たる。この項では甲子戦争に至る残りの4か月間の動きについて書いて行く。ほとんど凝華洞跡とは関係のないことであるが、ここで記しておかないと次の甲子戦争に繋がって行かないので、もう少しお付き合いをお願いいたします。
奉勅始末記を朝廷に奉ったものの入京を拒絶された井原主計は、朝廷からの帰国命令に抗し伏見に留まった。藩庁も井原の自尽を心配し時山直八を送り井原の慰諭を行っている。正月21日、井原は藩命に従い大阪に下り、宍戸、北條そして久坂等と今後について協議している。この時、井原は病を得ていたため、病を養ってからの帰藩すべきとなった。なお「防長回天史」(「修訂 防長回天史 第四編上 五」(マツノ書店 1994年覆刻))を含め井原主計の山口帰藩時期を記した史料を見つけることができなかった。恐らく藤森神社で朝使に謁したことでその役割を果たし、それ以降雪冤運動としては特筆すべきことがなかったということであろう。
長州藩の雪冤運動は、嘆願書を携えた家老・根来上総の上阪と家老・井原主計による奉勅始末記の朝廷への提出を行ったものの、最終的には入京して自ら陳情することはできなかった。このような平和的な雪冤運動とともに進発論も出ていた。文久3年(1863)9月15日、藩主・毛利慶親は自ら三田尻に赴き、七卿を訪問している。「防長回天史」によると、翌16日の毛利筑前、益田右衛門介等重臣との会議で、慶親は世子・定廣の上京を決定している。そして10月10日には、久坂玄瑞と来嶋又兵衛を世子上京の随行とすることが明らかになる。
真木和泉は根来上総の陳情が不首尾に終わったことにより、武力を用いて朝廷を奪回する「出師三策」を纏めている。真木は10月22日に三条実美等、六卿(澤宣嘉が生野の変に加わるため、10月2日に離脱している)に「出師三策」を呈している。「七卿西竄始末」(野史台 維新史料叢書 二十(東京大学出版会 1973年覆刻))にも下記の様に記述されている。
真木和泉守、湯田ヨリ三田尻ニ帰リ、會テ計画セシ所ノ三策ノ草稿ヲ呈ス。
これに続いて出師三策が掲載されているが、「此三策文字誤リ多シ未タ善本ヲ得ス姑ク之ヲ録シ他日正本ヲ索メテ之ヲ校訂スヘシ」という注記がある。
三策は上策、中策、下策に分かれ、上策では六卿を擁した世子が五万の兵を率いて上京する。大阪城を奪い、二条城そして彦根城を焼き尽す。東山北陸の道を塞ぐ一方、有栖川宮熾仁親王が越後に進出し会津本国に直接攻撃をかける。世子は嵯峨に陣取り中川宮を弾劾するとともに、鷹司輔煕に秘策を授け、万里小路、烏丸公その他の諸侯を内応させ朝廷を掌握する。圧倒的な軍勢により一気に京から敵対勢力を追い払い、朝廷を奪取する作戦である。
中策では、三軍に分けての上京作戦を提示している。1500人の上軍が先発した5日後に、世子率いる5000人の中軍が進発する。両軍とも嵯峨及び嵐山に陣取る。さらに5日後に下軍1500が山崎へ進む。鷹司関白に八月十八日前後の正邪を糺すことを請う一方、諸侯に使いを送り、長州と合従する勢力を作り出す。会津は怒りて自ら攻撃してくるところを上軍で討ち取る。下軍を3隊に分け、大阪城を奪取し、大阪の南に展開する幕府側の諸侯を討ち、大阪城の東北に出て攪乱する。幕府側の糧道を絶った後に京に入り守る。
下策では進発の部署を定めるが、先ず支藩の藩主が上京して関白・鷹司輔熙に冤を訴え、八月十八日前後の正邪の在るところを請う。つまり最初は穏和手段を用い義に訴えた後に、陣を形成し礼を備えて入朝し会津藩の罪を奏上する。そして少数の兵を用いて八月十八日の政変と同じく朝廷を掌握する。そして京中の幕府側の拠点を襲撃するなどの撹乱作戦を併せて行うこととしている。
真木和泉の「出師三策」は六卿及び有志者達には歓迎されたものの、周布政之助は時期尚早という判断を下している。また桂小五郎、高杉晋作も周布を支持している。このような動きが井原主計の上京計画の裏側で準備されていたことに注目しなければならないだろう。
また、京においても留守居役の乃美織江を始めとし桂小五郎、入江九一等が潜伏し、筑前、因州、備前、対州、水戸等の諸有志将軍上洛後の形勢について意見の交換を行なっている。さらに正親町三条、柳原の諸卿を訪問し、長州藩の今後についての斡旋を依頼してきた。彼らは真木の「出師三策」における長州藩の義に賛同する同情派の形勢を行っていたこととなる。
「孝明天皇紀 第四」(平安神宮 1967年刊)の8月晦日の条に「諸藩に令して藩士の堂上諸家に交通することを禁し予め其人を選ひて氏名を録上せしむ」とある。未だ天誅組の混乱が治まらず、京でも内応者が現われることを警戒しての処置であろう。さらに「孝明天皇紀」には二条家日記に記述されていた別紙名前より、当時京に入っていた諸藩藩士は36藩総計205人で、藩毎に人数は1~2名より十余人までのばらつきがあったことが示されている。「防長回天史」では「邸吏数人の外悉く藩士の帰国を命ぜり」とあるので、留守居並添役の2名のみの滞京しか認められなかったため有志達は変名を用いて潜伏していたというのが実情であった。しかし京での長州を取り巻く情勢が一向に改善しないため、有志達も9月上旬より順次帰藩している。桂小五郎も9月18日に京を発ち帰国している。
久坂玄瑞も八月十八日の政変後、文久3年(1863)9月23日に一度帰国している。同月19日に政務役として京都駐在を命じられたが、実際に京に向かったのは11月8日で井原主計の随行員としてであった。京に入り正親町三条卿に藩主よりの書を齎したが、大阪に下り井原の入京を手伝う一方で上国の情勢を探っていた。
正月24日、政務員となった高杉晋作が進発に踏み切ろうとしている来嶋又兵衛へ毛利父子よりの親書を齎している。武力による雪冤運動の首魁で遊撃軍の総督であった来嶋は、脱藩入京も辞さずという意見の持ち主でもあった。来訪した高杉の穏健な政治態度を大いに罵ったことで、激した高杉は同月28日には藩を脱し京に走っている。2月2日、高杉晋作が大阪に入ると久坂も伏見から移り、宍戸、入江等と会し高杉から世子進発を含めた国情を聞いている。さらに桂と共に高杉の帰国を勧告する。高杉は2月27日には萩に到着したが親戚保監を経て3月29日には野山獄につながれることとなった。この後、野山獄を出獄するのが6月21日だが、その後も自宅謹慎となったため、高杉が甲子戦争に係わることはほとんどなかった。
高杉が帰藩した後も大阪に留まっていた久坂等は、3月3日に国司信濃、来嶋又兵衛が入京せんとする動きを聞き、これを阻止するため3月11日に京を発ち同月19日に山口に戻っている。上国の政情を報告し国司信濃及び遊撃軍士の上京延期を訴え、末家家老を京都に召すことに決する。再び久坂は25日に来嶋又兵衛、高柳龍太郎、河北義次郎等12人とともに山口を発ち、末家家老の上京を請う書を携え京に向かう。来嶋又兵衛に従って50余名の壮士が大阪に集結したため、山口から毛利父子の親書が宍戸、北條、乃美に与えられている。来嶋等12名は上国の情勢観察が託されているが、それ以外の者は帰国すべしという旨であった。4月10日、来嶋等が大阪に到着するや、すぐに京都に入ろうとする。京から桂小五郎、久坂玄瑞、大田市之進等が下阪し入京が否であることを議論したものの、ついに来嶋等は入京を果たしている。このあたりの顛末から来嶋の京での行動は、中原邦平著の「忠正公勤王事蹟」(防長史談会 1911年刊)に記されている。京都守護職・松平容保や島津久光の襲撃計画などを来嶋が考えていたとあるが、いずれも実行されなかったため噂話の域を脱しない。 参預会議の崩壊に伴い、2月28日、山内容堂は最も早く帰国の途についている。そして4月11日に伊達宗城、18日には島津久光、翌19日に松平春嶽が退京している。上洛中の将軍・徳川家茂も5月2日に参内、暇乞いを行い、7日に大阪城に入っている。将軍が大阪湾を出て江戸へ海路で向かったのは5月16日の事であった。文久3年(1863)年末から元治元年(1864)2月までの京都は新しい公議政体への移行が為されるかという期待を抱かせたが、結局参預会議の崩壊とともに一橋慶喜は将軍後見職を免ぜられ禁裏御守衛総督と摂海防禦指揮に就任している。この新しい政治体制に失望した諸侯が京を去っていた事は驚くには値しない。しかしこの諸侯の動きにより、京が再び軍事的な空白地帯に戻って行った。
これを久坂玄瑞が好機と看做し、4月19日に来嶋又兵衛、桂小五郎、寺島忠三郎、入江九一、宍戸左馬介等と大阪藩邸で会し、世子上京について議している。これから5月16日の出京までの間、何度となく討議をしているが、上方での世子上京に賛成するものは久坂と来嶋のみで、桂始め多くのものが慎重であった。久坂は4月22日に書を山口に送り世子進発を訴えている。そして藩論を進発に導くべく、5月15日に寺島と来嶋、16日に品川弥二郎、中村九郎と帰国の途についている。久坂が山口に到着したのは5月27日で、藩主・毛利慶親が世子・定廣に兵を率いて上京することを命じたのが6月4日のことであった。池田屋事件が発生したのが翌6月5日で山口に報が達したのが9日なので、事件が進発の直接的な引き金になったとするのは誤りであろう。しかし吉田稔麿等の死によって長州藩全体が激高した事は間違いない。
「防長回天史」には具体的な各隊の進発状況についての記述が非常に少ない。というよりは第四編上の「第十四章 甲子七月十九日の変」自体も僅か24頁に過ぎない。ここに長州藩の心情が現われているのであろう。
来嶋又兵衛が遊撃軍を率いて進発したのが6月15日、翌16日には佐久間左兵衛、竹内正兵衛等300名を率いて福原越後が出発している。福原は江戸に赴くとされていたので、幕府に対する上書と黒印の軍令書を携帯していた。久坂玄瑞及び真木和泉は総官となり忠勇・集義・八幡・義勇・宣徳・尚義の諸隊300余名を統帥し、16日に三田尻を出航している。そして久坂等が大阪に到着し藩邸に入ったのは21日であった。また翌22日には福原越後が大阪に到着し、25日には伏見に移っている。22日には来嶋又兵衛が淀川を上り既に伏見藩邸に入っている。
24日未明、久坂、真木の諸隊は淀川を遡り前島村(高槻市前島)に上陸し山崎に入り、忠勇隊を天王山、集義一隊・八幡二隊を離宮八幡、宣徳・尚義の諸隊を大念寺、義勇隊を観音寺に配置し天王山及び寶寺を中軍の本陣に定め力士隊をして守らせた。
また26日の夜、京都の長州藩邸に潜伏していた長州藩士及び諸藩士約100名が脱走し、嵯峨の天龍寺に篭った。これを取り締まる為と称し、27日に福原越後は来嶋又兵衛を嵯峨に派遣している。ここにおいて真木和泉の「出師三策」の下策の布陣が完成している。
なお第二発となる福原越後に続いた第三発国司信濃500余名が山口を進発したのは6月24日で、大阪着が7月7日、翌日淀川を上り9日に山崎着、脱藩浪士鎮撫の為と称し7月11日に天龍寺に入っている。なお国司軍の一部、児玉小民部の率いる遊撃軍200余名は出発が遅れ、京に到着したのは7月15日であった。第四発益田右衛門介600余名が山口を発ったのは7月6日で、13日に大阪に着き山崎を経て、15日に男山に駐屯する。そして第五発として7月13日に世子毛利定廣が五卿を伴い出発している。
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